消された名
自由星系同盟軍旗艦。
若き提督アレクサンドル・ヴェガは、帝国艦隊の動きを見て眉をひそめていた。
まだ三十代半ばだったが、同盟軍ではすでに「静かな刃」と呼ばれている。華々しい演説も、無謀な突撃も好まない。ただ相手の失策を待ち、最も痛い場所を最も静かに刺す。
グリムワルト回廊の罠も、彼の設計だった。
帝国軍の貴族将官は、勝利の匂いに弱い。敵が逃げれば追う。補給線が伸びても追う。味方の制止を、臆病と呼ぶ。
だから、逃げて見せた。道を空けた。勝てると思わせた。そして、退路を閉じた。
作戦は成功している。そのはずだった。
「妙だな」
ヴェガは言った。
副官が尋ねる。
「何がでしょうか」
「崩れ方が違う」
ヴェガは星図を拡大した。
「リーデン侯爵の艦隊なら、旗艦を中心に固まる。貴族の艦隊はいつもそうだ。司令官を守ろうとして、全体が死ぬ」
「ですが、敵は分散して退避しています」
「正確には、捨てる艦と救う艦を選んでいる」
ヴェガは口元に薄い笑みを浮かべた。
「嫌な相手だ」
「リーデン侯爵では」
「違う。あの男にこの撤退はできない」
星図上で、帝国の医療艦が負傷者を吸い上げている。修理艦が損傷巡洋艦を曳航している。補給船団は戦闘ではなく救助のために動いている。
最初から、負ける準備をしていなければできない動きだった。
「帝国軍に一人だけ、こちらの罠を見ていた者がいる」
ヴェガは静かに言った。
「追撃を強めますか」
「いや」
「なぜです」
「強めれば、こちらも無理をする。敵の撤退を設計している者は、それを待っているかもしれない」
「この機に殲滅すべきでは」
「殲滅は美しい言葉だが、戦場ではたいてい高くつく」
ヴェガは手元の端末を操作した。
「追撃は第三線まで。重力荒域には入るな。帝国軍の救助船団は撃つな」
副官が驚いた顔をした。
「撃たないのですか」
「撃てば、次から帝国軍はこちらの救助船を撃つ。戦争をただの虐殺に変える気はない」
「しかし、敵兵です」
「今日の敵兵は、明日の捕虜交換の材料だ。死体は交渉しない」
ヴェガは星図の一点を見つめた。
逃げていく帝国艦隊の中に、見えない相手がいる。勝利に酔わず、敗北に溺れず、ただ死者を減らすために動く者。
「名前を調べろ」
「誰のです」
「この撤退を組んでいる者だ」
-
帝国第九遠征艦隊は敗れた。
戦艦四十二隻喪失、巡洋艦百八十隻大破、駆逐艦隊の三割が未帰還。リーデン侯爵が夢見た勝報は、帝都に届かなかった。
だが、全滅もしなかった。
本来なら、グリムワルト回廊で三万人以上が死ぬはずだった。実際の戦死者は六千四百二十一名。行方不明者は二千三百九十。重傷者は八千を超えた。
重い数字だった。勝利ではない。
だが、二万四千人以上が生きて帰った。
帰還した艦隊の格納庫では、負傷兵たちが床に横たわっていた。医療班が走り回り、酸素マスクの音と、遠くの泣き声が混ざっている。焼けた軍服の匂い。血と消毒液の匂い。損傷した義手の金属音。
誰かが名前を呼んでいる。
返事はない。
レオンはその中を歩いていた。
称賛を受けるためではない。人数を確認するためだった。
生還者。重傷者。行方不明者。艦別損耗。救助遅延。通信断絶時間。
負け戦は、終わってからが彼の仕事だった。死者数を確定しなければ、次の戦場で同じ死に方をする者が出る。だから、数える。どれほど嫌われても、数える。
「クラウゼン少佐」
声をかけたのは、若い駆逐艦長だった。
片腕を吊っている。額には包帯。だが、立っていた。
「駆逐艦艦長、ユリウス・ハルトマン大尉です」
「《アルゲン》を護衛した艦ですか」
「はい」
「よく生きて戻りましたね」
ハルトマンは一瞬、言葉に詰まった。そして、深く頭を下げた。
「少佐の退避勧告がなければ、我々は旗艦の周囲で沈んでいました」
「勧告を選んだのは大尉です」
「いいえ」
ハルトマンは顔を上げた。
「誰かが、逃げていいと言ってくれなければ、私は部下を死なせていました」
レオンは黙った。その言葉は、礼よりも重かった。
ハルトマンの背後で、若い兵士が泣いていた。彼は救助艇に乗れたらしい。だが、隣に座っていた仲間は途中で息を引き取ったのだろう。膝の上には、血で汚れた認識票が一つ握られている。
勝利の物語では、そういう兵士の名前は残らない。敗北の記録には残る。
レオンは端末に、その区画の負傷者数を入力した。
「少佐」
ハルトマンが言った。
「あなたは、戦っていないのに」
「そうですね」
「誰よりも、戦場を見ていました」
レオンは答えなかった。答えれば、何かが崩れそうだった。
-
軍法会議の準備は、帰還から三時間後には始まっていた。
容疑は独断専行、指揮系統の混乱、司令官命令違反、敗北主義的扇動。
リーデン侯爵は、負け戦の責任を必要としていた。そして敗戦処理官ほど、責任を押しつけやすい者はいなかった。
「君は自分が英雄だとでも思っているのかね」
臨時査問室で、リーデン侯爵は言った。
顔色は悪い。だが、貴族らしい尊大さだけは失っていなかった。彼の旗艦は生還した。護衛艦を六隻失ったが、侯爵自身は無傷だった。その事実が、彼の怒りをかえって大きくしていた。
「いいえ」
