消えた補給線
第十八輸送群は、公式には沈んでいた。
同盟軍の奇襲を受け、カレリア到着前に壊滅。
生存者なし。
積荷回収不能。
輸送記録、戦闘により消失。
報告書の上では、よくある損害だった。
前線へ向かう船が沈む。
燃料が届かない。
医療物資が届かない。
酸素ユニットが届かない。
そういうことは、戦争では珍しくない。
珍しくないからこそ、多くの者はその一行を読み飛ばす。
だが、ミリア・エーレンベルク中尉は読み飛ばさなかった。
帝国軍務省監察局の臨時執務室は、狭かった。
天井は低く、空調は古く、棚には過去十年分の監査資料が詰め込まれている。前線司令部のような警告灯もなければ、司令室のような立体星図もない。
あるのは、書類だった。
紙の書類。
電子記録。
古い記録媒体。
封印された証拠箱。
帝国の負け戦は、最後にはここへ来るらしい。
ミリアは端末を抱え、資料の山を避けながら、部屋の奥へ駆け込んだ。
「少佐」
レオン・クラウゼン少佐は、積み上がった報告書の山から顔を上げた。
「沈んだ船が、燃料を下ろしています」
レオンは一拍置いて言った。
「器用な沈み方ですね」
ミリアは端末を卓上に置いた。
画面には、第十八輸送群の輸送艦《ヘルメス三号》の識別信号が表示されている。
沈没推定時刻から四十六時間後。
帝都近郊、ノルトハーフェン民間ドック。
貨物識別は、軍用高濃度燃料。
受領先は、ローエン商会系列の民間倉庫。
「公式記録では、第十八輸送群はカレリア到着前に同盟軍の襲撃で壊滅しています」
「救難信号は」
「ありません」
「残骸確認は」
「ありません」
「護衛艦の戦闘ログは」
「戦闘そのものが記録されていません」
「敵側記録は」
「捕虜交換時に中立ステーションへ提出された同盟軍の該当宙域戦闘記録に、該当する攻撃はありません」
レオンは画面を見た。
「沈んだ理由が一つ減りましたね」
「代わりに、下ろした理由が増えました」
ミリアは別の画面を開いた。
カレリア要塞群へ送られるはずだった積荷リスト。
燃料。
医療物資。
酸素ユニット。
砲台修理部品。
低温区画用熱交換器。
その一部が、ノルトハーフェンで民間物資として再登録されている。
再登録名は、北方貴族領開発支援物資。
受領認証は、帝国軍需商会連合。
監察局の扉が開いた。
「朝から楽しそうだな」
入ってきたのは、マティアス・グライフ大佐だった。
帝国軍務省監察局所属。
年齢は五十を少し越えたくらい。灰色の髪を短く刈り、片手には冷めたコーヒー、もう片方には分厚い書類束を持っている。軍服はよれ、襟元の階級章だけが妙に磨かれていた。
彼はレオンの新しい上官だった。
「沈んだ輸送艦が帝都で燃料を下ろしていました」
ミリアが言うと、グライフ大佐は眉一つ動かさなかった。
「よくある」
「よくあるんですか」
「報告書の中ではな。現実では、あまりない方が助かる」
大佐は空いている椅子に腰を下ろした。
「ようこそ監察局へ、クラウゼン少佐、エーレンベルク中尉。ここでは砲弾の代わりに稟議書が飛ぶ。避け損ねると、体ではなく証拠が死ぬ」
「前線より悪いですね」
ミリアが言った。
「前線は、誰が撃ってきたか分かるだけ親切だ」
グライフ大佐は、ミリアの端末を覗き込んだ。
「第十八輸送群か。なるほど。カレリアに届いていれば、要塞の持久日数が三日は延びた船団だ」
レオンは言った。
「ご存じでしたか」
「知らないふりをしていた」
「理由は」
「部下が少なかった。敵が多かった。あと、私の机の引き出しが一つ爆発した」
ミリアは瞬きをした。
「爆発?」
「比喩だ」
グライフは冷めたコーヒーをすすった。
「半分は」
-
ノルトハーフェン民間ドックは、帝都の外縁軌道に浮かぶ巨大な貨物施設だった。
帝都本星へ直接降ろせない軍需物資や民間開発資材が、ここで再仕分けされる。倉庫、燃料貯蔵タンク、整備バース、税関監査区画が複雑に絡み合い、外から見れば金属でできた小都市のようだった。
レオン、ミリア、グライフの三人は、監察局の権限でドックへ入った。
案内役のドック主任は、最初から汗をかいていた。
「監察局の方々が来られるとは、事前に聞いておりませんで」
「事前に聞かせると、片づけるでしょう」
