↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
残響視の令嬢は、割れた夫婦を元には戻さない  作者: 雫石しま


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/27

第12話 横浜という街

 

 朝の空気は、少しだけ冷たかった。

 皐月は離れの玄関先で、数通の封書を抱えていた。

 その中には、今日も一通のエアメールがある。

 英語で書かれた宛先。

 赤と青の縁取り。

 そして、横浜の住所が記された封書。


「これを郵便局へ……」


 皐月は封書を胸元に抱え直した。

 最近では、この仕事にもすっかり慣れていた。

 毎週火曜日。

 蔵之介から預かった封書を持って郵便局へ行く。

 それが、いつの間にか皐月の日課になっていた。

 母屋へ向かえば、幸雄と百合子の姿を目にすることになる。

 店先では、今日も二人が仲睦まじくしているかもしれない。

 けれど。

 今の皐月には、それほど気にならなかった。

 自分には、自分のことを考えなければならない。


 離縁。

 その言葉が浮かぶ。

 もし本当に幸雄と別れることになったら。

 私は、どこへ行けばいいのだろう。

 そう考えながら、門へ向かって歩き出した。


「皐月さん」

 背後から声がした。

「……はい?」

 振り返る。

 蔵之介が立っていた。

 まだ朝早いというのに、すでに外出の支度をしている。


「郵便局ですか?」

「はい。こちらを届けに」

 皐月は封書を見せた。

「いつものようにですね」

「ええ」

「少し待ってください」

「……?」

 蔵之介は皐月の前まで歩いてきた。

 そして。

 少しだけ迷うように口を開いた。


「皐月さん」

「はい」

「横浜に行く気はありませんか?」

「……え?」

 皐月は瞬きをした。

「横浜……ですか?」

「ええ」

「どうして、突然……」

「突然ではありません」

 蔵之介は静かに言った。

「ずっと考えていました」


 皐月は何も言えなかった。

 蔵之介は、少し離れた場所に視線を向ける。


「私は近いうちに、白鷺家を出るつもりです」

「……」

「横浜で、翻訳の仕事を始めます」

 皐月は以前にも聞いた話を思い出した。

 蔵之介は白鷺屋の景気が長く続かないと考えている。

 だから。

 家を出て、自分の力で生きる道を選ぼうとしている。


「それで……」

 蔵之介は皐月を見る。

「あなたも、一緒に来ませんか?」

 胸が、大きく鳴った。

「私が……?」

「はい」

「でも……」

 皐月は戸惑った。

「私は、幸雄さんの妻です」

「知っています」

「それに、離縁するかどうかも、まだ決まっていません」

「それも知っています」

 蔵之介の声は落ち着いていた。

「だから、今すぐ返事をしてほしいわけではありません」

「……」

「ただ」

 蔵之介は一度言葉を切った。

「もし、あなたが白鷺家を出ることになったら」

 その瞳が、まっすぐ皐月を見る。

「横浜へ来るという道もあると、伝えておきたかったんです」


 皐月は、手の中の封書を見つめた。

 横浜。

 今まで自分とは縁のない場所だった。

 けれど。

 その名前が、今は不思議と遠く感じなかった。


「……私に、何ができるでしょうか」

「仕事ならあります」

「でも、私は何の取り柄も……」

「あります」

 即答だった。

 皐月が顔を上げる。

「あなたは帳簿を読むのが早い。数字にも強い。それに、几帳面です」

「そんな……」

「それに」

 蔵之介は少し笑った。


「人の気持ちを考えられる」

 皐月の胸が熱くなった。

「私には、そんな……」

「ありますよ」

 もう一度。

 今度は優しく言った。

「私が保証します」

 その言葉に、皐月の目が潤む。

 今まで。

 自分を必要としてくれる人など、いなかった。

 役に立たない。

 何もできない。

 そう言われ続けてきた。

 けれど、この人だけは違う。

 皐月が自分では見つけられなかったものを、蔵之介は見つけてくれる。


「……どうして」

 皐月は震える声で尋ねた。

「どうして、そこまで私のことを……」

 蔵之介は黙った。

 すぐには答えなかった。

 そして、やがて静かに言った。

「あなたが、笑っているところを見たいからです」


「……え?」

「母屋にいるときのあなたは、いつも誰かの顔色を見ている」

 皐月は息を止めた。

「けれど、離れにいるときは違う」

「……」

「鼻歌を歌うでしょう」

「……!」

「時々、何でもないことで笑う」

 皐月の顔が熱くなる。

「私は、あの顔が好きです」

 心臓が跳ねた。

 けれど蔵之介は、それ以上何も言わなかった。

「だから」

 穏やかな声が続く。

「もし横浜へ来れば、今より自由に生きられると思います」

「自由……」

「誰かの妻だからではなく」

 蔵之介が言った。

「皐月さん自身として」

 その言葉が、胸の奥に深く響いた。


 ◇


 皐月は、しばらく黙っていた。

 横浜へ行く。

 白鷺家を出る。

 幸雄と離縁する。

 そして。

 自分の力で生きていく。

 怖い。

 けれど。

 それ以上に、心が震えていた。

「……蔵之介さん」

「はい」

「もし……」

 皐月は小さく息を吸った。

「もし私が離縁できたら」

「はい」

「そのときは……」

 言葉にするのが怖かった。

 けれど。

「横浜へ行きたいです」

 蔵之介の目が、わずかに見開かれた。

 そして。

 静かに微笑んだ。

「もちろんです」

 皐月の胸が、ふわりと温かくなった。

「……ありがとうございます」

「ただし」

「はい?」

「まだ離縁が決まったわけではありませんから」

「……はい」

「急いではいけません」

 蔵之介はそう言って、皐月の手元の封書を見る。

「それを届けてから、ゆっくり考えてください」

「分かりました」

 皐月は頷いた。

 そして郵便局へ向かおうとした。

 その背中へ。

「皐月さん」

「はい?」

 もう一度、呼び止められる。

 振り返る。

「横浜は、東京より海が近いですよ」

「海……」

「ええ」

 蔵之介は笑った。

「いつか、一緒に見に行きましょう」

 皐月は目を瞬いた。

「……はい」

 今度は、自然に笑えた。

 その笑顔を見て。

 蔵之介も、ほんの少しだけ目を細めた。

 ◇

 郵便局へ向かう道。

 皐月は封書を抱えながら歩いていた。

 いつもの道。

 いつもの仕事。

 それなのに。

 世界が少し違って見える。

 横浜。

 海。

 新しい仕事。

 新しい暮らし。

 そして。

 自分自身の人生。

「……行ってみたい」

 小さく呟いた。

 これまでの皐月なら、そんな願いを口にすることすら許さなかっただろう。

 けれど今は。

 願ってもいい気がした。

 一方、離れに残った蔵之介は、皐月の去っていった門を見つめていた。

「……これでいい」

 自分に言い聞かせるように呟く。

 皐月を横浜へ誘う。

 それは、白鷺家を出る自分と同じ場所へ来てほしいという願いだった。

 だが。

 それだけではない。

 皐月が幸雄の妻でなくなったとき。

 自分は彼女に、もう一度問いかけるつもりだった。

 ――あなた自身は、どう生きたいのか。

 そして。

 その答えを。

 自分の隣で聞けたらいい。

 そんな願いを胸に、蔵之介は机の上に置かれた茶封筒へ目を向けた。

 中には、横浜で借りる予定の事務所についての書類が入っている。

 白鷺家を出る準備は、もう始まっている。

 そして。

 皐月の人生もまた。

 ゆっくりと、動き始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。