表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銀河帝国の敗戦処理官、撤退命令だけで三万人を救う  作者: 鷹山
第一部 消えなかった名前たち
7/53

便利な欄

 帝都の朝は、戦場より騒がしかった。

 砲声はない。警告灯もない。酸素残量を告げる無機質な音も、負傷兵が歯を食いしばる声もない。

 その代わり、広場の巨大掲示板には、勝利に似た言葉が並んでいた。

『北方戦線、戦略的再配置を完了』

『カレリア要塞群、民間人保護を最優先に秩序ある後退』

『帝国軍、敵包囲網を巧みに回避』

 ミリア・エーレンベルク中尉は、その見出しをしばらく見上げていた。

 帝都中央駅の天井は高く、透明な防護ドームの向こうに青白い空が見える。駅前広場には、軍楽隊の演奏が流れていた。戦地から戻った将兵を迎えるためのものだろう。

 だが、ミリアの耳には、別の音が残っていた。

 カレリア要塞の地下区画で、母親が子どもの名を呼ぶ声。

 医療船の床に落ちた認識票の音。

 最終船団が発進する直前、誰かが押し殺した泣き声。

 駅前広場の人々は、新聞を読み、コーヒーを飲み、足早に仕事へ向かっている。彼らの誰も、カレリアの空調が止まりかけていたことを知らない。旧教育衛星が避難誘導に使われたことも、救難カプセルが外付けの酸素タンク代わりにされたことも知らない。

 それでよいのかもしれない。知らずに済む者がいることも、ひとつの結果なのだろう。

 そう考えようとして、ミリアは失敗した。

「少佐」

 彼女は隣を歩く男に声をかけた。

「戦略的再配置だそうです」

 レオン・クラウゼン少佐は、広場の掲示板を一瞥した。

「短い言葉は便利です」

「便利」

「何を省いたか、分かりにくくなります」

 それだけ言って、彼は歩き出した。ミリアは端末を抱え直し、後を追った。

 帝都の街路は白く、広く、美しかった。磨かれた石畳の上を自動車両が静かに流れ、建物の壁面には帝国の紋章が金色に輝いている。空中庭園からは花弁が散り、噴水の水面には、戦争など遠い地方の気象現象であるかのように朝日が揺れていた。

 カレリアからの避難民船団は、まだ後方基地に分散収容されている。傷病者の名簿は未整理。行方不明者の照合も終わっていない。

 だが帝都の掲示板は、もう結論を出していた。

 レオンとミリアを乗せた公用車は、軍務省ではなく、貴族院軍務委員会の庁舎へ向かった。査問のためだった。

     -

 貴族院軍務委員会の会議室は、戦場の司令室よりも寒かった。

 壁は白大理石。天井には帝国創建期の艦隊戦を描いた天井画。楕円形の卓の向こうに、軍服と礼服を着た男たちが並んでいる。

 その中央に座っていたのが、ルドルフ・フォン・エーベルハルト伯爵だった。

 年齢は五十前後。金髪に白いものが混じり、声は柔らかい。指先の動きまで礼儀正しく、表情には常に薄い微笑がある。

 優しげな顔をした男だった。だからこそ、ミリアは最初の一分で彼を嫌いになった。

「クラウゼン少佐」

 エーベルハルト伯爵は、穏やかに言った。

「遠路、ご苦労でした。カレリアから戻ったばかりで疲れているでしょう」

「職務ですので」

「そうでしょうな」

 伯爵は手元の資料に目を落とした。

「では、手短に確認しましょう。カレリア要塞群は、現在、同盟軍の占領下にある。これは事実ですね」

「はい」

「あなたは、カレリアに派遣され、要塞防衛に関する助言を行った」

「敗戦処理官として派遣されました」

「言い方はさておき」

 伯爵は微笑んだ。

「要塞は失われた」

「はい」

「では、あなたの任務は失敗した」

「私の任務は、要塞を残すことではありませんでした」

 会議室の空気がわずかに揺れた。

「なるほど。では、あなたは最初から要塞を捨てるつもりだった」

「要塞維持に必要な条件が満たされていませんでした」

「条件」

「燃料、食糧、医療物資、砲台稼働率、民間避難民数。いずれも公式報告と実数が一致していませんでした」

「その件については、別途調査中です」

「承知しています」

「ですが、それは要塞放棄を正当化するものではない。帝国には、たとえ困難であっても守らなければならない場所があります」

「人員を退避させました」

「要塞を失いました」

「はい」

 短いやり取りが続く。伯爵は、声を荒げない。問いを重ねるだけだった。

 要塞は失われた。敵が北方航路を得た。帝国の威信は傷ついた。

 レオンはそれを否定しない。否定しないからこそ、会議室の空気は少しずつレオンに不利になっていく。

 ミリアは、膝の上で拳を握った。言い返したかった。カレリアの地下区画を見たのかと。医療物資が七日分しかなかったことを知っているのかと。最終船団に外付け酸素ユニットをつないだ時、何人が泣かずに耐えていたか、この部屋の誰かが知っているのかと。

