白い停戦旗
翌日、レオンはエーベルハルト伯爵に呼び出された。
場所は貴族院庁舎ではなく、帝都西区の私邸だった。軍務省でも委員会でもない。記録に残りにくい場所。
伯爵邸の応接室は、戦争中とは思えないほど穏やかだった。壁には古い風景画が掛けられ、卓上には香りのよい茶が置かれている。窓の外には、手入れの行き届いた庭園が見えた。
「少佐、茶は」
「結構です」
「警戒されていますな」
「勤務中ですので」
「では、私も本題に入りましょう」
伯爵は椅子に深く座り、指を組んだ。
「アルム採掘衛星の件です」
レオンは黙っていた。
「耳が早い、という顔ではありませんな。やはり、あなた方が先に嗅ぎつけた」
「救難信号がありました」
「古い信号です。戦闘時の混乱で、真偽も不明。あの種の通信は、敵による偽装の可能性もあります」
「投降信号もありました」
「それこそ敵の偽装かもしれない」
「同盟軍へ照会すれば分かります」
「照会する必要はありません」
伯爵の声は柔らかいままだった。
「少佐。帝国は現在、北方戦線の再編で揺れています。カレリアの件も、ようやく国民感情を落ち着かせつつある。ここで、無人と報告されていた外縁施設に二千人が残されていたなどと公表すれば、どうなると思いますか」
「家族が問い合わせを始めます」
「暴動が起きる、という意味です」
「問い合わせを暴動と呼ぶかは、受ける側次第です」
伯爵は小さく笑った。
「あなたは本当に、言葉の角を丸める気がない」
「丸めすぎると、何を指しているか分からなくなります」
「では、はっきり言いましょう」
伯爵の目が細くなった。
「アルムには、触れないでいただきたい」
「理由は」
「国家の安定です」
「他には」
伯爵は一瞬だけ沈黙した。
レオンは続けた。
「アルム採掘衛星は、民間資源衛星として登録されています。しかし、戦闘前の通信量と燃料搬出記録から見る限り、実際には軍需物資の一時保管に使われていました。カレリアへ届くはずだった燃料の一部も、そこを経由しています」
「推測です」
「照合中です」
「照合しない方がよい」
「なぜ」
「少佐」
伯爵は、初めて微笑を消した。
「人は、全ての扉を開けるべきではありません。扉の向こうにいる者が、助けを求めているとは限らない」
「それでも、叩く音がすれば確認します」
「二千人のために、帝国の秩序を乱すおつもりですか」
レオンは、庭の噴水を見た。水が規則正しく跳ね、白い石に落ちている。
「伯爵」
「何でしょう」
「二千人は、秩序の外に置ける数ですか」
伯爵は答えなかった。代わりに、茶器を持ち上げた。
「今日の話は、なかったことにしましょう」
「記録には残しません」
「賢明です」
「ですが、名簿には残します」
伯爵の指が止まった。
レオンは一礼し、応接室を出た。
-
捕虜交換交渉は、五日後に決まった。
場所は、帝国と自由星系同盟の境界付近にある中立ステーション、ヘリオス七。
本来、レオンは交渉団に含まれていなかった。しかし、出発前日の夜、軍務省の廊下で一人の女性官僚が彼を待っていた。
クラリッサ・フォン・ヴァイト。外務省戦時調停局の参事官であり、皇帝直属の特別調査権限を持つ人物だと紹介された。
年齢は三十代後半。黒髪を短くまとめ、軍服ではなく濃紺の礼服を着ている。声は涼しく、視線は刃物のようにまっすぐだった。
「クラウゼン少佐。あなたを捕虜交換交渉団に加えます」
「命令ですか」
「依頼です」
「断れば」
「命令に変えます」
「では命令ですね」
「話が早くて助かります」
クラリッサは、薄い資料を差し出した。
「同盟側代表はアレクサンドル・ヴェガ提督です」
ミリアが小さく息を呑んだ。
グリムワルト。カレリア。二度、彼らの前に立った敵将。
「軍人が交渉代表を」
ミリアが尋ねた。
