第13話 売る女
季節が一つ、移ろった。
白鷺屋の店先には、以前ほど客の姿が見えなくなっていた。
かつては朝から人の出入りが絶えなかった。
海外からの注文が入り、店員たちは忙しそうに品物を包み、帳場では金勘定の音が絶えなかった。
けれど。
最近は違う。
「……今日も、これだけか」
帳場に座った幸雄が、売上帳を睨んでいた。
数字が、少しずつ落ちている。
先月より今月。
今月より、その前の月。
確実に売上が減っていた。
「どうして、こんなに売れないのよ」
百合子も帳簿を覗き込み、苛立った声を上げる。
「以前は、もっと注文が入っていたでしょう?」
「知らない」
「知らないって……」
「客が来ないんだから仕方ないだろ」
幸雄は苛立ったように帳簿を閉じた。
「戦争が終わったわけでもないのに、どうしてだ」
店員たちは何も言わなかった。
けれど、皆、薄々気づいていた。
以前のような勢いがなくなっている。
海外からの注文も減った。
大口の取引も少なくなった。
白鷺屋が頼っていた好景気が、少しずつ陰り始めていた。
◇
「いらっしゃいませ」
店先から声がした。
皐月だった。
今日も幸雄や百合子に言われ、店の手伝いをしている。
客は一人の紳士だった。
店内に並ぶ陶器を眺めている。
「こちらは……?」
「九谷の品でございます」
皐月が答える。
「ずいぶん高価だね」
「はい」
「私には少し手が出ない」
客は苦笑した。
皐月は、その人の手を見た。
指先が、わずかに震えている。
そして。
皐月の中に、あの感覚が走った。
――残響。
触れたわけではない。
けれど、品物を手に取った客の指が、皿の縁をそっと撫でた瞬間。
皐月の脳裏に、短い映像が浮かんだ。
古い家。
食卓。
幼い女の子。
そして、同じような白い器。
客の記憶だった。
「……」
皐月は、静かに口を開いた。
「もしかして……」
「はい?」
「娘さんへの贈り物をお探しですか?」
客が驚いた。
「なぜ、それを?」
「……なんとなく、そう思っただけです」
皐月は笑った。
「こちらはいかがでしょう」
別の器を手に取る。
「娘さんが小さいころに使っていた器と、少し似ています」
客の目が見開かれた。
「……そうだ」
皐月はその器を差し出した。
「この器なら、きっと喜ばれると思います」
「……これをもらおう」
「ありがとうございます」
客は迷うことなく、高価な器を購入していった。
店員たちは顔を見合わせた。
「また売れた……」
「今の、結構な値段だったぞ」
「皐月さんが接客すると、妙に売れるんだよな」
皐月は、その会話を聞いて首を傾げた。
「そうでしょうか?」
「そうですよ」
店員が苦笑する。
「皐月さんが勧めると、客が買うんです」
「……偶然では?」
「偶然が続きすぎてるんですよ」
皐月は困ったように笑った。
自分には、何か特別なことをしているつもりはなかった。
ただ。
客が何を欲しがっているのか。
何を求めているのか。
なぜか、それが分かるだけだった。
皐月自身は、それを「勘がいい」程度に思っていた。
◇
昼過ぎ。
また一人、客が入ってきた。
「贈り物を探しているのだが」
「どなたへの贈り物でしょうか?」
「妻に」
客は高価な花瓶を手に取った。
「これはどうだ?」
皐月は、その花瓶に触れた。
すると。
頭の中に残響が響く。
広い屋敷。
妻が庭の花を摘んでいる。
その横にあるのは――白い小さな花。
「……こちらより」
皐月は別の花瓶を選んだ。
「こちらはいかがでしょう」
「こちら?」
「奥様は、白い花がお好きなのでは?」
客が目を丸くする。
「……妻は、白い花が好きだ」
「でしたら、こちらのほうがきっと」
客はしばらく花瓶を見つめた。
「分かった。これをもらおう」
「ありがとうございます」
また売れた。
しかも。
最初に手にしていたものより、さらに高価な品だった。
店員たちは呆然としている。
「……まただ」
「本当に、どうなってるんだ」
「皐月さんが店に出るようになってから、あの時間だけは売上が上がるんだよ」
皐月は、そんなことを知る由もなかった。
◇
だが。