グライフが言った。
「いえ、そのような」
「片づいていない方が助かる。歩け」
主任は黙った。
貨物区画には、無数のコンテナが並んでいた。
外装は民間用に塗り替えられている。だが、ミリアが携帯端末を近づけると、古い軍用識別コードが薄く反応した。
「少佐」
彼女は声を落とした。
「これ、カレリア行きの酸素ユニットです。上書きされていますが、下層タグが残っています」
レオンはコンテナの側面を見た。
表示には、民間鉱山用生命維持補助機材、と書かれている。
積荷の目的地は、エーベルハルト伯爵家の関連鉱山。
「酸素は用途を選びませんね」
「人間が選ぶんですね」
ミリアが言った。
レオンは少しだけ彼女を見た。
グライフ大佐は、別のコンテナを叩いた。
「こっちは医療用凝固剤だ。北方開発会社向けになっている。戦場では出血を止める。鉱山では事故に備える。使い道としては、どちらも間違っていない」
「では、何が問題ですか」
主任が恐る恐る言った。
グライフは彼を見た。
「届く場所だ」
その時、区画の奥から拍手の音がした。
ゆっくりと、三度。
上等な外套を着た男が歩いてくる。
太った男ではない。むしろ細身で、身のこなしは軽い。髪には油が行き届き、指には派手ではないが高価な指輪が光っていた。
「いやはや、監察局の皆様は仕事が早い」
男はにこやかに頭を下げた。
「グスタフ・ローエン。ローエン商会の理事を務めております」
「あなたの倉庫ですか」
レオンが聞いた。
「弊社系列の管理施設です。戦時物流は複雑でして、名義も所有権も一つの箱の中で何度も変わります」
「便利ですね」
「必要なのです」
ローエンは穏やかに答えた。
「戦争は勇気で動くものではありません。船と燃料と契約で動きます。閣下方が前線でどれほど勇ましく命じても、荷が動かなければ兵は飢え、砲は沈黙する」
「では、なぜカレリアに荷が届かなかったのですか」
ミリアが聞いた。
ローエンは彼女へ微笑んだ。
「中尉、戦時には優先順位が変わります。カレリアが危険となれば、荷を別の前線へ回すこともある。失われる場所へ物資を投げ込むより、守れる場所へ送る。冷たいようですが、合理的です」
「その結果、カレリアでは医療物資が七日分でした」
「前線はいつも物資を欲しがるものです」
ミリアの表情が固くなる。
レオンが口を開いた。
「第十八輸送群は、公式には敵襲で壊滅しています」
「痛ましいことです」
「その船がここに来ています」
「混乱でしょう」
「燃料も下ろしています」
「識別信号の誤りかもしれません」
「積荷タグも一致しています」
「タグなど、いくらでも偽装されます」
「では、倉庫を開けます」
ローエンは一瞬だけ黙った。
すぐに、柔らかい笑みを戻す。
「監察令状は」
グライフ大佐が、よれた軍服の内ポケットから書類を出した。
「ある」
ローエンは、その書類を見て肩をすくめた。
「さすが監察局。嫌われる理由が分かります」
「褒め言葉だ」
「もちろん」
ローエンは一歩下がった。
「どうぞ、お調べください。ただし、ひとつ忠告を。戦時物流は血管のようなものです。乱暴に切れば、膿だけでなく血も流れます」
レオンは答えなかった。
-
倉庫の奥には、カレリアの名前が残っていた。
完全には消されていない。
むしろ、完全に消す必要がないと考えられていたのだろう。
現場の作業員は、ただ荷を動かす。
主任は、ただ受領印を押す。
商会は、ただ名義を変える。
誰も、自分が要塞の酸素を奪ったとは思っていない。
ミリアは、薄く残った識別コードを一つずつ記録した。
酸素ユニット、三百二十。
医療用凝固剤、二千箱。
艦載燃料タンク、十二基。
砲台駆動部品、四十八セット。
カレリアへ届くはずだったもの。
届かなかったもの。
それらが、今は帝都近郊の倉庫で、別の名前を与えられて眠っている。
「少佐」
ミリアは言った。
「これが届いていれば、カレリアは」
「仮定は後で」
レオンは静かに言った。
「今は番号を拾ってください」
「はい」
彼女は唇を噛み、記録を続けた。
倉庫の出口近くで、作業服姿の女性がこちらを見ていた。
痩せた顔。疲れた目。
見覚えがあった。
「ハンナ・リート技師」
ミリアが声をかけると、女性は肩を震わせた。