レオンは答えた。
「ではなぜ、私の命令を無視した」
「命令が艦隊を救わないと判断したからです」
「貴様!」
侯爵が机を叩いた。
「私は帝国貴族だぞ。陛下より艦隊を預かった司令官だ。その私の命令より、自分の判断が上だと言うのか」
「戦場では、爵位より通信の方が速く届きます」
侯爵の顔が歪んだ。
「君は処罰される。二度と軍服を着られると思うな」
「処罰は監察局の判断です」
「その監察局へ、私が報告するのだ」
「報告は事実に基づくべきです」
「事実だと?」
リーデン侯爵は笑った。
「事実とは、誰が記録するかで決まる。君はまだ若いな、クラウゼン少佐。戦場では勝った者が歴史を書く。宮廷では、生き残った貴族が報告書を書くのだ」
「では、今回はどちらでもありません」
「何?」
「敗戦です。書くべきは、死者の数です」
侯爵が立ち上がりかけた、その時。
査問室の扉が開いた。
入ってきたのはミリア中尉だった。その後ろには、ハルトマン大尉をはじめ、数名の艦長が並んでいた。
「何の真似だ」
リーデン侯爵が睨む。
ミリアは敬礼した。
「査問記録に、通信ログおよび生還艦長の証言を提出します」
「許可していない」
「軍務省監察局の受理印があります」
侯爵の動きが止まった。
ミリアは端末を差し出した。
「医療艦、修理艦、通信巡洋艦、駆逐艦より証言が届いています。いずれも、クラウゼン少佐の事前勧告がなければ生還不能であったと」
「小娘が、誰の許可で」
「通信参謀として、通信ログの保全義務を果たしました」
ミリアの声は震えていなかった。
「また、旗艦より発信された前進命令が、補給線の限界を超過した後も継続されていた記録も添付済みです」
査問室の空気が変わった。
リーデン侯爵の顔から血の気が引く。
ハルトマンが前に出た。
「私の艦は、少佐の勧告で《アルゲン》を護衛しました。結果、通信網が維持され、第三駆逐隊の生存率は大きく上がりました」
「若造が知った口を」
「はい。私は若造です」
ハルトマンはまっすぐに言った。
「ですが、部下の名前は知っています。誰が生きて、誰が死んだかも知っています。少佐の勧告がなければ、死者名簿はもっと長くなっていました」
査問室は静まり返った。
リーデン侯爵は歯を食いしばった。
レオンは何も言わなかった。
自分を擁護する言葉ほど、敗戦処理官に似合わないものはない。
-
処分は下らなかった。正確には、下せなかった。
第九艦隊の敗北は隠しようがなかったが、同時に、壊滅を免れた理由も隠しきれなかった。
リーデン侯爵は療養名目で帝都へ戻された。参謀長は配置換え。
公式発表では、グリムワルト回廊の戦闘は「敵の奇襲により甚大な損害を受けたが、第九遠征艦隊は秩序ある後退に成功」とされた。
そこに、レオン・クラウゼンの名はなかった。
戦死者の数も、正確には発表されなかった。ただ「多数」とだけ記された。
勝利の記録は華やかだ。敗北の記録は曖昧だ。
だからこそ、死者は二度消える。戦場で命を失い、報告書で名前を失う。
レオン・クラウゼン少佐は、昇進しなかった。表彰もなかった。
ただ、軍務省から一通の辞令が届いた。差出人は、第七後方参謀局局長。
内容は短かった。
『クラウゼン少佐を、北方辺境戦域、カレリア要塞群へ派遣する』
ミリアはその辞令を見て、眉をひそめた。
「カレリア要塞群……あそこは、補給が途絶しかけている前線です」
「知っています」
「また、負け戦ですか」
「おそらく」
「少佐は腹が立たないのですか。あれだけのことをして、昇進も表彰もなく、次の危険地帯へ送られるなんて」
レオンは窓の外を見た。
修理中の艦隊が、星明かりの下で沈黙している。砲塔は焼け、装甲は剥がれ、艦腹には応急修理の白い継ぎ目が走っていた。
それでも、生きて戻った艦だ。
「勝ち戦には、私より向いた人間がいます」
「では、負け戦には」
「人が死にます」
レオンは辞令を閉じた。
「なら、誰かが行く必要があります」
ミリアはしばらく黙っていた。やがて、背筋を伸ばした。
「通信参謀、ミリア・エーレンベルク中尉。カレリア要塞群への同行を申請します」
「許可した覚えはありません」
「申請です」
「却下されるかもしれません」
「その場合は、通信網の再整備に関する意見書を三十枚添付します」
レオンは初めて、わずかに口元を動かした。
「嫌がらせの才能がありますね」
「少佐ほどではありません」
その時、端末に新しい資料が届いた。
カレリア要塞群の損耗予測。
燃料残量。食糧備蓄。民間避難民数。敵艦隊の包囲進捗。そして、最悪の場合の死亡推定。
赤い数字が、画面を埋めていた。
ミリアが息を呑む。
「これは」
「まだ間に合います」
レオンは静かに言った。
「数字が赤い間は、まだ人間が生きています」
彼は端末を閉じ、歩き出した。
勝利の歓声はない。英雄の凱旋もない。
ただ、次の負け戦が待っている。
レオン・クラウゼンはため息をつき、赤字で染まった損耗予測表を胸元にしまった。
次の戦場にも、まだ死ぬ必要のない兵士たちがいた。
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