白い停戦旗
帝都の朝は、戦場より騒がしかった。
砲声はない。
警告灯もない。
酸素残量を告げる無機質な音も、負傷兵が歯を食いしばる声もない。
その代わり、広場の巨大掲示板には、勝利に似た言葉が並んでいた。
『北方戦線、戦略的再配置を完了』
『カレリア要塞群、民間人保護を最優先に秩序ある後退』
『帝国軍、敵包囲網を巧みに回避』
ミリア・エーレンベルク中尉は、その見出しをしばらく見上げていた。
帝都中央駅の天井は高く、透明な防護ドームの向こうに青白い空が見える。駅前広場には、軍楽隊の演奏が流れていた。戦地から戻った将兵を迎えるためのものだろう。
だが、ミリアの耳には、別の音が残っていた。
カレリア要塞の地下区画で、母親が子どもの名を呼ぶ声。
医療船の床に落ちた認識票の音。
最終船団が発進する直前、誰かが押し殺した泣き声。
駅前広場の人々は、新聞を読み、コーヒーを飲み、足早に仕事へ向かっている。彼らの誰も、カレリアの空調が止まりかけていたことを知らない。旧教育衛星が避難誘導に使われたことも、救難カプセルが外付けの酸素タンク代わりにされたことも知らない。
それでよいのかもしれない。
知らずに済む者がいることも、ひとつの結果なのだろう。
そう考えようとして、ミリアは失敗した。
「少佐」
彼女は隣を歩く男に声をかけた。
「戦略的再配置だそうです」
レオン・クラウゼン少佐は、広場の掲示板を一瞥した。
「短い言葉は便利だ」
「便利?」
「何を省いたか、分かりにくい」
それだけ言って、彼は歩き出した。
ミリアは端末を抱え直し、後を追った。
帝都の街路は白く、広く、美しかった。
磨かれた石畳の上を自動車両が静かに流れ、建物の壁面には帝国の紋章が金色に輝いている。空中庭園からは花弁が散り、噴水の水面には、戦争など遠い地方の気象現象であるかのように朝日が揺れていた。
カレリアからの避難民船団は、まだ後方基地に分散収容されている。
傷病者の名簿は未整理。
行方不明者の照合も終わっていない。
だが帝都の掲示板は、もう結論を出していた。
レオンとミリアを乗せた公用車は、軍務省ではなく、貴族院軍務委員会の庁舎へ向かった。
査問のためだった。
-
貴族院軍務委員会の会議室は、戦場の司令室よりも寒かった。
壁は白大理石。天井には帝国創建期の艦隊戦を描いた天井画。楕円形の卓の向こうに、軍服と礼服を着た男たちが並んでいる。
その中央に座っていたのが、ルドルフ・フォン・エーベルハルト伯爵だった。
年齢は五十前後。金髪に白いものが混じり、声は柔らかい。指先の動きまで礼儀正しく、表情には常に薄い微笑がある。
優しげな顔をした男だった。
だからこそ、ミリアは最初の一分で彼を嫌いになった。
「クラウゼン少佐」
エーベルハルト伯爵は、穏やかに言った。
「遠路、ご苦労でした。カレリアから戻ったばかりで疲れているでしょう」
「職務ですので」
「そうでしょうな」
伯爵は手元の資料に目を落とした。
「では、手短に確認しましょう。カレリア要塞群は、現在、同盟軍の占領下にある。これは事実ですね」
「はい」
「あなたは、カレリアに派遣され、要塞防衛に関する助言を行った」
「敗戦処理官として派遣されました」
「言い方はさておき」
伯爵は微笑んだ。
「要塞は失われた」
「はい」
「では、あなたの任務は失敗した」
「私の任務は、要塞を残すことではありませんでした」
会議室の空気がわずかに揺れた。
伯爵の微笑は変わらない。
「なるほど。では、あなたは最初から要塞を捨てるつもりだった」
「要塞維持に必要な条件が満たされていませんでした」
「条件?」
