灰色の門
灰色の門作戦。
レオンが提出した撤収計画の名を、ゼッケンドルフは気に入らなかった。
「勝利の名ではないな」
「勝利する作戦ではありません」
「では敗北の名か」
「人を通す門の名です」
作戦の骨子は単純だった。
カレリア要塞が健在であるように見せながら、内部の人間を段階的に外へ出す。
ただし、問題は山ほどあった。同盟軍は包囲網を狭めている。正規の航路は監視されている。輸送艦は足りない。避難民は多すぎる。要塞司令部には、まだ撤収に反対する将校がいる。そして、カレリアが落ちると知れば、要塞内はパニックになる。
だから、誰にも全体を知らせない。必要な者に、必要な分だけ伝える。
「まず砲台を偽装します」
レオンは会議室に集まった少数の関係者へ説明した。
ゼッケンドルフ、ミリア、エリナ、整備長、医療責任者、輸送隊長。それだけだった。
「稼働していない砲台にも熱源を置き、通信試験信号を流します。外から見れば、全砲台が再起動準備中に見えます」
整備長が唸った。
「砲身の動作まではごまかせません」
「動かす必要はありません。敵に『攻撃準備をしているかもしれない』と思わせれば結構です」
「その間に避難船を」
「はい。ただし、避難船とは呼びません。医療廃棄物搬出船、補給艦の空荷回送、通信ブイ修理艇。名目を分けます」
エリナが手を上げた。
「最初に誰を乗せますか」
「生命維持装置が必要な患者。十歳未満の子ども。妊婦。重度外傷者。次に、医療従事者と整備技術者の一部」
「軍人は」
「後です」
輸送隊長が顔をしかめた。
「兵士を後回しにすれば、反発が出ます」
「出ます」
「暴動になります」
「ならないよう、兵士には別の任務を与えます。避難誘導、輸送船の積載補助、医療区画の搬送、偽装砲台の設置。自分たちが逃げるのではなく、逃がしていると思わせます」
「実際は」
「実際もそうです。最後には彼らも逃がします」
エリナがじっとレオンを見た。
「最後に残る人は」
「私たちです」
ミリアが小さく息を呑んだ。
レオンは続けた。
「最後の輸送船団が出た後、要塞司令部は総攻撃を装います。その隙に司令部と後衛を撤収させます」
ゼッケンドルフが言った。
「誰がその総攻撃を指揮する」
「閣下です」
老将は笑った。
「私に逃げろと言うのか、囮になれと言うのか、どちらだ」
「両方です」
会議室に沈黙が落ちた。
「囮は死ぬために残るものではありません。生きて最後の船に乗るまでが任務です」
「死ぬ覚悟もない囮に、敵が騙されるか」
「死ぬ覚悟のある司令官は珍しくありません」
レオンは老将を見た。
「生きて敗北の報告をする覚悟のある司令官は、少ないものです」
ゼッケンドルフの表情が、わずかに動いた。
「私に恥をかけと」
「はい」
「正直だな」
「嘘をつく時間が惜しいので」
老将はしばらくレオンを睨んでいた。やがて、深く息を吐いた。
「よかろう。灰色の門を開け」
-
ミリアの戦場は、砲塔の外ではなく通信室だった。
正規の軍用通信網は同盟軍に監視されている。暗号化されていても、通信量の増減で作戦の意図は読まれる。だから、彼女は軍の外側に目を向けた。
要塞都市の民間放送局。古い教育用通信衛星。廃止された鉱山用ビーコン。観光案内用の短距離案内波。旧式の救難信号発信機。
軍人なら見向きもしない、低出力で不格好で遅い通信網。だが、それらは生きていた。
「民間帯域を使えば、同盟軍に読まれる可能性があります」
若い通信兵が言った。
「内容は読ませない。存在は読ませる」
ミリアは端末を操作しながら答えた。
「避難誘導は、医療連絡と配給変更に見せかける。輸送船の発進は、廃棄物処理と設備点検に偽装。民間放送局には、避難訓練の案内を流させます」
「訓練ですか」
「本番と言えば、人は走ります。訓練と言えば、並びます」
通信兵は、少しだけ笑った。
「中尉、言い方がクラウゼン少佐に似てきましたね」
ミリアは手を止めた。
