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銀河帝国の敗戦処理官、撤退命令だけで三万人を救う  作者: 鷹山
第一部 消えなかった名前たち
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灰色の門

 灰色の門作戦。

 レオンが提出した撤収計画の名を、ゼッケンドルフは気に入らなかった。

「勝利の名ではないな」

「勝利する作戦ではありません」

「では敗北の名か」

「人を通す門の名です」

 作戦の骨子は単純だった。

 カレリア要塞が健在であるように見せながら、内部の人間を段階的に外へ出す。

 ただし、問題は山ほどあった。同盟軍は包囲網を狭めている。正規の航路は監視されている。輸送艦は足りない。避難民は多すぎる。要塞司令部には、まだ撤収に反対する将校がいる。そして、カレリアが落ちると知れば、要塞内はパニックになる。

 だから、誰にも全体を知らせない。必要な者に、必要な分だけ伝える。

「まず砲台を偽装します」

 レオンは会議室に集まった少数の関係者へ説明した。

 ゼッケンドルフ、ミリア、エリナ、整備長、医療責任者、輸送隊長。それだけだった。

「稼働していない砲台にも熱源を置き、通信試験信号を流します。外から見れば、全砲台が再起動準備中に見えます」

 整備長が唸った。

「砲身の動作まではごまかせません」

「動かす必要はありません。敵に『攻撃準備をしているかもしれない』と思わせれば結構です」

「その間に避難船を」

「はい。ただし、避難船とは呼びません。医療廃棄物搬出船、補給艦の空荷回送、通信ブイ修理艇。名目を分けます」

 エリナが手を上げた。

「最初に誰を乗せますか」

「生命維持装置が必要な患者。十歳未満の子ども。妊婦。重度外傷者。次に、医療従事者と整備技術者の一部」

「軍人は」

「後です」

 輸送隊長が顔をしかめた。

「兵士を後回しにすれば、反発が出ます」

「出ます」

「暴動になります」

「ならないよう、兵士には別の任務を与えます。避難誘導、輸送船の積載補助、医療区画の搬送、偽装砲台の設置。自分たちが逃げるのではなく、逃がしていると思わせます」

「実際は」

「実際もそうです。最後には彼らも逃がします」

 エリナがじっとレオンを見た。

「最後に残る人は」

「私たちです」

 ミリアが小さく息を呑んだ。

 レオンは続けた。

「最後の輸送船団が出た後、要塞司令部は総攻撃を装います。その隙に司令部と後衛を撤収させます」

 ゼッケンドルフが言った。

「誰がその総攻撃を指揮する」

「閣下です」

 老将は笑った。

「私に逃げろと言うのか、囮になれと言うのか、どちらだ」

「両方です」

 会議室に沈黙が落ちた。

「囮は死ぬために残るものではありません。生きて最後の船に乗るまでが任務です」

「死ぬ覚悟もない囮に、敵が騙されるか」

「死ぬ覚悟のある司令官は珍しくありません」

 レオンは老将を見た。

「生きて敗北の報告をする覚悟のある司令官は、少ないものです」

 ゼッケンドルフの表情が、わずかに動いた。

「私に恥をかけと」

「はい」

「正直だな」

「嘘をつく時間が惜しいので」

 老将はしばらくレオンを睨んでいた。やがて、深く息を吐いた。

「よかろう。灰色の門を開け」

     -

 ミリアの戦場は、砲塔の外ではなく通信室だった。

 正規の軍用通信網は同盟軍に監視されている。暗号化されていても、通信量の増減で作戦の意図は読まれる。だから、彼女は軍の外側に目を向けた。

 要塞都市の民間放送局。古い教育用通信衛星。廃止された鉱山用ビーコン。観光案内用の短距離案内波。旧式の救難信号発信機。

 軍人なら見向きもしない、低出力で不格好で遅い通信網。だが、それらは生きていた。

「民間帯域を使えば、同盟軍に読まれる可能性があります」

 若い通信兵が言った。

「内容は読ませない。存在は読ませる」

 ミリアは端末を操作しながら答えた。

「避難誘導は、医療連絡と配給変更に見せかける。輸送船の発進は、廃棄物処理と設備点検に偽装。民間放送局には、避難訓練の案内を流させます」

「訓練ですか」