「燃料、食糧、医療物資、砲台稼働率、民間避難民数。いずれも公式報告と実数が一致していませんでした」
「その件については、別途調査中です」
「承知しています」
「ですが、それは要塞放棄を正当化するものではない。帝国には、たとえ困難であっても守らなければならない場所があります」
「人員を退避させました」
「要塞を失いました」
「はい」
短いやり取りが続く。
伯爵は、声を荒げない。
彼は問いを重ねるだけだった。
要塞は失われた。
敵が北方航路を得た。
帝国の威信は傷ついた。
レオンはそれを否定しない。
否定しないからこそ、会議室の空気は少しずつレオンに不利になっていく。
ミリアは、膝の上で拳を握った。
言い返したかった。
カレリアの地下区画を見たのかと。
医療物資が七日分しかなかったことを知っているのかと。
最終船団に外付け酸素ユニットをつないだ時、何人が泣かずに耐えていたか、この部屋の誰かが知っているのかと。
だが、彼女は口を閉じた。
発言権はない。
通信参謀は、記録を持って立っているだけだ。
「クラウゼン少佐」
伯爵は資料を一枚めくった。
「あなたは、カレリア撤収時に、要塞外縁施設の確認を怠った可能性があります」
ミリアの指が止まった。
レオンもわずかに目を細めた。
「外縁施設とは」
「採掘衛星、整備ドック、旧補給基点などです。撤収作戦が急であったため、いくつかの施設が混乱したまま放棄されたという報告があります」
「具体的な施設名を」
「現在確認中です」
「確認中の報告で査問を?」
「可能性の確認です」
伯爵は微笑んだままだった。
「あなたの撤収作戦は、八万人近い退避を実現した。これは評価すべき点です。しかし、作戦というものは、救った数だけでなく、取りこぼしたものによっても評価される」
ミリアは、伯爵の言葉を聞きながら、違和感を覚えた。
取りこぼしたもの。
あまりにも準備された言い方だった。
何かを知っている。
あるいは、何かをこちらに言わせたい。
レオンは淡々と答えた。
「外縁施設の退避記録は、こちらでも照合中です。未確認の人員がいれば、名簿に追加します」
「追加?」
伯爵の微笑が、ほんの少し薄くなった。
「戦闘中の混乱で確認不能となった者を、すべて名簿に載せるおつもりですか」
「生死不明欄があります」
「便利な欄ですな」
「便利ではありません。埋まるたびに仕事が増えます」
会議室の隅で、誰かが咳払いをした。
伯爵は、しばらくレオンを見ていた。
「本日はここまでにしましょう。追加の聴取は追って行います。中尉、あなたの通信記録も後ほど提出を」
ミリアは敬礼した。
「すでに複製を作成しています」
「原本で結構」
「原本は軍務省保全規則により、査問終了まで封鎖保管されています」
伯爵の目が初めて、笑っていなかった。
「手際がよろしい」
「通信参謀ですので」
レオンがわずかにミリアを見た。
叱責かと思ったが、違った。
彼は何も言わなかった。
それが、今は許可に近かった。
-
査問後、ミリアは軍務省の記録保管室にこもった。
カレリア撤収作戦の通信ログは膨大だった。
正規軍用回線。
民間放送帯域。
旧教育衛星。
救難ビーコン。
観光案内波。
彼女がかき集めた細い線は、今では巨大な絡み合った糸玉になっていた。
その糸玉をほどくのが、彼女の仕事だった。
レオンは別室で、避難者名簿と負傷者記録を照合している。
エリナ・ファルク医師からは、医療搬送リストが届いていた。紙片の礼状を書いた少女と母親は、後方医療船で再会したらしい。ミリアはその記録に小さく印をつけた。
それから、外縁施設のログに移った。
