表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銀河帝国の敗戦処理官、撤退命令だけで三万人を救う  作者: 鷹山
第一部 消えなかった名前たち
3/53

消された名

 自由星系同盟軍旗艦オルトリーヴ

 若き提督アレクサンドル・ヴェガは、帝国艦隊の動きを見て眉をひそめていた。

 まだ三十代半ばだったが、同盟軍ではすでに「静かな刃」と呼ばれている。華々しい演説も、無謀な突撃も好まない。ただ相手の失策を待ち、最も痛い場所を最も静かに刺す。

 グリムワルト回廊の罠も、彼の設計だった。

 帝国軍の貴族将官は、勝利の匂いに弱い。敵が逃げれば追う。補給線が伸びても追う。味方の制止を、臆病と呼ぶ。

 だから、逃げて見せた。道を空けた。勝てると思わせた。そして、退路を閉じた。

 作戦は成功している。そのはずだった。

「妙だな」

 ヴェガは言った。

 副官が尋ねる。

「何がでしょうか」

「崩れ方が違う」

 ヴェガは星図を拡大した。

「リーデン侯爵の艦隊なら、旗艦を中心に固まる。貴族の艦隊はいつもそうだ。司令官を守ろうとして、全体が死ぬ」

「ですが、敵は分散して退避しています」

「正確には、捨てる艦と救う艦を選んでいる」

 ヴェガは口元に薄い笑みを浮かべた。

「嫌な相手だ」

「リーデン侯爵では」

「違う。あの男にこの撤退はできない」

 星図上で、帝国の医療艦が負傷者を吸い上げている。修理艦が損傷巡洋艦を曳航している。補給船団は戦闘ではなく救助のために動いている。

 最初から、負ける準備をしていなければできない動きだった。

「帝国軍に一人だけ、こちらの罠を見ていた者がいる」

 ヴェガは静かに言った。

「追撃を強めますか」

「いや」

「なぜです」

「強めれば、こちらも無理をする。敵の撤退を設計している者は、それを待っているかもしれない」

「この機に殲滅すべきでは」

「殲滅は美しい言葉だが、戦場ではたいてい高くつく」

 ヴェガは手元の端末を操作した。

「追撃は第三線まで。重力荒域には入るな。帝国軍の救助船団は撃つな」

 副官が驚いた顔をした。

「撃たないのですか」

「撃てば、次から帝国軍はこちらの救助船を撃つ。戦争をただの虐殺に変える気はない」

「しかし、敵兵です」

「今日の敵兵は、明日の捕虜交換の材料だ。死体は交渉しない」

 ヴェガは星図の一点を見つめた。

 逃げていく帝国艦隊の中に、見えない相手がいる。勝利に酔わず、敗北に溺れず、ただ死者を減らすために動く者。

「名前を調べろ」

「誰のです」

「この撤退を組んでいる者だ」

     -

 帝国第九遠征艦隊は敗れた。

 戦艦四十二隻喪失、巡洋艦百八十隻大破、駆逐艦隊の三割が未帰還。リーデン侯爵が夢見た勝報は、帝都に届かなかった。

 だが、全滅もしなかった。

 本来なら、グリムワルト回廊で三万人以上が死ぬはずだった。実際の戦死者は六千四百二十一名。行方不明者は二千三百九十。重傷者は八千を超えた。

 重い数字だった。勝利ではない。

 だが、二万四千人以上が生きて帰った。

 帰還した艦隊の格納庫では、負傷兵たちが床に横たわっていた。医療班が走り回り、酸素マスクの音と、遠くの泣き声が混ざっている。焼けた軍服の匂い。血と消毒液の匂い。損傷した義手の金属音。