「本番と言えば、人は走ります。訓練と言えば、並びます」

 通信兵は、少しだけ笑った。

「中尉、言い方がクラウゼン少佐に似てきましたね」

 ミリアは手を止めた。

「それは褒めていますか」

「判断が難しいです」

「私もです」

 彼女は再び画面へ向かった。

 命令が届かないから死ぬなら、命令が届く道を作る。

 グリムワルトで、彼女はレオンの命令を送った。今回は違う。今回は、彼女が道を作る。

     -

 最初の船は、医療廃棄物搬出船という名で出た。

 実際には、重病患者と子どもたちを乗せた小型輸送艇だった。

 エリナは、乗船口の前で患者リストを握っていた。

「ファルク先生」

 看護師が震える声で言った。

「本当に全員乗れますか」

「全員は無理」

 エリナは即答した。看護師が顔をこわばらせる。だが、エリナは続けた。

「だから、次の便を出す。今は、この便に乗る人を間違えない」

 彼女はリストを読み上げた。

 生命維持装置が必要な患者。酸素依存の子ども。妊婦。重度熱傷者。

 名前を呼ばれなかった者たちが、黙って見ている。

 その視線は痛かった。なぜ自分ではないのか。なぜあの人なのか。

 その問いに、エリナは一人ずつ答える時間がない。だから、レオンが作った基準に従った。公平で、冷たく、残酷な基準。だが、恣意ではない。それが今は救いだった。

「先生」

 小さな少女が、酸素マスク越しに言った。

「お母さんは」

 エリナは一瞬だけ言葉を失った。

 母親は、次の便だった。少女の状態では、今出さなければ危険だった。

「後から来るわ」

「本当」

「本当」

 エリナは少女の手を握った。

「私が乗せる」

 少女は頷いた。

 その横で、レオンが輸送艇の積載率を確認していた。エリナは彼に近づいた。

「嘘をつきました」

「母親を次の便に乗せれば、嘘ではなくなります」

「作れますか、次の便」

「作ります」

「作れなかったら」

「その時は、あなたに殴られるでしょうね」

 エリナは少しだけ眉を上げた。

「殴って済むと思っているんですか」

「思っていません」

「なら、作ってください」

「はい」

 輸送艇の扉が閉まった。

 外では、偽装砲台が熱源を放ち始めている。

 カレリア要塞は、まだ戦うふりをしていた。

 その影で、最初の百八十六人が外へ出た。

     -

 作戦三日目。

 避難者数、一万二千四百。

 残存者数、七万弱。

 敵包囲完成予測、五日後。

 順調ではなかった。ただ、最悪よりは良かった。

 レオンが司令室に戻ると、ゼッケンドルフが一人で戦略図を見ていた。

「少佐」

「はい」

「私は長く軍人をやってきた」

「存じています」

「若い頃は、撤退する司令官を軽蔑していた。戦場に背を向ける者に、兵はついてこないと思っていた」

 老将は静かに言った。

「今も、半分はそう思っている」

「半分は」

「残り半分が、邪魔をする」

 ゼッケンドルフは展望窓の外を見た。

 避難船団の光が、灰色の要塞の影から静かに離れていく。

「あの光を見ていると、私は間違っていたのかもしれんと思う」

「間違っていたかどうかは、後で記録すれば結構です」

「後で」

「今は人を出す時間です」

 老将は苦く笑った。

「君は容赦がないな」

「時間にも容赦がありません」

「そうだな」

 しばらく沈黙があった。やがて、ゼッケンドルフは言った。

「私は残るつもりだった」

「でしょうね」

「この要塞と共に死ねば、少なくとも兵たちは、司令官は逃げなかったと思うだろう」

「思います」

「それでは駄目か」

「駄目です」

「なぜだ」

「死んだ司令官は、敗北の報告を訂正できません」

 ゼッケンドルフの義眼がレオンを捉えた。

「生きて、何を言えと」

「要塞は落ちた。だが、人は逃がした。補給は足りず、報告は歪み、兵站は腐っていた。次に同じことをすれば、また死にます」

 レオンは言った。

「そう報告してください」

「貴族院は聞かんぞ」

「聞かなくても、記録には残ります」

「記録か」

 老将は小さく呟いた。

「君は本当に、死者の側に立つ男だな」

「生者を相手にするのは、あまり得意ではありません」

「知っている」

