書き足された名
交渉後、レオンはステーションの観測廊でヴェガと向き合った。
窓の外には、捕虜交換用の医療艇が停泊している。白い船体に、両国の識別色が並んでいた。
「なぜ、映像を持ってきたのですか」
レオンが聞いた。
「君たちが認めない場合に、帝都へ流すためだ」
ヴェガは正直に答えた。
「あなたは人道で動いたのでは」
「人道も使えるなら使う」
「軍人らしい答えです」
「君も似たようなものだろう。人命を救うために、数字も規則も敵の通信も使う」
レオンは答えなかった。
ヴェガは窓の外を見た。
「アルムの捕虜は、君の国へ帰った後、証人になる。燃料の流れ、衛星の用途、誰が退避船を止めたか。話す者もいるだろう」
「でしょうね」
「彼らは安全か」
「分かりません」
「正直だな」
「嘘をつく相手でもありません」
ヴェガはレオンを見た。
「君の国は、敵より厄介そうだ」
「あなたの国も、似たようなものでは」
「似ている。だから戦争は長引く」
短い沈黙があった。
観測廊の向こうで、ミリアが捕虜輸送リストを確認している。クラリッサは同盟側事務官と文書の署名をしていた。
ヴェガは言った。
「次は戦場で会うかもしれない」
「可能性は高いです」
「その時、私は君の救おうとする船を撃つかもしれない」
「私も、あなたの兵が死ぬ配置を選ぶかもしれません」
「そうだな」
ヴェガは少しだけ笑った。
「やはり、君は交渉官に向かない」
-
帰還した捕虜たちは、英雄のようには見えなかった。
医療艇の扉が開くと、最初に降りてきたのは担架だった。
その後に、痩せた兵士、作業服の民間人、顔色の悪い技師たちが続く。誰も歓声を上げない。迎える側も、どう声をかければよいか分からずに立っていた。
ミリアは、名簿を片手に一人ずつ照合した。
「ラウル・ベッカー軍曹」
「はい」
「負傷区分、軽度。後方医療区画へ」
「家族へ連絡は」
「手続き中です」
軍曹は頷いた。彼の目は、まだどこかを警戒していた。
「ハンナ・リート技師」
「はい」
「医療班が待っています」
「私は、まだ雇用されていますか」
ミリアは一瞬、言葉に詰まった。その問いは、想定していなかった。
代わりに、レオンが答えた。
「あなたの所属は確認済みです。未着扱いから、帰還扱いに変更しました」
「それだけですか」
「まずは」
ハンナはしばらくレオンを見ていた。怒るかと思った。泣くかと思った。
だが、彼女は小さく頷いた。
「まずは、それでいいです」
次に降りてきた警備隊伍長が、レオンの前で立ち止まった。
「我々は、見捨てられたのですか」
周囲の空気が固まった。
レオンはすぐには答えなかった。少し離れた場所で、クラリッサがこちらを見ている。帝国側法務官は、不安そうに視線を逸らしていた。
「船は来ませんでした」
レオンは言った。
「それは答えですか」
「事実です」
「誰の命令で」
「調査します」
「調査で、あの三十時間は戻りますか」
「戻りません」
伍長の拳が震えた。
ミリアは思わず前に出かけた。だが、伍長は殴らなかった。ただ、疲れた顔で言った。
「では、せめて調べてください」
「はい」
「本当に」
「はい」
伍長は敬礼しようとした。途中で腕が上がらず、やめた。
ミリアは彼に近づき、静かに言った。
「お帰りなさい」
伍長の顔が崩れた。彼は目元を手で押さえ、声を殺した。
その後ろで、二千人の列はゆっくりと進んだ。
ミリアは名を呼び続けた。レオンは状態を記録し続けた。
誰も拍手しなかった。
だが、一人ずつ、欄が埋まっていった。
-
帝都に戻ると、エーベルハルト伯爵からの呼び出しが来ていた。
今度は貴族院軍務委員会の正式な部屋だった。
伯爵の微笑は、以前よりも薄かった。
「クラウゼン少佐。あなたは面倒な方だ」
「よく言われます」
「主に悪口として」
「はい」
伯爵は笑わなかった。