 誰かが名前を呼んでいる。

 返事はない。

 レオンはその中を歩いていた。

 称賛を受けるためではない。人数を確認するためだった。

 生還者。重傷者。行方不明者。艦別損耗。救助遅延。通信断絶時間。

 負け戦は、終わってからが彼の仕事だった。死者数を確定しなければ、次の戦場で同じ死に方をする者が出る。だから、数える。どれほど嫌われても、数える。

「クラウゼン少佐」

 声をかけたのは、若い駆逐艦長だった。

 片腕を吊っている。額には包帯。だが、立っていた。

駆逐艦ヴァイス艦長、ユリウス・ハルトマン大尉です」

「《アルゲン》を護衛した艦ですか」

「はい」

「よく生きて戻りましたね」

 ハルトマンは一瞬、言葉に詰まった。そして、深く頭を下げた。

「少佐の退避勧告がなければ、我々は旗艦の周囲で沈んでいました」

「勧告を選んだのは大尉です」

「いいえ」

 ハルトマンは顔を上げた。

「誰かが、逃げていいと言ってくれなければ、私は部下を死なせていました」

 レオンは黙った。その言葉は、礼よりも重かった。

 ハルトマンの背後で、若い兵士が泣いていた。彼は救助艇に乗れたらしい。だが、隣に座っていた仲間は途中で息を引き取ったのだろう。膝の上には、血で汚れた認識票が一つ握られている。

 勝利の物語では、そういう兵士の名前は残らない。敗北の記録には残る。

 レオンは端末に、その区画の負傷者数を入力した。

「少佐」

 ハルトマンが言った。

「あなたは、戦っていないのに」

「そうですね」

「誰よりも、戦場を見ていました」

 レオンは答えなかった。答えれば、何かが崩れそうだった。

     -

 軍法会議の準備は、帰還から三時間後には始まっていた。

 容疑は独断専行、指揮系統の混乱、司令官命令違反、敗北主義的扇動。

 リーデン侯爵は、負け戦の責任を必要としていた。そして敗戦処理官ほど、責任を押しつけやすい者はいなかった。

「君は自分が英雄だとでも思っているのかね」

 臨時査問室で、リーデン侯爵は言った。

 顔色は悪い。だが、貴族らしい尊大さだけは失っていなかった。彼の旗艦は生還した。護衛艦を六隻失ったが、侯爵自身は無傷だった。その事実が、彼の怒りをかえって大きくしていた。

