生者の葬列
ヴェガは、《エイレーネ》の偽装を見抜いていた。
少し遅れて、だが見抜いた。
「撃てます」
副官が言った。
「今なら、あの輸送船を落とせます」
星図上では、小さな輸送船が補給ポッド群に紛れて移動している。軍艦ではない。砲もない。速度も遅い。撃てば沈む。そして、その中に何が乗っているか、ヴェガには分かっていた。
「撃つな」
「しかし、帝国兵が乗っている可能性もあります」
「負傷兵だろうな」
「ならば戦力です」
「寝台の上の負傷兵を戦力と呼ぶなら、我々はもう軍ではない」
副官は不満そうだったが、命令には従った。
ヴェガは目を細めた。
「三七パーセント」
「何ですか」
「おそらく、その程度の賭けだった」
「なぜ分かるのです」
「私なら二五を切れば捨てる。四〇を超えれば迷わない。あの動きは、迷った末の実行だ」
ヴェガは少しだけ笑った。
「クラウゼンではないな」
「では誰が」
「通信参謀だ」
星図の端で、カレリア要塞の砲台がいっせいに熱を持ち始めた。偽装砲台。だが、すべてが偽装ではない。
「灰色の門か」
ヴェガは呟いた。
「何か」
「いや。敵ながら、よく開ける」
-
作戦七日目。
要塞内の避難完了率は七割を超えた。
だが、同盟軍も気づき始めていた。包囲網の外側へ抜けていく小型船の数が多すぎる。偽装砲台の熱源にも不自然な周期がある。
灰色の門は、閉じかけていた。
「最終船団を出します」
レオンは言った。
「残存者は」
「軍人一万一千。民間人七千。負傷者二千。司令部要員を含め、約二万」
ミリアの声は少し掠れていた。この七日間、彼女はほとんど眠っていない。それはレオンも同じだった。
「輸送能力は」
「一万六千が限界です」
エリナが顔を上げた。
「四千、残るということですか」
「通常積載なら」
「詰め込めば」
「二万人全員を乗せられます。ただし、酸素供給が足りません。航路途中で死者が出ます」
「何人」
「最悪で千二百」
重い沈黙。
ゼッケンドルフが口を開いた。
「兵士を残す」
「閣下」
「民間人と負傷者を先に出せ。歩ける兵士は残る」
老将の声は揺れていなかった。
「この要塞を守るためではない。最後の欺瞞砲撃を成立させるためだ」
レオンは彼を見た。
「司令官も残ると」
「当然だ」
「最後の船に乗る約束です」
「状況が変わった」
「変わっていません」
「私は司令官だ」
「だから乗ってください」
ゼッケンドルフの目に怒りが宿った。
「君は私から死に場所まで奪うのか」
「はい」
「なぜだ」
「死に場所を欲しがる司令官は、部下に死ぬ理由を与えるからです」
老将は黙った。
「兵士を残すなら、彼らに必要なのは死に場所ではありません。帰る命令です」
「帰る船が足りん」
「足りるようにします」
レオンはミリアを見た。
「中尉。要塞内の短距離作業艇、整備艇、救難カプセル、民間小型船。すべて洗い出せ」
「すでに始めています」
「何隻使えますか」
「飛べるものだけなら百六十二。飛べそうなものを含めれば二百四十」
「十分です」
輸送隊長が叫んだ。
「十分ではありません! あれは航路外へ出るための船ではない」
「航路外へは出しません」
レオンは星図を拡大した。
「最終船団の周囲に配置し、酸素供給ユニットとして接続します。小型船を船としてではなく、外付けの空気タンクとして使います」
「そんな無茶な」
「無茶だから、敵も想定しません」
ミリアが頷いた。
「接続信号はこちらで統一できます。民間規格と軍規格の差分は、旧教育衛星を経由して変換します」
「また教育衛星か」
ゼッケンドルフが呆れたように言った。
「帝国北方の盾は、学校の衛星に救われるのか」
「はい」
ミリアは真面目に答えた。
「よい教育の成果です」
老将は一瞬だけぽかんとし、それから低く笑った。
「君たちは、まったく軍人らしくないな」
「よく言われます」
レオンは言った。
「主に悪口として」
-
最終作戦は、夜に始まった。
宇宙に夜はない。だが、カレリア要塞では人工照明を落とし、民間区画に夜間避難訓練と告げた。
人々は列を作った。兵士が誘導し、医師が負傷者を運び、整備員が古い小型船を外部ユニットとしてつないだ。
偽装砲台は最大出力で熱源を放った。要塞外殻では、無人砲塔がゆっくりと動き出す。同盟軍から見れば、カレリアは最後の総攻撃を準備しているように見えるはずだった。
ゼッケンドルフは司令室に立っていた。