その様子を、幸雄と百合子は快く思っていなかった。
「皐月」
幸雄が呼ぶ。
「はい」
「客に余計なことを言うな」
「余計なこと……?」
「品物のことだけ説明すればいい」
「申し訳ありません」
「それから」
百合子が口を挟む。
「最近、あなたが店に出ることを嫌がる客もいるのよ」
「……そうなのですか?」
「ええ」
嘘だった。
そんな客はいない。
むしろ、皐月が接客すると売れる。
それが気に入らないのだ。
自分たちが何をしても売れないのに。
皐月が客の前に立つと、なぜか品物が売れていく。
それが、二人には面白くなかった。
「だから、調子に乗らないことね」
「はい」
皐月は素直に頭を下げた。
幸雄と百合子は、それを見て満足そうに顔を見合わせた。
「本当に、何を考えているのか分からない女ね」
百合子が呟く。
「余計なことをしなければいいんだ」
幸雄も冷たく言った。
皐月は何も言わなかった。
ただ。
自分が役に立っていることだけは、少し嬉しかった。
誰かの役に立てる。
その感覚を、皐月は初めて知った。
◇
夕方。
帳場では、今日の売上を確認していた。
「……これだけ売れたのか」
幸雄が驚いた。
百合子も帳簿を見る。
「昨日より、かなり多いわ」
店員が答えた。
「今日は皐月さんが接客した客が多かったので」
「……」
幸雄の顔が曇る。
「皐月が?」
「はい」
「何をしたんだ?」
「特に何も」
「何も?」
「お客様の話を聞いて、品物を選んでいただいただけです」
幸雄は皐月を見る。
皐月は離れで使う布を畳んでいた。
「……」
幸雄の胸に、嫌な感情が湧いた。
自分より。
百合子より。
この女のほうが店に必要なのではないか。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
だが。
すぐに打ち消した。
「……偶然だ」
そう呟いた。
◇
夜。
皐月は離れへ向かった。
蔵之介は、今日も遅かった。
机の上には、また英語の書類が置かれている。
横浜宛ての封書。
海外へ送るエアメール。
そして。
茶封筒。
皐月はそれらを見つめた。
「蔵之介さん……」
この人は、着実に未来へ進んでいる。
白鷺家を出る準備をしている。
横浜へ行く準備をしている。
皐月にも、来ないかと声をかけてくれた。
自分も。
いつか、この家を出るのだろうか。
そんなことを考えていると、玄関が開いた。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさいませ」
蔵之介が入ってくる。
今日も茶封筒を抱えていた。
「お疲れですね」
「ええ。でも、今日は少し良い知らせがありました」
「良い知らせ?」
「横浜での仕事が、かなり具体的になってきました」
皐月の胸が高鳴った。
「本当ですか?」
「ええ」
蔵之介は微笑む。
「近いうちに、事務所を借りるつもりです」
「……」
「皐月さん」
「はい?」
「あなたのほうは?」
「私……?」
「離縁のことです」
皐月は黙った。
まだ、幸雄から正式に言われたわけではない。
けれど。
あの日から。
自分の心は、もう決まり始めていた。
「……まだ、何も決まっていません」
「そうですか」
「でも」
皐月は小さく笑った。
「私は、横浜へ行ってみたいです」
蔵之介の目が、静かに皐月を見つめた。
「そうですか」
「はい」
その返事に。
蔵之介は、どこか安心したように微笑んだ。
「では、準備をしておきましょう」
皐月は頷いた。
その頃。
母屋では幸雄と百合子が、今日の売上帳を前に頭を抱えていた。
白鷺屋の経営は、確実に傾き始めている。
そして二人は、まだ知らない。
店を救っているのが。
自分たちが追い出そうとしている皐月だということを。
さらに。
皐月自身も、まだ知らない。
客の心を読んでいるのではない。
その人が過去に強く心を動かされたもの。
何度も思い出した味や、忘れられない品。
そうした「記憶の残響」を、皐月が無意識のうちに拾い上げているのだということを。
皐月の残響視は。
少しずつ、目を覚まし始めていた。




