不沈要塞
カレリア要塞群は、帝国北方の盾と呼ばれていた。
だが、レオン・クラウゼンが最初に見た数字は、盾ではなかった。
燃料備蓄、四一パーセント。
食糧備蓄、十八日分。
医療物資、七日分。
民間避難民、公式発表の三・二倍。
稼働可能砲台、五八パーセント。
脱出可能な輸送艦、必要数の三割未満。
敵包囲完成予測、九日後。
要塞そのものは、まだ二十日は持つ。
だが、中の人間は七日で壊れる。
「どう見ますか、少佐」
隣でミリア・エーレンベルク中尉が尋ねた。
彼女は端末を抱え、表示された数字をじっと見ている。グリムワルト回廊の撤退戦からまだ十日も経っていない。軍服の袖には、あの戦場で焼け焦げた跡がうっすら残っていた。
レオンは端末を閉じ、司令部の展望窓から灰色の防壁を見下ろした。
巨大な壁だった。
星間要塞カレリア。小惑星をくり抜き、外殻に装甲を貼り、砲台を埋め込み、内部に軍港と居住区を抱えた人工の山脈。帝国北方の航路を塞ぐ、最後の門。
帝国の広報は、ここを不沈要塞と呼んだ。
だが、門は外からだけ壊れるわけではない。
その足元では、避難民の列が医療区画の前まで続いていた。痩せた老人が床に座り込み、母親が子どもに酸素マスクを譲っている。軍用の配給箱は足りず、通路の隅では兵士と民間人が水の容器をめぐって怒鳴り合っていた。
「この要塞は落ちます」
レオンは言った。
「何日持ちますか」
「要塞なら二十日」
彼は、列の中で咳き込む子どもを見た。
「人間なら七日です」
-
カレリア要塞群司令官、オットー・フォン・ゼッケンドルフ大将は、老いた獅子のような男だった。
白い髭。深い皺。片目は義眼で、左腕は古い戦傷のために肘から下がない。だが、背筋はまっすぐで、軍服には一分の乱れもなかった。
リーデン侯爵のような虚飾はない。彼は本物の軍人だった。だからこそ、厄介だった。
「撤退計画だと」
ゼッケンドルフは低い声で言った。
司令室の壁には、帝国北方航路の戦略図が広がっている。赤い敵影は、じわじわとカレリアを囲みつつあった。
「はい」
レオンは端末を差し出した。
「現在の備蓄、民間避難民数、敵包囲速度をもとに試算しました。要塞を維持した場合、十日目以降に医療区画が崩壊。十二日目に食糧配給の統制不能。十四日目に民間区画で暴動発生。十六日目には司令部機能も維持できません」
「カレリアは帝国北方の門だ」
「門に人を縛りつけても、門は強くなりません」
司令室の空気が固まった。
同席していた参謀たちが、いっせいにレオンを見た。
だが、ゼッケンドルフは怒鳴らなかった。彼は静かに目を細めただけだった。
「クラウゼン少佐。君の名は聞いている。グリムワルトで敗残艦隊を拾い集めたそうだな」
「勝たせたわけではありません」
「だから敗戦処理官か」
「はい」
「だが、ここは艦隊ではない。要塞だ。逃げれば済む場所ではない」
ゼッケンドルフは戦略図を指した。
「カレリアを捨てれば、同盟軍は北方航路へなだれ込む。背後には民間星系が十三、工業衛星が二十七、農業コロニーが四十以上ある。ここが落ちれば、そのすべてが敵の前に裸で立つことになる」
「今のまま守れば、ここにいる八万三千人が死にます」
「その八万三千で、八千万を守れるなら安い」
ミリアが息を呑んだ。
レオンは表情を変えなかった。
「閣下は、本気でそうお考えですか」
「本気でなければ、この椅子には座れん」
老将の声には、虚勢がなかった。
彼は命を数字で切り捨てる冷酷な男ではない。むしろ、死者の重さを知っているからこそ、より大きな数を守るために小さな数を犠牲にする覚悟を決めている。
レオンは、その種の軍人を嫌いではなかった。だが、好き嫌いで人は救えない。
「閣下」
レオンは端末を開いた。
「カレリアが二十日持つという前提は、虚偽です」
ゼッケンドルフの義眼が、わずかに光った。
「何だと」