「全砲台、発射準備」
老将の声が響く。
その声を聞いた兵士たちは、背筋を伸ばした。彼らはまだ知らない。それが勝利のための号令ではなく、逃げるための幕だということを。
「第一、第二偽装砲列、発光開始」
ミリアが通信を通す。
「民間船団、接続完了。酸素供給安定」
「医療区画、最終搬出完了」
エリナの声が入る。
「残りは私たちだけです」
「あなたも乗ってください」
レオンが言った。
「乗りますよ。最後から二番目に」
「最後ではなく」
「最後はあなたでしょう」
「私は仕事が残っています」
「私もです」
通信越しに、エリナの息遣いが聞こえた。
「子どもの母親、乗せました」
レオンは一瞬だけ沈黙した。
「そうですか」
「嘘にしませんでした」
「よかった」
「ええ」
それだけで、通信は切れた。
ミリアが言った。
「最終船団、発進可能」
ゼッケンドルフがうなずく。
「では、撃つか」
「当てないでください」
レオンが言った。
「分かっている。私は古い軍人だが、そこまで愚かではない」
老将は手を上げた。
「カレリア要塞、全砲台、発射」
灰色の要塞が光った。
無数の砲火が、同盟軍の包囲網へ向かって伸びる。だが、それは敵艦隊を破壊するための砲撃ではない。航路を照らし、敵のセンサーを焼き、避難船団の影を隠すための光だった。
その光の裏側で、最終船団が動き出した。
軍艦、輸送艦、民間船、作業艇、救難カプセル。不格好な船団だった。
だが、そこには二万人の呼吸があった。
-
「攻撃ではない」
ヴェガは、カレリア要塞の砲撃を見て言った。
「では」
副官が問う。
「幕だ」
ヴェガは星図を拡大した。
砲火の裏に、微弱な推進反応が連なっている。船団。民間信号。軍艦信号。救難カプセル。まるで壊れた楽器のように不揃いな光。
「生者の葬列だな」
「追撃しますか」
「軍艦だけを追え。民間識別信号には撃つな」
「混在しています。識別は困難です」
「ならば撃つな」
副官が目を見開いた。
「それでは逃げられます」
「逃げるだろうな」
「提督」
「我々の目的はカレリア要塞の無力化だ。避難民の虐殺ではない」
「帝国軍は、その温情を利用します」
「利用させておけ」
ヴェガは要塞を見つめた。
「その代わり、要塞はもらう」
同盟軍艦隊が動く。追撃は限定的だった。
それでも、砲火は船団の周囲をかすめた。小型船が一隻、推進器を吹き飛ばされる。別の救難カプセルが回転し、信号を失う。
戦争は慈悲だけでは止まらない。ヴェガはそれを知っている。レオンも知っているだろう。
それでも、撃たない線を引く。
その線だけが、人間を人間の側に留める。
-
最終船団の離脱から二時間後。
カレリア要塞は沈黙した。
砲台は焼け、外殻は裂け、同盟軍の上陸艇が灰色の装甲へ取りついている。
帝国北方の盾は、落ちた。
だが、要塞の中は空だった。正確には、完全な空ではない。残された物資、壊れた機械、動けなかった死者、そして最後まで起動していた自動放送があった。
『これは避難訓練です。係員の指示に従い、落ち着いて移動してください』
無人の通路に、ミリアが設定した声が流れ続けていた。
レオンたちが乗る最後の連絡艇は、要塞から離れていた。小さな艇だった。中には、レオン、ミリア、ゼッケンドルフ、エリナ、数名の通信兵と負傷兵が詰め込まれている。
ゼッケンドルフは肩に破片を受けていた。出血は止まっているが、顔色は悪い。
「死に損なったな」
老将は呟いた。
「任務成功です」
レオンは答えた。
「私は敗北した司令官だ」
「はい」
「要塞を失った」
「はい」
「だが、人は逃がした」
「はい」
ゼッケンドルフは目を閉じた。
「死んで詫びる方が、どれほど楽だったか」
「楽な責任の取り方を、兵士に見せるべきではありません」
老将は薄く笑った。
「君は、本当に容赦がない」
「よく言われます」
「主に悪口として、だろう」
「はい」
ミリアが、小さく笑った。
エリナは疲れ切った顔で、負傷兵の脈を取っている。
誰も勝っていない。誰も英雄になっていない。
それでも、連絡艇の外には船団の光があった。
八万人近い人間が、生きてカレリアを離れていた。
-
帝国本国の発表は、予想通りだった。
『カレリア要塞群は、敵の大規模攻勢を受け、戦略的再配置を実施』
『ゼッケンドルフ大将は、民間人保護を最優先とした秩序ある後退を指揮』
『北方航路における戦線再編は予定通り進行中』