 だが、彼女は口を閉じた。発言権はない。通信参謀は、記録を持って立っているだけだ。

「クラウゼン少佐」

 伯爵は資料を一枚めくった。

「あなたは、カレリア撤収時に、要塞外縁施設の確認を怠った可能性があります」

 ミリアの指が止まった。

 レオンもわずかに目を細めた。

「外縁施設とは」

「採掘衛星、整備ドック、旧補給基点などです。撤収作戦が急であったため、いくつかの施設が混乱したまま放棄されたという報告があります」

「具体的な施設名を」

「現在確認中です」

「確認中の報告で査問を」

「可能性の確認です」

 伯爵は微笑んだままだった。

「あなたの撤収作戦は、八万人近い退避を実現した。これは評価すべき点です。しかし、作戦というものは、救った数だけでなく、取りこぼしたものによっても評価される」

 ミリアは、伯爵の言葉を聞きながら、違和感を覚えた。取りこぼしたもの。あまりにも準備された言い方だった。何かを知っている。あるいは、何かをこちらに言わせたい。

 レオンは淡々と答えた。

「外縁施設の退避記録は、こちらでも照合中です。未確認の人員がいれば、名簿に追加します」

「追加」

 伯爵の微笑が、ほんの少し薄くなった。

「戦闘中の混乱で確認不能となった者を、すべて名簿に載せるおつもりですか」

「生死不明欄があります」

「便利な欄ですな」

「便利ではありません。埋まるたびに仕事が増えます」

 会議室の隅で、誰かが咳払いをした。

 伯爵は、しばらくレオンを見ていた。

「本日はここまでにしましょう。追加の聴取は追って行います。中尉、あなたの通信記録も後ほど提出を」

 ミリアは敬礼した。

「すでに複製を作成しています」

「原本で結構」

「原本は軍務省保全規則により、査問終了まで封鎖保管されています」

 伯爵の目が初めて、笑っていなかった。

「手際がよろしい」

「通信参謀ですので」

 レオンがわずかにミリアを見た。叱責かと思ったが、違った。彼は何も言わなかった。それが、今は許可に近かった。

     -

 査問後、ミリアは軍務省の記録保管室にこもった。

 カレリア撤収作戦の通信ログは膨大だった。正規軍用回線。民間放送帯域。旧教育衛星。救難ビーコン。観光案内波。

 彼女がかき集めた細い線は、今では巨大な絡み合った糸玉になっていた。その糸玉をほどくのが、彼女の仕事だった。

 レオンは別室で、避難者名簿と負傷者記録を照合している。エリナ・ファルク医師からは、医療搬送リストが届いていた。紙片の礼状を書いた少女と母親は、後方医療船で再会したらしい。ミリアはその記録に小さく印をつけた。

 それから、外縁施設のログに移った。

 カレリア本体から離れた小型施設群。採掘衛星。燃料貯蔵用小惑星。整備中継ドック。その多くは、撤収作戦時には無人と報告されている。

 無人。

 その表示を、ミリアは信用しなかった。

 彼女は軍用ログだけでなく、民間帯域の通信も重ねた。

 最初に見つかったのは、短い救難信号だった。

『こちらアルム採掘衛星。カレリア本体との連絡途絶。退避船未着。作業員および警備隊、施設内に残留。応答を求む』

 ミリアの手が止まった。時刻は、最終船団発進の三時間前。

 彼女は検索範囲を広げた。さらに信号が見つかった。

『アルムよりカレリア司令部へ。負傷者あり。酸素供給残り三十時間』

『同盟軍偵察艇接近。白旗信号を準備』

『帝国軍識別に応答なし。繰り返す、応答なし』

 最後の通信は、最終船団発進の一時間後だった。

『投降する。捕虜扱いを求む。作業員を撃つな』

 ミリアは、自分の呼吸が浅くなるのを感じた。

 アルム採掘衛星。人がいた。兵士も、民間作業員も。

 彼女は公式名簿を開いた。

 アルム採掘衛星、戦闘前に退避済み。残留者、なし。捕虜、なし。

 ミリアは画面を見つめた。何度見ても同じだった。

 なし。

 彼女は、救難信号の原本にアクセスしようとした。権限警告が出た。

『当該記録は整理済みです』

 整理済み。嫌な言葉だった。

 ミリアは、自分の端末から切り離していた外部記録媒体を取り出した。カレリアで使った民間通信網のログを、念のため複数保存しておいたものだ。

 念のため。戦場では、念のためが人を救う。帝都でも、同じらしい。

 彼女はログを複製し、暗号化し、三つの別名フォルダに分散した。

 さらに、医療船にいるエリナへ短い照会を送る。

『アルム採掘衛星からの負傷者搬送記録はありますか』

 返事はすぐに来た。

『ありません。ですが、アルムから来る予定だった医療技師五名が未着です。どういうことですか』

 ミリアは椅子から立ち上がった。

 端末を抱え、レオンのいる照合室へ向かう。扉を開けると、レオンは無数の名簿に囲まれていた。

「少佐」

「何人ですか」

 レオンは顔を上げずに聞いた。

 ミリアは一瞬、言葉を失った。

「まだ何も」

「顔がそう言っています」

 彼女は端末を差し出した。

「少なくとも、二千百四十六人です。帝国兵、民間作業員、医療技師、軍需商会職員。カレリア外縁のアルム採掘衛星に残留していました」

 レオンは画面を見た。長い沈黙の後、彼は言った。

「公式名簿は」

「退避済み。残留者なし。捕虜なし」

「同盟軍に投降した記録は」

「民間帯域に残っています」

「軍用記録は」

「整理済みです」

 レオンは初めて、手を止めた。

「便利な言葉です」

「はい」

 ミリアの声は、自分でも驚くほど硬かった。

「どうしますか」

「まず、名簿を作ります」

「公式にですか」

「最初は非公式に」

 レオンは新しいファイルを開いた。

「氏名、所属、最終通信時刻、推定状態、捕虜可能性。分かる範囲で全員」

「全員は無理です」

「では、一人目から」

 ミリアは頷いた。彼女は椅子を引き寄せ、端末を開いた。

 なし、と書かれた場所に、名前を打ち込む作業が始まった。


続きが気になると思っていただけたら、☆☆☆☆☆で評価いただけますと幸いです。

ブックマークや感想などもいただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