アルム採掘衛星から帰還した民間技師だった。
彼女は、捕虜交換後、ローエン商会系列の医療審査を受けているはずだった。まだ休養中でなければならない。
「なぜここに」
レオンが聞いた。
ハンナは視線を落とした。
「出勤命令が来ました。捕虜だった期間は、会社規定では欠勤扱いだそうです」
ミリアは何か言いかけたが、言葉にならなかった。
ハンナは周囲を見回し、小さく言った。
「ここでは話せません」
-
ハンナが指定したのは、ドック外壁近くの整備用通路だった。
窓の外には、帝都が遠く輝いている。
彼女は何度も背後を確認してから、袖の内側から小さな記録チップを取り出した。
「証言はできません」
最初にそう言った。
「私は兵士ではありません。家族もいます。商会に逆らえば、仕事だけで済まない」
「分かりました」
レオンは受け取らなかった。
ハンナは顔を上げた。
「受け取らないのですか」
「証言しない自由もあります」
「自由?」
「はい」
「私は、助けてもらったのに?」
「助けたことと、証言を求めることは別です」
ハンナの目が揺れた。
ミリアは、レオンの横顔を見た。
彼は本当に、証言を求めていないのだと分かった。
必要なら諦める。
それが最適なら、彼はそうする。
ハンナはしばらく黙っていた。
それから、記録チップをレオンではなく、ミリアに差し出した。
「証言ではありません。写しです」
ミリアは受け取った。
「何の写しですか」
「アルムで燃料を積み替えた時の作業リスト。第十八輸送群の積荷番号もあります。私が見た、ということは書かれていません」
「それでも、あなたが渡したと分かれば」
「拾ったことにしてください」
ハンナは少しだけ笑おうとして、失敗した。
「捕虜収容所で、同盟の医師が言いました。名前が記録に残っている限り、あなたは迷子ではない、と。変な言い方だと思いました。でも、帰ってきたら、分かりました」
彼女は倉庫の方を見た。
「私は、また迷子になりたくありません」
ミリアは記録チップを握った。
「保全します」
「お願いします」
ハンナは頭を下げ、足早に去っていった。
レオンは、彼女の背を見送った。
「中尉」
「はい」
「複製を」
「もう始めています」
「早いですね」
「迷子が増えると困りますので」
レオンは何も言わなかった。
-
倉庫が燃えたのは、その夜だった。
ノルトハーフェン第七貨物区画。
火災発生時刻、二十三時四十分。
原因、燃料系統の整備不良。
被害、倉庫三棟、保管記録室一室、貨物識別端末二十七基。
死者なし。
負傷者軽微。
公式には、事故だった。
ミリアは翌朝、その報告を読んで、端末を握りしめた。
「また整理済みですか」
「今回は物理的ですね」
レオンは焼けた倉庫の映像を見ていた。
炎は消えている。
黒く焦げたコンテナの山だけが残っている。
軍用タグも、民間ラベルも、燃えてしまえば同じ灰だ。
グライフ大佐は、コーヒーをすすりながら言った。
「死者が出ていないのは幸いだ」
「証拠は死にました」
ミリアが言うと、グライフは肩をすくめた。
「帝都ではよくある死因だ」
「大佐」
「怒るな。怒るなら記録しろ。怒りは証拠にならんが、記録は時々刃物になる」
ミリアは深く息を吸った。
「倉庫内の原本は焼けました。でも、下層タグのスキャン、ハンナ技師の作業リスト、ドック入港記録、第十八輸送群の識別信号は保全済みです」
「どこに」
「監察局、外務省戦時調停局、中立ステーションの共同記録庫」
グライフ大佐の眉が上がった。
「中立ステーション?」
「アルム捕虜の健康被害原因資料として、捕虜交換記録に紐づけました。燃料や医療物資の未着が、捕虜化前の環境悪化に関係するためです」
「誰がその理屈を考えた」
「私です」
「通したのは」
「クラリッサ参事官です」
グライフはレオンを見た。
「少佐、部下の教育が悪いな」
「はい」
「褒めている」
「でしょうね」
ミリアは少しだけ胸を張った。
グライフは端末を開いた。
「これで、商会は倉庫を燃やしただけでは済まなくなった。だが、ローエンはまだ沈まん」
「なぜですか」
「船を持っているからだ」
グライフは星図を表示した。
帝国北方へ向かう補給航路。