カレリア本体から離れた小型施設群。
採掘衛星。
燃料貯蔵用小惑星。
整備中継ドック。
その多くは、撤収作戦時には無人と報告されている。
無人。
その表示を、ミリアは信用しなかった。
彼女は軍用ログだけでなく、民間帯域の通信も重ねた。
最初に見つかったのは、短い救難信号だった。
『こちらオルム採掘衛星。カレリア本体との連絡途絶。退避船未着。作業員および警備隊、施設内に残留。応答を求む』
ミリアの手が止まった。
時刻は、最終船団発進の三時間前。
彼女は検索範囲を広げた。
さらに信号が見つかった。
『オルムよりカレリア司令部へ。負傷者あり。酸素供給残り三十時間』
『同盟軍偵察艇接近。白旗信号を準備』
『帝国軍識別に応答なし。繰り返す、応答なし』
最後の通信は、最終船団発進の一時間後だった。
『投降する。捕虜扱いを求む。作業員を撃つな』
ミリアは、自分の呼吸が浅くなるのを感じた。
オルム採掘衛星。
人がいた。
兵士も、民間作業員も。
彼女は公式名簿を開いた。
オルム採掘衛星、戦闘前に退避済み。
残留者、なし。
捕虜、なし。
ミリアは画面を見つめた。
何度見ても同じだった。
なし。
彼女は、救難信号の原本にアクセスしようとした。
権限警告が出た。
『当該記録は整理済みです』
整理済み。
嫌な言葉だった。
ミリアは、自分の端末から切り離していた外部記録媒体を取り出した。
カレリアで使った民間通信網のログを、念のため複数保存しておいたものだ。
念のため。
戦場では、念のためが人を救う。
帝都でも、同じらしい。
彼女はログを複製し、暗号化し、三つの別名フォルダに分散した。
さらに、医療船にいるエリナへ短い照会を送る。
『オルム採掘衛星からの負傷者搬送記録はありますか』
返事はすぐに来た。
『ありません。ですが、オルムから来る予定だった医療技師五名が未着です。どういうことですか』
ミリアは椅子から立ち上がった。
端末を抱え、レオンのいる照合室へ向かう。
扉を開けると、レオンは無数の名簿に囲まれていた。
「少佐」
「何人ですか」
レオンは顔を上げずに聞いた。
ミリアは一瞬、言葉を失った。
「まだ何も」
「顔がそう言っています」
彼女は端末を差し出した。
「少なくとも、二千百四十六人です。帝国兵、民間作業員、医療技師、軍需商会職員。カレリア外縁のオルム採掘衛星に残留していました」
レオンは画面を見た。
長い沈黙の後、彼は言った。
「公式名簿は」
「退避済み。残留者なし。捕虜なし」
「同盟軍に投降した記録は」
「民間帯域に残っています」
「軍用記録は」
「整理済みです」
レオンは初めて、手を止めた。
「便利な言葉だ」
「はい」
ミリアの声は、自分でも驚くほど硬かった。
「どうしますか」
「まず、名簿を作ります」
「公式にですか」
「最初は非公式に」
レオンは新しいファイルを開いた。
「氏名、所属、最終通信時刻、推定状態、捕虜可能性。分かる範囲で全員」
「全員は無理です」
「では、一人目から」
ミリアは頷いた。
彼女は椅子を引き寄せ、端末を開いた。
なし、と書かれた場所に、名前を打ち込む作業が始まった。
-
翌日、レオンはエーベルハルト伯爵に呼び出された。
場所は貴族院庁舎ではなく、帝都西区の私邸だった。
軍務省でも委員会でもない。
記録に残りにくい場所。
伯爵邸の応接室は、戦争中とは思えないほど穏やかだった。壁には古い風景画が掛けられ、卓上には香りのよい茶が置かれている。窓の外には、手入れの行き届いた庭園が見えた。
「少佐、茶は?」
「結構です」
「警戒されていますな」
「勤務中ですので」
「では、私も本題に入りましょう」