     -

 作戦五日目に、事故が起きた。

 輸送船エイレーネが第三退避航路で推進機関を停止した。

 乗員と避難民、合わせて九百四十名。そのうち二百名以上が負傷者だった。

 修理に必要な時間は四十分。敵哨戒艦が到達するまで二十二分。

 見捨てれば、他の船団は守れる。救おうとすれば、避難航路全体が露見する。

 司令室に緊張が走った。

「切り離すべきです」

 輸送隊長が言った。

「今なら他の船団は逃げられます。《エイレーネ》を救おうとすれば、第二、第三船団まで危険にさらされる」

 エリナが顔を上げた。

「乗っているのは民間人です」

「それは承知しています」

「承知して見捨てるんですか」

「全員を危険にさらすわけにはいきません」

 議論は感情に傾きかけていた。

 レオンは数字を見ていた。

 救助成功率、二一パーセント。他船団への被害拡大率、六八パーセント。見捨てた場合の損失、九百四十。救助失敗時の推定損失、最大六千。

 答えは出ていた。

「《エイレーネ》を切り離します」

 レオンが言った。

 エリナが彼を見た。

「本気ですか」

「はい」

「九百人を」

「他の五千を守るためにです」

「数字で言えば、そうでしょうね」

 エリナの声は震えていた。

「でも、その九百人にも顔があります」

「知っています」

「知っていて、捨てるんですか」

「はい」

 その時、それまで黙っていたミリアが、一歩前に出た。

「少佐」

「何ですか」

「別案があります」

 レオンは彼女を見た。

 ミリアは端末を操作し、通信図を投影した。

「《エイレーネ》の周囲には、旧式補給ポッド群があります。要塞建設時代の資材搬送用で、今は放棄されています」

「使えません」

「補給ポッドとしては使えません。ですが、識別信号は生きています」

 レオンの目が細くなった。

「偽装ですか」

「はい。《エイレーネ》の識別信号を一時的に隠し、補給ポッド群の信号を増幅します。敵哨戒艦には、無人漂流物が密集しているように見えるはずです」

「時間は稼げますか」

「十三分。うまくいけば十七分」

「修理には四十分必要です」

「修理はしません」

 ミリアは別の図を出した。

「《エイレーネ》を自走させるのではなく、無人補給ポッド群の慣性推進を連動させて押します。速度は遅いですが、敵哨戒圏から外すだけなら可能です」

 輸送隊長が驚いた声を上げた。

「そんな使い方、設計上想定されていません」

「戦場も想定していません」

 ミリアは言った。

 レオンは成功率を計算した。

「成功率は」

「三七パーセントです」

 司令室が沈黙した。

 低い。だが、二一よりは高い。そして、他船団への被害拡大率は二七パーセントまで下がる。

 レオンはミリアを見た。

「三七は高いですね」

 ミリアは、小さく息を吐いた。

「そう言うと思いました」

「実行してください」

「了解」

 エリナがレオンを見た。

「切り離すのでは」

「より良い数字が出ました」

「本当に、数字でしか動かないんですね」

「今回は、その数字を中尉が作りました」

 エリナはミリアを見た。ミリアはもう画面へ向かっていた。

「《エイレーネ》へ送信。主機停止のまま、姿勢制御だけ維持。旧式補給ポッド群へ同期信号を送ります。民間帯域を開けてください。敵に見せる信号を作ります」

 それから二十一分、司令室の全員が息を詰めていた。

 敵哨戒艦は近づいた。《エイレーネ》は動かない。ただ、周囲の無人ポッドがゆっくりと動き始める。小さな、古い、忘れられた機械たちが、九百四十人を乗せた船を押した。

 敵哨戒艦は、一度だけ進路を変えた。だが、攻撃しなかった。

 無人の漂流物と判断したのか。あるいは、判断に迷ったのか。どちらでもよかった。

 《エイレーネ》は、哨戒圏を抜けた。

 司令室に、遅れて歓声が上がった。

 ミリアは椅子に座り込んだ。

 レオンは言った。

「よくやりました」

 彼女は少しだけ笑った。

「少佐に褒められると、戦場が悪化しそうです」

「もう悪化しています」

「では、ちょうどいいですね」


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