「それは褒めていますか」
「判断が難しいです」
「私もです」
彼女は再び画面へ向かった。
命令が届かないから死ぬなら、命令が届く道を作る。
グリムワルトで、彼女はレオンの命令を送った。今回は違う。今回は、彼女が道を作る。
-
最初の船は、医療廃棄物搬出船という名で出た。
実際には、重病患者と子どもたちを乗せた小型輸送艇だった。
エリナは、乗船口の前で患者リストを握っていた。
「ファルク先生」
看護師が震える声で言った。
「本当に全員乗れますか」
「全員は無理」
エリナは即答した。看護師が顔をこわばらせる。だが、エリナは続けた。
「だから、次の便を出す。今は、この便に乗る人を間違えない」
彼女はリストを読み上げた。
生命維持装置が必要な患者。酸素依存の子ども。妊婦。重度熱傷者。
名前を呼ばれなかった者たちが、黙って見ている。
その視線は痛かった。なぜ自分ではないのか。なぜあの人なのか。
その問いに、エリナは一人ずつ答える時間がない。だから、レオンが作った基準に従った。公平で、冷たく、残酷な基準。だが、恣意ではない。それが今は救いだった。
「先生」
小さな少女が、酸素マスク越しに言った。
「お母さんは」
エリナは一瞬だけ言葉を失った。
母親は、次の便だった。少女の状態では、今出さなければ危険だった。
「後から来るわ」
「本当」
「本当」
エリナは少女の手を握った。
「私が乗せる」
少女は頷いた。
その横で、レオンが輸送艇の積載率を確認していた。エリナは彼に近づいた。
「嘘をつきました」
「母親を次の便に乗せれば、嘘ではなくなります」
「作れますか、次の便」
「作ります」
「作れなかったら」
「その時は、あなたに殴られるでしょうね」
エリナは少しだけ眉を上げた。
「殴って済むと思っているんですか」
「思っていません」
「なら、作ってください」
「はい」
輸送艇の扉が閉まった。
外では、偽装砲台が熱源を放ち始めている。
カレリア要塞は、まだ戦うふりをしていた。
その影で、最初の百八十六人が外へ出た。
-
作戦三日目。
避難者数、一万二千四百。
残存者数、七万弱。
敵包囲完成予測、五日後。
順調ではなかった。ただ、最悪よりは良かった。
レオンが司令室に戻ると、ゼッケンドルフが一人で戦略図を見ていた。
「少佐」
「はい」
「私は長く軍人をやってきた」
「存じています」
「若い頃は、撤退する司令官を軽蔑していた。戦場に背を向ける者に、兵はついてこないと思っていた」
老将は静かに言った。
「今も、半分はそう思っている」
「半分は」
「残り半分が、邪魔をする」
ゼッケンドルフは展望窓の外を見た。
避難船団の光が、灰色の要塞の影から静かに離れていく。
「あの光を見ていると、私は間違っていたのかもしれんと思う」
「間違っていたかどうかは、後で記録すれば結構です」
「後で」
「今は人を出す時間です」
老将は苦く笑った。
「君は容赦がないな」
「時間にも容赦がありません」
「そうだな」
しばらく沈黙があった。やがて、ゼッケンドルフは言った。
「私は残るつもりだった」
「でしょうね」
「この要塞と共に死ねば、少なくとも兵たちは、司令官は逃げなかったと思うだろう」
「思います」
「それでは駄目か」
「駄目です」
「なぜだ」
「死んだ司令官は、敗北の報告を訂正できません」
ゼッケンドルフの義眼がレオンを捉えた。
「生きて、何を言えと」
「要塞は落ちた。だが、人は逃がした。補給は足りず、報告は歪み、兵站は腐っていた。次に同じことをすれば、また死にます」
レオンは言った。
「そう報告してください」
「貴族院は聞かんぞ」
「聞かなくても、記録には残ります」
「記録か」
老将は小さく呟いた。
「君は本当に、死者の側に立つ男だな」
「生者を相手にするのは、あまり得意ではありません」
「知っている」
-
作戦五日目に、事故が起きた。
輸送船が第三退避航路で推進機関を停止した。