その六割以上に、ローエン商会系列の輸送船が関わっている。
直轄軍輸送だけでは足りない。
帝国は、すでに商会の船で戦争をしている。
「ローエンを逮捕すれば」
グライフは言った。
「北方の補給は止まる。少なくとも、数週間は乱れる。カレリアの次に危ない小要塞が三つある。そこに燃料が届かなくなる」
「不正を見逃せと?」
ミリアが言った。
「そうは言っていない。だが、首を落とす前に、血管をつなげと言っている」
レオンは星図を見ていた。
補給線。
船。
契約。
貴族領。
商会倉庫。
前線要塞。
線は、思ったよりも細かった。
「軍直轄輸送へ切り替えるには」
レオンが聞いた。
「本来なら三か月」
「最短で」
「書類上は六週間」
「実際は」
「権限を無視すれば十日」
グライフはにやりと笑った。
「権限を無視するのは得意か」
「よく嫌われます」
「それは得意ということだ」
-
ローエンは、監察局からの出頭命令に素直に応じた。
燃えた倉庫の件で、動揺した様子はない。
むしろ、彼は新しい外套を着ていた。
「火災は残念でした」
彼は言った。
「幸い、死者は出なかったようですが」
「証拠は焼けました」
ミリアが言うと、ローエンは悲しそうに眉を下げた。
「戦時下では、物も記録も失われます。痛ましいことです」
レオンは端末を卓に置いた。
「第十八輸送群の積荷番号です」
「ほう」
「アルムで再積載され、ノルトハーフェンに到着し、貴族領開発支援物資として再登録されています」
「その記録は焼けたはずですが」
「焼ける前に写しました」
「用意がよろしい」
「あなたほどではありません」
ローエンは笑った。
「少佐、私を逮捕したいのですか」
「必要なら」
「必要ですか?」
レオンは答えなかった。
ローエンは椅子に深く座った。
「率直に話しましょう。私を潰せば、北方の補給は三か月乱れます」
「十日に短縮します」
「理論上は」
「実務上も」
「では、船員は? 航路許可は? 保険は? 燃料決済は? 民間ドックの整備権は? 軍の直轄輸送など、書類の上では勇ましいですが、現実には商会の台所を借りなければ鍋一つ動かせません」
ローエンの声は穏やかだった。
だが、その中には自信があった。
「私たちは腐っているかもしれません。ですが、腐った柱でも屋根を支えることはある。あなたが蹴り倒せば、下にいる兵士が濡れます」
ミリアは何も言えなかった。
腹立たしいが、ローエンの言葉には一部の事実があった。
レオンは言った。
「では、柱を交換します」
「簡単に?」
「濡れる前に」
ローエンの笑みが、少し変わった。
「誰の船で?」
「あなたの船です」
「私の?」
「ローエン商会系列の北方輸送船は、軍需契約に基づき、緊急時には軍の指揮下へ一時編入可能です」
「それは大規模侵攻時の条項です」
「カレリア喪失後の北方戦線再編は、大規模侵攻の前段階です」
「拡大解釈ですな」
「監察局は得意です」
グライフ大佐が横で咳払いをした。
「私は聞いていない」
「今聞きました」
「なら仕方ない」
ローエンはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと手袋を外した。
「少佐、あなたは私を倒していませんよ」
「はい」
「船も、倉庫も、人員も、航路も、まだ私のものです」
「一時的に借ります」
「借りたものは返さなければならない」
「返す時に数えます」
ローエンは初めて、不快そうな顔をした。
「あなたは商人に向きません」
「よく言われます」
「主に味方から?」
「はい」
「では、敵からも言っておきましょう」
ローエンは立ち上がった。
「あなたは勝っていません。荷物の流れを少し変えただけです」
「前線には、それで十分な時があります」
ローエンは答えず、部屋を出ていった。
-
その夜から、監察局は補給線の切り替えを始めた。
書類上は、北方戦線補給安定化のための一時措置。
実態は、ローエン商会の喉元に軍の手を突っ込む作業だった。
ミリアは通信網を組み直した。
ローエン系列の輸送船へ、監察局、軍務省、外務省の三重承認付き航行命令を送る。
船長たちには、従えば軍が燃料と保険を保証すること、拒否すれば契約不履行として船を接収することを伝えた。