「アルム捕虜の帰還により、帝都では余計な憶測が広がっています。軍需物資の流れ、採掘衛星の用途、避難船の未着。どれも、現時点では未確認です」
「調査すれば確認できます」
「だから余計なのです」
伯爵は卓に手を置いた。
「あなたは敗戦処理官だ。負けた戦場の後始末をする。それは必要な仕事でしょう。ですが、後始末とは、散らかったものを片づけることであって、床板を剥がすことではありません」
「床下から声がしました」
「比喩がお好きですな」
「伯爵ほどではありません」
沈黙。
伯爵は、深く息を吐いた。
「あなたを前線に戻すべきではない、という意見が出ています」
「理由は」
「あなたが行く先々で、数字が増える」
「実数に戻るだけです」
「軍にとっては増えるのです」
伯爵は書類を一枚差し出した。
「辞令です」
レオンは受け取った。
帝国軍務省監察局付き特別調査官。階級は少佐のまま。権限は限定的。任務範囲は、カレリアおよび北方戦線に関する補給・捕虜・撤収記録の調査。前線ではなく、帝都勤務。
「栄転ですかな」
伯爵は言った。
「それとも左遷か」
レオンは書類を読んだ。
「負け戦ですね」
「帝都を戦場扱いするのは感心しません」
「訂正します。書類の多い戦場です」
伯爵の表情が硬くなった。
「少佐。帝都には砲弾は飛びません」
「その方が厄介です」
レオンは辞令を畳んだ。
「砲弾は、少なくとも着弾すれば分かります」
-
夜、軍務省の臨時執務室で、ミリアは名簿を整理していた。
アルム捕虜、帰還。重傷者、医療区画へ移送。民間作業員、身元照合中。死亡確認者、同盟側記録と照合。行方不明者、三十七名。
まだ埋まらない欄がある。それでも、なし、ではなかった。
レオンは向かいの席で、監察局の辞令を読んでいた。
「少佐」
「何ですか」
「これは栄転ですか、左遷ですか」
「伯爵にも聞かれました」
「答えは」
「負け戦だと」
ミリアは小さく笑った。
「では、準備します」
「何を」
「通信ログ、避難者名簿、捕虜交換記録、アルム救難信号、医療搬送記録、補給航路図、軍需商会の燃料記録。全部、複製しておきます」
「命令していません」
「申請です」
「却下されるかもしれません」
「その場合は、意見書を五十枚添付します」
レオンは顔を上げた。
「増えましたね」
「成長しました」
彼は少しだけ口元を動かした。
窓の外では、帝都の夜景が輝いている。カレリアの灰色の防壁とも、グリムワルトの赤い星図とも違う光だった。美しく、静かで、遠い。
ミリアは、最後の名簿を保存した。
アルム採掘衛星残留者。二千百四十六名。帰還、二千百九名。死亡確認、十二名。行方不明、二十五名。
彼女はその数字を見つめた。完全ではない。終わってもいない。それでも、空欄ではなくなった。
レオンの端末に、新しい調査項目が表示される。
北方戦線補給横流し疑惑。関係組織、帝国軍需商会連合。関与疑い、貴族院軍務委員会関係者。関連人物、カール・フォン・メルツ大佐。関連施設、アルム採掘衛星。
ミリアは画面を見て、息を吐いた。
「少佐」
「何ですか」
「帝都は、かなり広そうですね」
「ええ」
「逃がす人は、まだいますか」
レオンは少し考えた。それから、窓の外ではなく、机上の名簿を見た。
「探すところからです」
ミリアは頷いた。彼女は新しいフォルダを作った。名前をつけるのに、少し迷った。結局、ただ日付だけを入力した。余計な言葉をつける必要はなかった。
翌朝になれば、また誰かが何かを「整理」しようとするだろう。その前に、残しておく。
帝都の夜は静かだった。砲声はない。警告灯もない。
だが、白い停戦旗の下で書き足された名前たちは、まだ画面の中に並んでいた。
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