伯爵は椅子に深く座り、指を組んだ。
「オルム採掘衛星の件です」
レオンは黙っていた。
「耳が早い、という顔ではありませんな。やはり、あなた方が先に嗅ぎつけた」
「救難信号がありました」
「古い信号です。戦闘時の混乱で、真偽も不明。あの種の通信は、敵による偽装の可能性もあります」
「投降信号もありました」
「それこそ敵の偽装かもしれない」
「同盟軍へ照会すれば分かります」
「照会する必要はありません」
伯爵の声は柔らかいままだった。
「少佐。帝国は現在、北方戦線の再編で揺れています。カレリアの件も、ようやく国民感情を落ち着かせつつある。ここで、無人と報告されていた外縁施設に二千人が残されていたなどと公表すれば、どうなると思いますか」
「家族が問い合わせを始めます」
「暴動が起きる、という意味です」
「問い合わせを暴動と呼ぶかは、受ける側次第です」
伯爵は小さく笑った。
「あなたは本当に、言葉の角を丸める気がない」
「丸めすぎると、何を指しているか分からなくなります」
「では、はっきり言いましょう」
伯爵の目が細くなった。
「オルムには、触れないでいただきたい」
「理由は」
「国家の安定です」
「他には」
伯爵は一瞬だけ沈黙した。
レオンは続けた。
「オルム採掘衛星は、民間資源衛星として登録されています。しかし、戦闘前の通信量と燃料搬出記録から見る限り、実際には軍需物資の一時保管に使われていました。カレリアへ届くはずだった燃料の一部も、そこを経由しています」
「推測です」
「照合中です」
「照合しない方がよい」
「なぜ」
「少佐」
伯爵は、初めて微笑を消した。
「人は、全ての扉を開けるべきではありません。扉の向こうにいる者が、助けを求めているとは限らない」
「それでも、叩く音がすれば確認します」
「二千人のために、帝国の秩序を乱すおつもりですか」
レオンは、庭の噴水を見た。
水が規則正しく跳ね、白い石に落ちている。
「伯爵」
「何でしょう」
「二千人は、秩序の外に置ける数ですか」
伯爵は答えなかった。
代わりに、茶器を持ち上げた。
「今日の話は、なかったことにしましょう」
「記録には残しません」
「賢明です」
「ですが、名簿には残します」
伯爵の指が止まった。
レオンは一礼し、応接室を出た。
-
捕虜交換交渉は、五日後に決まった。
場所は、帝国と自由星系同盟の境界付近にある中立ステーション、ヘリオス七。
本来、レオンは交渉団に含まれていなかった。
しかし、出発前日の夜、軍務省の廊下で一人の女性官僚が彼を待っていた。
クラリッサ・フォン・ヴァイト。
外務省戦時調停局の参事官であり、皇帝直属の特別調査権限を持つ人物だと紹介された。
年齢は三十代後半。黒髪を短くまとめ、軍服ではなく濃紺の礼服を着ている。声は涼しく、視線は刃物のようにまっすぐだった。
「クラウゼン少佐。あなたを捕虜交換交渉団に加えます」
「命令ですか」
「依頼です」
「断れば」
「命令に変えます」
「では命令ですね」
「話が早くて助かります」
クラリッサは、薄い資料を差し出した。
「同盟側代表はアレクサンドル・ヴェガ提督です」
ミリアが小さく息を呑んだ。
グリムワルト。
カレリア。
二度、彼らの前に立った敵将。
「軍人が交渉代表を?」
ミリアが尋ねた。
「同盟は、今回の捕虜交換を軍事案件と見ているようです。こちらも形式上は外務省が代表ですが、実質的には軍が前に出ます」
「私の役割は」
レオンが聞いた。
「名簿です」
クラリッサは即答した。
「あなたはカレリアの実数を持っている。貴族院が嫌う数字も、同盟が突きつけてくる数字も、照合できる」