「同盟は、今回の捕虜交換を軍事案件と見ているようです。こちらも形式上は外務省が代表ですが、実質的には軍が前に出ます」
「私の役割は」
レオンが聞いた。
「名簿です」
クラリッサは即答した。
「あなたはカレリアの実数を持っている。貴族院が嫌う数字も、同盟が突きつけてくる数字も、照合できる」
「便利な道具ですね」
「道具に失礼です」
クラリッサは表情を変えずに言った。
「道具は、勝手に持ち主を刺しません」
ミリアは思わず咳き込みそうになった。
レオンは平然としている。
「アルムの件も、把握していますか」
「もちろん」
「なら、なぜ交渉団に」
「誰かが、その名前を聞き取れる場所にいなければならないでしょう」
クラリッサはそう言った。味方かどうかは分からない。だが、少なくとも敵と同じ方向を向いている瞬間はある。
レオンは資料を受け取った。
「エーベルハルト伯爵は反対するでしょう」
「反対しています」
「では、なぜ通ったのですか」
「皇帝陛下は、耳の痛い数字を嫌います。ですが、耳を塞いだ結果、首を絞められることはもっと嫌います」
クラリッサは踵を返した。
「出発は明朝。中尉も同行を」
ミリアが敬礼する。
「通信記録の持ち込みは」
「公式には不要です」
クラリッサは廊下の先で振り返った。
「公式には」
それだけ言って、彼女は去った。
-
ヘリオス七は、戦争の境界線に浮かぶ古い中立ステーションだった。
帝国の装飾も、同盟の旗もない。灰色の外壁に、白い停戦旗の標識だけが点滅している。
交渉室は円形で、中央に透明な卓が置かれていた。卓の上には、両国の捕虜名簿が暗号化された端末として封印されている。
帝国側は、クラリッサを筆頭に、軍務省の法務官、医療担当官、そしてレオンとミリア。同盟側は、アレクサンドル・ヴェガ提督と数名の幕僚。
ヴェガは、思っていたより若く見えた。軍服は簡素で、勲章も少ない。顔立ちは穏やかだが、目だけが鋭い。
彼はレオンを見ると、軽く会釈した。
「君がクラウゼン少佐か」
「ヴェガ提督ですね」
「二度、私の勝利を不完全にした男だ」
「二度、私の仕事を増やした方です」
ヴェガはわずかに笑った。
クラリッサが咳払いをする。
「始めましょう」
捕虜交換の手続きは、形式的には単純だった。双方が保有する捕虜名簿を提示する。氏名、階級、所属、生存状態、負傷状況。交換対象、治療優先対象、照合不能者。
だが、名簿が開示された瞬間、帝国側の法務官が眉をひそめた。
「同盟側名簿に、確認不能な人員が含まれています」
ヴェガは静かに言った。
「確認不能ではない。こちらで保護している」
「所属が不明です」
「帝国軍および帝国民間作業員です」
「帝国側記録には存在しません」
「では、彼らはどこから来たのでしょう」
ヴェガは端末を操作した。
一覧が表示される。アルム採掘衛星残留者。二千百四十六名。
ミリアは息を止めた。名前があった。年齢があった。負傷状況があった。捕虜収容区画があった。
なし、ではなかった。
ヴェガはレオンを見た。
「君の国の名簿には、彼らがいないらしい」
レオンは答えなかった。
「我々は捕虜として扱っている。食糧も医療も与えている。もちろん、尋問はする。戦争だからな」
ヴェガの声は平坦だった。
「だが、少なくとも彼らに番号はある。そちらでは、どうだ」
帝国側法務官が不快そうに言った。
「同盟側による偽装名簿の可能性があります」
「二千人分を」
「あり得ます」
「ならば、映像を出そう」
ヴェガは端末を開いた。そこには、収容区画の映像が映った。
痩せた兵士。作業服の民間人。腕を吊った医療技師。彼らは整列しているわけではなかった。ただ、疲れ切った顔でカメラの方を見ていた。
その中の一人が、かすれた声で言った。
『帝国軍第二整備大隊、ラウル・ベッカー軍曹。アルム採掘衛星より投降。家族へ、生存を知らせてください』
