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残響視の令嬢は、割れた夫婦を元には戻さない  作者: 雫石しま


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第14話 割れた皿 


 その日も、白鷺屋は静かだった。

 以前なら、朝から客の声が飛び交っていた店内も、今ではどこか寂しい。

 皐月は陳列棚の前にしゃがみ込み、一枚一枚、丁寧に陶器を磨いていた。

 高価な品ほど、傷をつけないように慎重に扱う。

「……綺麗」

 白い皿の縁を布で拭う。

 細かな金の模様が、朝の光を受けて輝いていた。

 これも、先日の客が買おうか迷っていた品だった。

 皐月が接客し、最後には購入していった。

 けれど。

 そんなことを幸雄や百合子は知らない。

 知ろうともしなかった。

「おい」

 背後から、子供の声がした。

 皐月が振り返る。

 雄一が木の棒を持って立っていた。

「雄一ちゃん?」

「お前、邪魔なんだよ」

「ここは商品があるから、危ないですよ」

「うるさい!」

 雄一が木の棒を振り上げた。

 次の瞬間。

 ドンッ。

「っ……!」

 皐月の足に、棒が当たった。

 鋭い痛みが走る。

「痛……!」

 身体がよろめいた。

 咄嗟に棚へ手を伸ばす。

 けれど。

 皐月の手が触れたのは、置いてあった高価な皿だった。

 ガシャン――。

 乾いた音が店内に響いた。

 皿が床へ落ちる。

 いくつもの破片になって散らばった。

「……」

 皐月は呆然と見つめた。

 白い陶器。

 細かな金彩。

 その美しい皿が、無残に割れている。

「……どうしよう」

 皐月が呟いた。

 そこへ。

「何をしているの!」

 百合子の怒鳴り声が響いた。

「……百合子さん」

 皐月が振り返る。

 百合子は割れた皿を見るなり、顔を真っ赤にした。

「それ、いくらすると思っているの!」

「申し訳ありません。雄一ちゃんが……」

「雄一のせいにするの?」

「違います。私は……」

「あなたが壊したんでしょう!」

 百合子が近づいてくる。

 皐月は後ずさった。

「申し訳ありません」

「謝れば済むと思っているの?」

 百合子の手には、水の入った桶があった。

 次の瞬間。

 バシャッ――!

「……っ!」

 冷たい水が、皐月の頭から全身へ降りかかった。

 着物が一瞬で濡れる。

 髪から水が滴り落ちた。

「……」

 皐月は動かなかった。

 冷たい。

 身体が震える。

 けれど。

 それ以上に。

 胸の奥が、静かだった。

 以前なら泣いていただろう。

 謝って。

 何度も頭を下げて。

 自分が悪いのだと、思い込んでいただろう。

 けれど。

 今日は違った。

 皐月は、自分の足を見た。

 赤く腫れている。

 雄一が叩いた場所だ。

「……」

 そして、割れた皿を見る。

 そのとき。

 店の奥から幸雄が出てきた。

「何の騒ぎだ」

 幸雄の目が、濡れた皐月と床に散らばった皿へ向く。

「皐月さんが皿を割ったのよ」

 百合子が言った。

「雄一くんが……」

「また言い訳するのか」

 幸雄の声が冷たい。

「私は、言い訳では……」

「もういい」

 幸雄は皐月を見た。

 その目に、情はなかった。

「皐月」

「……はい」

「この前の話だ」

 皐月の胸がざわめいた。

「離縁のことだ」

 店内にいる者たちが、息を呑む。

 幸雄は、ためらうことなく言った。

「今日で終わりにしよう」

「……」

「俺たちは、もう夫婦ではいられない」

 皐月は何も言わなかった。

「離縁する」

 その言葉が、店内に響いた。

 百合子は何も言わず、皐月を見ている。

 雄一は嬉しそうに笑った。

「これで、お前出ていくんだろ?」

「……」

 皐月は答えなかった。

 ただ。

 ゆっくりと床へしゃがみ込んだ。

 足が痛い。

 濡れた着物が重い。

 目の前には、割れた皿。

 その破片を、一つ拾う。

 指先が震えた。

 けれど。

 その震えは、悲しみだけではなかった。

 皐月は破片を見つめる。

 綺麗な皿だった。

 大切に扱っていた。

 それなのに。

 一度、床へ落ちれば。

 もう元には戻らない。

 その瞬間。

 皐月の中で、何かが切れた。

 ゆっくり立ち上がる。

 そして。

 割れた皿を両手で持ったまま、幸雄を見た。

 初めてだった。

 皐月が。

 真正面から幸雄を睨みつけたのは。

「……旦那様」

 幸雄がわずかに怯む。

「なんだ」

 皐月は静かに言った。

「割れた皿は」

 一枚の皿を見つめる。

「元には戻りません」

「……」

「どれだけ破片を集めても」

 皐月の声は震えていなかった。

「どれだけ綺麗に繋ぎ合わせても」

 幸雄を見つめる。

「一度割れたものは、元の一枚には戻らないのです」

 店内が静まり返った。

「……何が言いたい」

 幸雄が低く尋ねる。

 皐月は、割れた皿を差し出した。

「これを、旦那様にお返しします」

「……」

「私には、もう必要ありませんから」

 幸雄は皿を受け取った。

 その手が、わずかに震えていた。

 皐月は深く頭を下げた。

「今まで、お世話になりました」

「皐月……」

 幸雄が呼び止めようとする。

 けれど。

 皐月は振り返らなかった。

 濡れた着物の裾を引きずりながら、店の出口へ向かう。

「待ちなさい!」

 百合子の声。

「そのまま出ていくつもり?」

 皐月は足を止めた。

 そして、振り返る。

「はい」

「どこへ行くのよ?」

「……分かりません」

 一瞬だけ、皐月は目を伏せた。

 けれど。

 すぐに顔を上げた。

「でも」

 小さく笑う。

「ここではない場所へ行きます」

 そう言って。

 皐月は白鷺屋を出ていった。

     ◇

 冷たい風が頬を撫でる。

 濡れた着物が肌に張りつく。

 足が痛む。

 それでも。

 皐月は歩いた。

 一歩。

 また一歩。

 振り返らない。

 白鷺屋の看板も。

 幸雄も。

 百合子も。

 もう見なかった。

 胸の中に、恐怖はあった。

 これからどうすればいいのか分からない。

 帰る場所もない。

 けれど。

 それ以上に。

 不思議なほど、胸が軽かった。

 ――離縁した。

 ――私は、もう幸雄さんの妻ではない。

 そう思った瞬間。

 昨日、蔵之介に言われた言葉が蘇る。

 ――横浜へ来ませんか?

 皐月は歩きながら、ぎゅっと手を握った。

「……横浜」

 初めて。

 その言葉を、自分から口にした。

 そしてその頃。

 白鷺屋の店内では、幸雄が手の中の割れた皿を見つめていた。

 割れた皿は。

 もう、元には戻らない。

 そして。

 自分が手放した妻も、白鷺屋の繁栄も。

 もう二度と、以前のようには戻らないのだと。

 幸雄はまだ、知らなかった。

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