「燃料備蓄、食糧、医療物資、砲台稼働率、民間避難民数。司令部から本国へ送られた報告と、現地記録が一致しません」
参謀の一人が声を荒げた。
「言いがかりだ! 後方参謀ごときが、前線司令部の記録に口を出すな」
「口ではなく数字を出しています」
レオンは淡々と言った。
「公式報告では、民間避難民は二万六千。実数は八万三千。砲台稼働率九一パーセントは、実際は五八パーセント。医療物資二十二日分は、実際は七日分」
「それは一時的な集計誤差だ」
「集計誤差で包帯が三分の一になりますか」
参謀は言葉を詰まらせた。
ゼッケンドルフは沈黙していた。その顔に、怒りではなく疲労が浮かんでいた。彼は知らなかった。少なくとも、すべては知らなかった。
「閣下」
レオンは言った。
「閣下が守ろうとしている要塞は、報告書の中にしかありません」
その一言は、砲撃より深く老将に刺さったようだった。
-
要塞の下層区画は、すでに戦場の後だった。
砲撃を受けたわけではない。それでも、人が多すぎる場所は、それだけで壊れていく。
通路には毛布が敷き詰められ、避難民が寝ていた。空調は追いつかず、湿った汗と消毒液の匂いがこもっている。壁面の表示板には「軍人優先通路」と赤く出ていたが、誰も守っていなかった。守れる状況ではなかった。
ミリアは、手元の端末と目の前の光景を何度も見比べていた。
「公式報告では、この区画は空のはずです」
「報告書では、そうです」
「どうして本国に報告しなかったのでしょう」
「報告すれば、誰かが責任を取る必要があります」
レオンは歩きながら答えた。
「責任を取りたくない人間は、数字を小さくします」
その時、前方で怒鳴り声が上がった。
「軍用医療区画は満床です! これ以上は入れられません」
「この子は呼吸ができないのよ」
「規則です。民間人は地下第六区画へ」
「そこに医者はいないでしょう」
若い母親が、幼い子どもを抱えて泣いていた。子どもの唇は青く、酸素マスクは旧式のものだ。軍医らしき男は疲れ切った顔で、しかし通路を塞ぐように立っている。
その間に入ったのは、一人の女性だった。白衣は汚れ、袖には血がついている。髪は乱れていたが、目だけは強かった。
「その子をこちらへ」
「ファルク先生、もうベッドがありません」
「床があるでしょう」
「軍の規則で」
「規則に肺はありません」
彼女は子どもを受け取り、素早く酸素マスクを付け替えた。
レオンは足を止めた。
女性が振り返る。
「あなたたちは」
「帝国軍務省、第七後方参謀局。レオン・クラウゼン少佐です」
「敗戦処理官?」
女性の目が鋭くなった。
「やっと来たのが、死者を数える人ですか」
「医師ですか」
「エリナ・ファルク。要塞都市カレリア第三区医療院の院長です。今は、見ての通り何でも屋ですが」
エリナはレオンをまっすぐ見た。
「撤退を勧めに来たと聞きました」
「はい」
「簡単に言いますね。ここを捨てたら、私たちはどこへ行けばいいんですか」
「生きていける場所です」
「そんな場所があるなら、最初から逃げています」
「だから作ります」
エリナは笑わなかった。
「数字で死者を数える人に、ここにいる人たちの顔が見えるんですか」
ミリアが何か言おうとした。レオンはそれを視線で止めた。
「顔を覚えた人間から先に救えば、覚えていない人間が死にます」
エリナの表情が硬くなった。
「だから数字で見る、と」
「はい」
「冷たい人ですね」
「そうでなければ、順番を決められません」
エリナは子どもの呼吸を確認し、母親へ引き渡した。そして、レオンへ向き直った。
「順番を決めるということは、後回しにされる人がいるということです」
「います」
「その人たちに、あなたが説明できますか」
「必要なら」
「責任を取れますか」
「責任で人は生き返りません」
レオンは彼女の目を見た。
「だから、責任を取る前に船を出します」
エリナは黙った。
その沈黙は、納得ではない。だが、拒絶だけでもなかった。