映像が切り替わる。
『民間技師、ハンナ・リート。カレリア医療区画へ移送予定でしたが、船が来ませんでした』
さらに別の顔。
『警備隊伍長、ミハイル・ザレン。白旗信号を出しました。撃たれませんでした』
ミリアは、画面から目を逸らせなかった。
レオンも見ていた。表情は変わらない。だが、彼の指先が卓の縁に軽く触れていた。
法務官が言った。
「この映像の真偽は」
「照合できます」
ミリアの声が、交渉室に響いた。
全員が彼女を見た。
彼女は端末を開いた。
「カレリア撤収時、アルム採掘衛星から発信された救難信号、投降信号、医療照会、民間技師の識別信号を保全しています。軍用記録ではなく、民間帯域、旧教育衛星、救難ビーコン経由のログです」
クラリッサが、ほんのわずかに口元を上げた。
帝国側法務官は顔を青くした。
「中尉、その記録は正式な提出手続きを」
「交渉団通信補佐として、照合用資料を提示します」
ミリアは画面を拡大した。
「ラウル・ベッカー軍曹。救難信号発信時刻、カレリア標準時二十三時四分。ハンナ・リート技師。医療搬送予定リストに記載あり、ただしカレリア本体到着記録なし。ミハイル・ザレン伍長。投降信号送信時の警備隊識別コードと一致」
彼女は一人ずつ照合した。全員ではない。だが、十分だった。
部屋の空気が変わる。
ヴェガはミリアを見た。
「君が、カレリアで通信網を作った中尉か」
「はい」
「よく残した」
「消えると困るので」
ヴェガは短く頷いた。それは敵への礼に近かった。
レオンが口を開いた。
「アルム残留者を捕虜交換対象に加えます」
法務官が慌てた。
「少佐、あなたにその権限はありません」
「では、権限者が言ってください」
クラリッサが静かに言った。
「帝国側交渉団は、アルム採掘衛星残留者二千百四十六名を、交換対象として認めます」
「参事官」
「異議は帰国後にどうぞ。ここでは時間を節約します」
ヴェガは卓上の名簿を操作した。
「条件がある」
「でしょうね」
クラリッサが答える。
「同盟側捕虜のうち、政治将校三十二名、情報士官七名、医療班二十八名を優先返還対象に加える」
帝国側法務官が即座に反発した。
「政治将校と情報士官は通常交換対象外です」
「通常なら、存在しない捕虜も交換対象外だ」
ヴェガは言った。静かな声だった。だが、部屋の温度が下がったように感じた。
「帝国が二千人の名を表に戻すなら、こちらも重い札を返してもらう」
「彼らは尋問対象です」
「そちらもアルムの捕虜を尋問対象にしたいでしょう」
ヴェガはレオンを見た。
「戦争だ。互いに綺麗な手ではいられない」
レオンはしばらく黙っていた。それから言った。
「医療班は即時返還。政治将校と情報士官は、負傷者および民間人返還後、第二陣で交換」
「遅らせる理由は」
「帝国側の承認に時間がかかります」
「その間に彼らが消えない保証は」
「こちらで名簿に固定します」
ヴェガの目が細くなった。
「固定」
「交換対象として、両国署名済みの共同記録に入れます。帰国後の扱いは変えられても、ここで交わした記録は消せません」
クラリッサがレオンを見た。予定にない提案だったのだろう。だが、彼女は止めなかった。
ヴェガは少しだけ考えた。
「共同記録は中立ステーションにも保管する」
「同意します」
「医療班は即時、政治将校と情報士官は七十二時間以内」
「九十六時間」
「七十二」
「八十四」
ヴェガは笑った。
「君は交渉官に向かないな」
「よく言われます」
「主に味方からか」
「はい」
「では、八十四時間でよい」
条件は成立した。
白い停戦旗の下で、名簿が書き換えられた。
いや、書き足された。
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