「いいえ」

 レオンは答えた。

「ではなぜ、私の命令を無視した」

「命令が艦隊を救わないと判断したからです」

「貴様!」

 侯爵が机を叩いた。

「私は帝国貴族だぞ。陛下より艦隊を預かった司令官だ。その私の命令より、自分の判断が上だと言うのか」

「戦場では、爵位より通信の方が速く届きます」

 侯爵の顔が歪んだ。

「君は処罰される。二度と軍服を着られると思うな」

「処罰は監察局の判断です」

「その監察局へ、私が報告するのだ」

「報告は事実に基づくべきです」

「事実だと?」

 リーデン侯爵は笑った。

「事実とは、誰が記録するかで決まる。君はまだ若いな、クラウゼン少佐。戦場では勝った者が歴史を書く。宮廷では、生き残った貴族が報告書を書くのだ」

「では、今回はどちらでもありません」

「何?」

「敗戦です。書くべきは、死者の数です」

 侯爵が立ち上がりかけた、その時。

 査問室の扉が開いた。

 入ってきたのはミリア中尉だった。その後ろには、ハルトマン大尉をはじめ、数名の艦長が並んでいた。

「何の真似だ」

 リーデン侯爵が睨む。

 ミリアは敬礼した。

「査問記録に、通信ログおよび生還艦長の証言を提出します」

「許可していない」

「軍務省監察局の受理印があります」

 侯爵の動きが止まった。

 ミリアは端末を差し出した。

医療艦ラザレット修理艦フォルク通信巡洋艦アルゲン駆逐艦ヴァイスより証言が届いています。いずれも、クラウゼン少佐の事前勧告がなければ生還不能であったと」

「小娘が、誰の許可で」

「通信参謀として、通信ログの保全義務を果たしました」

 ミリアの声は震えていなかった。

「また、旗艦グローリアより発信された前進命令が、補給線の限界を超過した後も継続されていた記録も添付済みです」

 査問室の空気が変わった。

 リーデン侯爵の顔から血の気が引く。

 ハルトマンが前に出た。

「私の艦は、少佐の勧告で《アルゲン》を護衛しました。結果、通信網が維持され、第三駆逐隊の生存率は大きく上がりました」

「若造が知った口を」

「はい。私は若造です」

 ハルトマンはまっすぐに言った。

「ですが、部下の名前は知っています。誰が生きて、誰が死んだかも知っています。少佐の勧告がなければ、死者名簿はもっと長くなっていました」

 査問室は静まり返った。

 リーデン侯爵は歯を食いしばった。

 レオンは何も言わなかった。

 自分を擁護する言葉ほど、敗戦処理官に似合わないものはない。

     -

 処分は下らなかった。正確には、下せなかった。

 第九艦隊の敗北は隠しようがなかったが、同時に、壊滅を免れた理由も隠しきれなかった。

 リーデン侯爵は療養名目で帝都へ戻された。参謀長は配置換え。

 公式発表では、グリムワルト回廊の戦闘は「敵の奇襲により甚大な損害を受けたが、第九遠征艦隊は秩序ある後退に成功」とされた。

 そこに、レオン・クラウゼンの名はなかった。

 戦死者の数も、正確には発表されなかった。ただ「多数」とだけ記された。

 勝利の記録は華やかだ。敗北の記録は曖昧だ。

 だからこそ、死者は二度消える。戦場で命を失い、報告書で名前を失う。

 レオン・クラウゼン少佐は、昇進しなかった。表彰もなかった。

 ただ、軍務省から一通の辞令が届いた。差出人は、第七後方参謀局局長。

 内容は短かった。

『クラウゼン少佐を、北方辺境戦域、カレリア要塞群へ派遣する』

 ミリアはその辞令を見て、眉をひそめた。

「カレリア要塞群……あそこは、補給が途絶しかけている前線です」

「知っています」

「また、負け戦ですか」

「おそらく」

「少佐は腹が立たないのですか。あれだけのことをして、昇進も表彰もなく、次の危険地帯へ送られるなんて」

 レオンは窓の外を見た。

 修理中の艦隊が、星明かりの下で沈黙している。砲塔は焼け、装甲は剥がれ、艦腹には応急修理の白い継ぎ目が走っていた。

 それでも、生きて戻った艦だ。

「勝ち戦には、私より向いた人間がいます」

「では、負け戦には」

「人が死にます」

 レオンは辞令を閉じた。

「なら、誰かが行く必要があります」

 ミリアはしばらく黙っていた。やがて、背筋を伸ばした。

「通信参謀、ミリア・エーレンベルク中尉。カレリア要塞群への同行を申請します」

「許可した覚えはありません」

「申請です」

「却下されるかもしれません」

「その場合は、通信網の再整備に関する意見書を三十枚添付します」

 レオンは初めて、わずかに口元を動かした。

「嫌がらせの才能がありますね」

「少佐ほどではありません」

 その時、端末に新しい資料が届いた。

 カレリア要塞群の損耗予測。

 燃料残量。食糧備蓄。民間避難民数。敵艦隊の包囲進捗。そして、最悪の場合の死亡推定。

 赤い数字が、画面を埋めていた。

 ミリアが息を呑む。

「これは」

「まだ間に合います」

 レオンは静かに言った。

「数字が赤い間は、まだ人間が生きています」

 彼は端末を閉じ、歩き出した。

 勝利の歓声はない。英雄の凱旋もない。

 ただ、次の負け戦が待っている。

 レオン・クラウゼンはため息をつき、赤字で染まった損耗予測表を胸元にしまった。

 次の戦場にも、まだ死ぬ必要のない兵士たちがいた。


続きが気になると思っていただけたら、☆☆☆☆☆で評価いただけますと幸いです。

ブックマークや感想などもいただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