脅しだけでは足りない。
安心だけでも足りない。
両方が必要だった。
グライフ大佐は、軍直轄ドックの古い倉庫を開けさせた。
そこには、退役予定だった補給艇や整備資材が眠っていた。旧式だが動く。遅いが飛べる。燃費は悪いが、前線へ届く。
レオンは積荷の優先順位を組み替えた。
燃料。
酸素。
医療物資。
熱交換器。
砲台部品。
食糧。
嗜好品は最後。
式典用物資は削除。
貴族領開発支援物資は、すべて後回し。
抗議はすぐに来た。
エーベルハルト伯爵家の事務官。
軍需商会連合。
北方開発評議会。
貴族院軍務委員会。
抗議文は、次々と監察局へ届いた。
グライフ大佐は、それらを一つの箱に入れた。
「読むんですか」
ミリアが聞く。
「読む」
「いつ」
「戦争が終わったら」
「終わりますか」
「だから読まずに済む」
ミリアは少しだけ笑った。
だが、笑っている時間は長くなかった。
北方の小要塞から、緊急照会が入っていた。
雪線要塞群。
燃料残量、二日分。
外気温制御、低下。
負傷兵、四百十二名。
避難船、燃料不足で待機中。
ミリアはその通信をレオンへ渡した。
「少佐」
「最初に送る便を変えます」
「予定では、第三便でした」
「第一便へ」
「護衛は」
「薄くなります」
「危険です」
「燃料が届かなければ、避難船が飛べません」
ミリアは頷いた。
「雪線要塞群へ、第一便変更を送ります」
彼女は通信を打ち込んだ。
今度は、どこかの衛星を継ぎ合わせる必要はない。
正規の回線で、正規の命令として送る。
それが、少し不思議だった。
-
グスタフ・ローエンの逮捕状が出たのは、補給切り替え開始から三日後だった。
容疑は、軍需物資の不正転用、戦時輸送記録の改竄、監察妨害。
ただし、逮捕状にエーベルハルト伯爵の名はなかった。
ローエン商会の理事数名と、兵站局の中級官僚、民間ドックの責任者。
倒れてよい者たちの名だけが、きれいに並んでいた。
ミリアはその一覧を見て言った。
「伯爵の名前がありません」
「証拠が足りない」
レオンは答えた。
「証拠はあります」
「伯爵まで届く形ではありません」
「届かないように切られているんですね」
「はい」
グライフ大佐が横から言った。
「貴族の尻尾は、いつも高級品だ。切り落としても本体は痛がらん」
「嫌な表現ですね」
「監察局では上品な方だ」
ローエンは、出頭時と同じように穏やかに逮捕された。
護送艇へ乗る前、彼はレオンを見た。
「少佐」
「何ですか」
「荷物は届きましたか」
「一部は」
「なら、私の船は役に立った」
「はい」
「私も役に立った」
「それは記録に残します」
ローエンは笑った。
「本当に、商人に向かない」
護送艇の扉が閉まった。
その十二時間後、護送艇は通信を絶った。
公式記録では、所属不明艦の襲撃。
護送対象、死亡推定。
遺体未確認。
護送兵三名死亡。
ローエンの生死は不明。
ミリアが報告を読み上げた時、部屋の空気は重かった。
「便利な死に方ですね」
レオンは言った。
グライフ大佐は、冷めたコーヒーを置いた。
「死んだことにしたい者が多い時、人はよく消える」
「追いますか」
ミリアが聞いた。
レオンは少しだけ考えた。
「今は補給を追います」
彼は端末を開いた。
北方行き第一便の航行状況。
雪線要塞群まで、あと二時間。
-
雪線要塞群からの通信が届いたのは、翌朝だった。
短い報告だった。
『第一補給便、到着。燃料、医療物資、酸素ユニット、熱交換器、受領確認』
ミリアはそれを読み上げた。
次の行で、少し声が止まった。
『負傷兵四百十二名のうち、緊急手術対象九十六名、手術開始。避難船三隻、燃料補給後、民間人搬出予定』
それだけだった。
感謝の言葉も、勝利の報告もない。
ただの受領確認。
補給が着いた。
手術が始まった。
船が飛ぶ。
ミリアは画面を見つめていた。
「中尉」
レオンが言った。
「記録に」
「はい」
彼女は受領報告を保存した。
数字は小さかった。
四百十二。
九十六。
三隻。
要塞。
船。
燃料。
画面の上では、それだけだった。
だが、ミリアには、医療区画の照明が戻る様子が見えた。
凍えた通路に暖気が流れ込む様子が見えた。
避難船の推進器に火が入る様子が見えた。