-
虚偽報告の出どころは、すぐに分かった。
兵站監、カール・フォン・メルツ大佐。名門ではないが、帝都の軍需商会と深いつながりを持つ男だった。彼は司令部の副官室で、汗を拭きながら言い訳を並べた。
「避難民数は一時的な変動です。民間人は移動しますからな」
「医療物資は」
「前線特有の消費増です」
「燃料備蓄は」
「輸送遅延です。同盟軍の妨害で」
レオンは端末を机に置いた。そこには、補給艦隊の航行記録が表示されていた。
「三か月前、カレリアへ向かうはずだった燃料輸送船六隻が、途中で進路を変更しています」
メルツ大佐の口が止まった。
「行き先は、軍需商会所有の民間ドック。そこから燃料は、別名義で帝都方面へ転売されています」
「それは……緊急再配分です」
「要塞の燃料を帝都の貴族所有船へ再配分したのですか」
「証拠があるのか」
「あります」
ミリアが一歩前に出た。
「暗号通信ログを復元しました。大佐の認証印も残っています」
メルツ大佐は、今度こそ顔色を変えた。
「通信参謀ごときが、私の記録を」
「通信参謀ですので」
ミリアは静かに言った。
「記録を見るのが仕事です」
レオンはゼッケンドルフへ視線を向けた。
老将は、重い沈黙の中で端末を見ていた。怒りは顔に出ていない。だが、義手のない左袖がわずかに震えていた。
「メルツ大佐」
ゼッケンドルフは言った。
「君を兵站監の任から解く」
「閣下! お待ちください、これは誤解で」
「営倉へ連れて行け」
兵士が入ってきた。メルツ大佐は抵抗したが、すぐに取り押さえられた。
彼が連れ出された後、司令室には重い沈黙が残った。
「私は」
ゼッケンドルフが言った。
「自分の要塞の数字も見えていなかったということか」
「現場の全てを司令官一人で見ることはできません」
「慰めは不要だ」
「慰めではありません」
レオンは端末を閉じた。
「今、見えました。なら、ここから判断できます」
ゼッケンドルフはレオンを見た。
「撤退か」
「撤収です」
「同じだ」
「違います。撤退は敵から逃げることです。撤収は、守るべきものを運び出すことです」
老将はしばらく黙っていた。やがて、低く笑った。
「言葉遊びがうまいな、敗戦処理官」
「数字遊びよりは得意ではありません」
-
同盟軍旗艦の艦橋に、カレリア要塞の包囲図が青白く浮かんでいる。
アレクサンドル・ヴェガ提督は、要塞から伸びる通信量を眺めていた。
「増えたな」
副官が頷く。
「帝国軍の正規通信とは別に、低出力の民間波が増えています。旧式の教育用衛星や救難ビーコンまで使っているようです」
「ミリア・エーレンベルク」
「はい」
「グリムワルトで、クラウゼンの通信を通した参謀だ。おそらく彼女がいる」
副官は少し驚いた顔をした。
「では、クラウゼン少佐も」
「いるだろうな」
ヴェガは要塞を見つめた。灰色の外殻に無数の砲台が並んでいる。古い要塞だ。強固だが、鈍い。飢えれば内側から崩れる。
「攻めますか」
「攻めない」
「今なら包囲完成前です。敵は混乱しています」
「だから攻めない」
ヴェガは静かに言った。
「混乱した要塞に撃ち込めば、民間区画へ砲火が逸れる。カレリアには避難民がいる」
「帝国側も民間人を置いているのです。こちらが配慮する必要は」
「必要があるかないかで戦争をすると、最後には何でも必要なくなる」
副官は口を閉じた。
ヴェガは、要塞の一角に表示された微弱な通信を拡大した。民間放送局の帯域。教育用衛星。旧式救難ビーコン。
正規軍の通信網ではない。誰かが、命令の通る道を作り直している。
「クラウゼンは要塞を捨てる」
「ならば撤退路を塞ぎますか」
「塞げば、彼は別の出口を作る」
「では、どうします」
「出口を数える」
ヴェガは笑みを消した。
「彼が何を守り、何を捨てるかを見る」
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