予定通り。
その言葉を聞いた時、ミリアは端末を投げそうになった。
「予定通り」
彼女は医療船の一室で声を荒げた。
「燃料を横流しされて、避難民を隠されて、要塞を失って、これが予定通りですか」
「公式発表とはそういうものです」
レオンは負傷者リストを見ながら答えた。
「腹が立たないのですか」
「立ちます」
「そうは見えません」
「見せる余裕がないだけです」
ミリアは言葉を止めた。
レオンの端末には、死者と行方不明者のリストが並んでいた。
カレリア要塞群撤収作戦。避難成功者、七万八千六百二十一名。戦死者、二千九百四十名。行方不明者、八百十六名。重傷者、五千三百。要塞喪失。北方航路後退。
勝利ではない。だが、全滅でもない。
「少佐」
エリナが入ってきた。彼女も眠っていなかった。目元には濃い疲労があり、白衣は新しいものに替わっていたが、袖口にはまだ血の跡が残っている。
「これを」
彼女は一通の紙片を差し出した。紙だった。この時代に、珍しい。
「何ですか」
「あなた宛てです。第三区画から避難した女の子が、ミリア中尉に渡してくれと」
ミリアが受け取り、レオンへ渡した。
紙には、拙い字で短く書かれていた。
『こわいかおのしょうささんへ。おかあさんをのせてくれてありがとう』
レオンはしばらく黙っていた。
「これは記録に残せません」
彼は言った。
ミリアは静かに答えた。
「では、私が覚えています」
エリナも言った。
「私も」
レオンは紙片を丁寧に折った。そして、軍服の内ポケットにしまった。そこは、損耗予測表と同じ場所だった。
-
数日後、捕虜交換用の中立通信回線を通じて、一通の書簡が届いた。
差出人は、自由星系同盟軍。署名はなかった。だが、誰からかは明らかだった。
レオンは内容を読んだ。
『カレリアの撤収、見事だった。
次は、君が救おうとする者の中に、私の敵も含まれることを忘れるな。』
ミリアが尋ねた。
「敵からですか」
「敵も、数字を読むようです」
「返事は」
「書きません」
「よろしいのですか」
「次の戦場で返すことになるでしょう」
レオンは書簡を閉じた。
その時、新しい命令が届いた。軍務省監察局からだった。
『クラウゼン少佐およびエーレンベルク中尉は、カレリア撤収作戦に関する査問のため、帝都へ帰還せよ』
ミリアの顔が引きつった。
「査問」
「当然です」
「なぜですか。八万人を逃がしたんですよ」
「要塞を失いました」
「それは」
「それに、横流しの記録を掘り返しました」
レオンは端末を閉じた。
「人を救うと、誰かの失敗が残ります。失敗を隠したい人間にとって、救助記録は不都合です」
エリナが腕を組んだ。
「帝都は、戦場より厄介そうですね」
「戦場の方が正直です」
レオンは立ち上がった。
「砲弾は、少なくとも自分が砲弾であることを隠しません」
ミリアは深く息を吐いた。
「では、次は帝都ですか」
「はい」
「負け戦ですか」
レオンは少し考えた。
「おそらく」
「なら、準備が必要ですね」
ミリアは端末を開いた。
「通信ログ、避難者名簿、医療搬送記録、補給横流しの証拠、偽装砲台の運用記録。全部、複製しておきます」
「命令していません」
「申請です」
「却下されるかもしれません」
「その場合は、意見書を五十枚添付します」
レオンは彼女を見た。
「増えましたね」
「成長しました」
エリナが初めて笑った。
医療船の窓の外で、カレリアから逃れた船団が、帝国後方へ向かってゆっくり進んでいる。故郷を失った者たちの船団。敗北の船団。
それでも、生者の船団だった。
レオン・クラウゼンは、その光をしばらく見ていた。
要塞は落ちた。門は破られた。
だが、門の向こうにいた人間は、まだ歩いている。ならば、敗戦処理は終わっていない。
彼は端末に、新しい項目を作った。
カレリア撤収作戦、戦後処理。避難民再配置。負傷者追跡。行方不明者照合。補給横流し調査。帝都査問対策。
そして最後に、一行を加えた。
生存者の証言を消させないこと。
勝利の歓声はない。英雄の凱旋もない。
次に待つのは、砲火ではなく議場と書類と貴族たちの笑顔だった。
それでも、レオンはため息をつき、赤字で染まった記録を保存した。
次の戦場にも、まだ消される必要のない名前があった。
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