乗員と避難民、合わせて九百四十名。そのうち二百名以上が負傷者だった。
修理に必要な時間は四十分。敵哨戒艦が到達するまで二十二分。
見捨てれば、他の船団は守れる。救おうとすれば、避難航路全体が露見する。
司令室に緊張が走った。
「切り離すべきです」
輸送隊長が言った。
「今なら他の船団は逃げられます。《エイレーネ》を救おうとすれば、第二、第三船団まで危険にさらされる」
エリナが顔を上げた。
「乗っているのは民間人です」
「それは承知しています」
「承知して見捨てるんですか」
「全員を危険にさらすわけにはいきません」
議論は感情に傾きかけていた。
レオンは数字を見ていた。
救助成功率、二一パーセント。他船団への被害拡大率、六八パーセント。見捨てた場合の損失、九百四十。救助失敗時の推定損失、最大六千。
答えは出ていた。
「《エイレーネ》を切り離します」
レオンが言った。
エリナが彼を見た。
「本気ですか」
「はい」
「九百人を」
「他の五千を守るためにです」
「数字で言えば、そうでしょうね」
エリナの声は震えていた。
「でも、その九百人にも顔があります」
「知っています」
「知っていて、捨てるんですか」
「はい」
その時、それまで黙っていたミリアが、一歩前に出た。
「少佐」
「何ですか」
「別案があります」
レオンは彼女を見た。
ミリアは端末を操作し、通信図を投影した。
「《エイレーネ》の周囲には、旧式補給ポッド群があります。要塞建設時代の資材搬送用で、今は放棄されています」
「使えません」
「補給ポッドとしては使えません。ですが、識別信号は生きています」
レオンの目が細くなった。
「偽装ですか」
「はい。《エイレーネ》の識別信号を一時的に隠し、補給ポッド群の信号を増幅します。敵哨戒艦には、無人漂流物が密集しているように見えるはずです」
「時間は稼げますか」
「十三分。うまくいけば十七分」
「修理には四十分必要です」
「修理はしません」
ミリアは別の図を出した。
「《エイレーネ》を自走させるのではなく、無人補給ポッド群の慣性推進を連動させて押します。速度は遅いですが、敵哨戒圏から外すだけなら可能です」
輸送隊長が驚いた声を上げた。
「そんな使い方、設計上想定されていません」
「戦場も想定していません」
ミリアは言った。
レオンは成功率を計算した。
「成功率は」
「三七パーセントです」
司令室が沈黙した。
低い。だが、二一よりは高い。そして、他船団への被害拡大率は二七パーセントまで下がる。
レオンはミリアを見た。
「三七は高いですね」
ミリアは、小さく息を吐いた。
「そう言うと思いました」
「実行してください」
「了解」
エリナがレオンを見た。
「切り離すのでは」
「より良い数字が出ました」
「本当に、数字でしか動かないんですね」
「今回は、その数字を中尉が作りました」
エリナはミリアを見た。ミリアはもう画面へ向かっていた。
「《エイレーネ》へ送信。主機停止のまま、姿勢制御だけ維持。旧式補給ポッド群へ同期信号を送ります。民間帯域を開けてください。敵に見せる信号を作ります」
それから二十一分、司令室の全員が息を詰めていた。
敵哨戒艦は近づいた。《エイレーネ》は動かない。ただ、周囲の無人ポッドがゆっくりと動き始める。小さな、古い、忘れられた機械たちが、九百四十人を乗せた船を押した。
敵哨戒艦は、一度だけ進路を変えた。だが、攻撃しなかった。
無人の漂流物と判断したのか。あるいは、判断に迷ったのか。どちらでもよかった。
《エイレーネ》は、哨戒圏を抜けた。
司令室に、遅れて歓声が上がった。
ミリアは椅子に座り込んだ。
レオンは言った。
「よくやりました」
彼女は少しだけ笑った。
「少佐に褒められると、戦場が悪化しそうです」
「もう悪化しています」
「では、ちょうどいいですね」
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