カレリアで届かなかったものが、別の場所には届いた。
それだけのことだった。
それだけで、十分だった。
グライフ大佐は、箱に積まれた抗議文を見た。
「さて、次は貴族院から山ほどお手紙が来るぞ」
「読むんですか」
ミリアが聞いた。
「表題だけ読む。中身はだいたい同じだ」
レオンは新しい報告書を開いた。
北方戦線補給再編、第一次報告。
不正転用物資、回収分。
未回収分。
再配分先。
関係商会。
失踪者、グスタフ・ローエン。
関連疑義、エーベルハルト伯爵家。
彼はそこで手を止めた。
伯爵の名は、まだ疑義の欄にしか置けない。
だが、欄はできた。
-
同じ頃、自由星系同盟軍旗艦では、北方戦線の補給状況が更新されていた。
アレクサンドル・ヴェガ提督は、帝国側の補給効率が突然上がったことに気づいた。
「雪線要塞群に補給が届いています」
副官が報告する。
「カレリア喪失後、帝国北方の輸送系統は混乱していたはずですが、ここ数日で一部が回復しています」
ヴェガは星図を見た。
帝国の補給線が、以前とは違う形で伸びている。
太くはない。
むしろ細い。
だが、必要な場所へ向かっている。
「クラウゼンか」
ヴェガは呟いた。
「敗戦処理官が、補給まで?」
副官が怪訝そうに言う。
「前線に届かなかったものを数え始めたのだろう」
ヴェガは静かに言った。
「面倒な男だ」
「作戦を変更しますか」
「する」
彼は帝国北方戦線の星図を拡大した。
「補給不足を突く作戦は、効果が薄れる。ならば、別の弱い場所を探す」
「どこを」
ヴェガは、帝国領内の政治境界線を表示した。
貴族領、軍管区、開発会社所有宙域、避難民収容ステーション。
線は多く、複雑で、互いに重なっていた。
「補給は戻り始めた」
ヴェガは言った。
「だが、命令はまだ遅い」
-
帝都の監察局に、また新しい箱が届いた。
今度は抗議文ではなかった。
雪線要塞群からの追加報告。
補給到着後、避難船三隻が出発。
民間人、千二百名搬出。
手術完了、八十八名。
死亡、八名。
レオンは数字を見て、短く息を吐いた。
ミリアはその横で、補給再編の通信ログを整理している。
「少佐」
「何ですか」
「ローエンは、死んだと思いますか」
「分かりません」
「生きていたら」
「また出てくるでしょう」
「死んでいたら」
「誰かが、彼の席に座るでしょう」
ミリアは手を止めた。
「終わらないですね」
「終わる仕事なら、監察局に回ってきません」
「それは慰めですか」
「事実です」
「慰めの方がよかったです」
レオンは少しだけ考えた。
「第一便は届きました」
ミリアは画面を見た。
雪線要塞群、受領確認。
民間人搬出。
手術完了。
「はい」
「それで今日は十分です」
ミリアは、ほんの少し笑った。
「少佐にしては、慰めに近いです」
「不慣れですので」
「記録しておきます」
「それは困ります」
彼女は本当に記録しようとして、やめた。
代わりに、雪線要塞群の報告を正式保存した。
窓の外では、帝都の昼が白く輝いている。
美しい街だった。
だが、その光の下を流れる線が、少しだけ見え始めていた。
船の線。
金の線。
命令の線。
そして、どこかで切られた線。
レオン・クラウゼンは、新しい調査票を開いた。
表題は、まだ空欄だった。
ミリアは隣で、補給航路図を表示する。
雪線要塞群のさらに先、帝国北方の薄い宙域に、小さな警告表示が点滅していた。
通信遅延、増大。
避難民船団、待機中。
指揮系統、未確認。
レオンはそれを見て、静かに言った。
「次は、命令が届いていないようですね」
ミリアは端末を抱え直した。
「通信網を見ます」
グライフ大佐が部屋の奥から声をかけた。
「おい、二人とも」
「何でしょう」
「前線へ戻りたそうな顔をするな。監察局の人間が前線に行くと、書類が泣く」
レオンは答えた。
「人も泣いています」
グライフはしばらく黙り、やがて冷めたコーヒーを掲げた。
「なら、書類は後回しだ」
ミリアは新しいフォルダを作った。
今度は、名前を迷わなかった。
雪線宙域、通信遅延調査。
補給は届いた。
だが、まだ帰る命令が届いていない場所がある。
帝都の静かな部屋で、次の戦場の輪郭が、少しずつ浮かび上がっていた。