「便利な道具ですね」
「道具に失礼です」
クラリッサは表情を変えずに言った。
「道具は、勝手に持ち主を刺しません」
ミリアは思わず咳き込みそうになった。
レオンは平然としている。
「オルムの件も、把握していますか」
「もちろん」
「なら、なぜ交渉団に」
「誰かが、その名前を聞き取れる場所にいなければならないでしょう」
クラリッサはそう言った。
味方かどうかは分からない。
だが、少なくとも敵と同じ方向を向いている瞬間はある。
レオンは資料を受け取った。
「エーベルハルト伯爵は反対するでしょう」
「反対しています」
「では、なぜ通ったのですか」
「皇帝陛下は、耳の痛い数字を嫌います。ですが、耳を塞いだ結果、首を絞められることはもっと嫌います」
クラリッサは踵を返した。
「出発は明朝。中尉も同行を」
ミリアが敬礼する。
「通信記録の持ち込みは」
「公式には不要です」
クラリッサは廊下の先で振り返った。
「公式には」
それだけ言って、彼女は去った。
-
ヘリオス七は、戦争の境界線に浮かぶ古い中立ステーションだった。
帝国の装飾も、同盟の旗もない。
灰色の外壁に、白い停戦旗の標識だけが点滅している。
交渉室は円形で、中央に透明な卓が置かれていた。卓の上には、両国の捕虜名簿が暗号化された端末として封印されている。
帝国側は、クラリッサを筆頭に、軍務省の法務官、医療担当官、そしてレオンとミリア。
同盟側は、アレクサンドル・ヴェガ提督と数名の幕僚。
ヴェガは、思っていたより若く見えた。
軍服は簡素で、勲章も少ない。顔立ちは穏やかだが、目だけが鋭い。
彼はレオンを見ると、軽く会釈した。
「君がクラウゼン少佐か」
「ヴェガ提督ですね」
「二度、私の勝利を不完全にした男だ」
「二度、私の仕事を増やした方です」
ヴェガはわずかに笑った。
クラリッサが咳払いをする。
「始めましょう」
捕虜交換の手続きは、形式的には単純だった。
双方が保有する捕虜名簿を提示する。
氏名、階級、所属、生存状態、負傷状況。
交換対象、治療優先対象、照合不能者。
だが、名簿が開示された瞬間、帝国側の法務官が眉をひそめた。
「同盟側名簿に、確認不能な人員が含まれています」
ヴェガは静かに言った。
「確認不能ではない。こちらで保護している」
「所属が不明です」
「帝国軍および帝国民間作業員です」
「帝国側記録には存在しません」
「では、彼らはどこから来たのでしょう」
ヴェガは端末を操作した。
一覧が表示される。
オルム採掘衛星残留者。
二千百四十六名。
ミリアは息を止めた。
名前があった。
年齢があった。
負傷状況があった。
捕虜収容区画があった。
なし、ではなかった。
ヴェガはレオンを見た。
「君の国の名簿には、彼らがいないらしい」
レオンは答えなかった。
「我々は捕虜として扱っている。食糧も医療も与えている。もちろん、尋問はする。戦争だからな」
ヴェガの声は平坦だった。
「だが、少なくとも彼らに番号はある。そちらでは、どうだ」
帝国側法務官が不快そうに言った。
「同盟側による偽装名簿の可能性があります」
「二千人分を?」
「あり得ます」
「ならば、映像を出そう」
ヴェガは端末を開いた。
そこには、収容区画の映像が映った。
痩せた兵士。
作業服の民間人。
腕を吊った医療技師。
彼らは整列しているわけではなかった。ただ、疲れ切った顔でカメラの方を見ていた。
その中の一人が、かすれた声で言った。
『帝国軍第二整備大隊、ラウル・ベッカー軍曹。オルム採掘衛星より投降。家族へ、生存を知らせてください』
映像が切り替わる。
『民間技師、ハンナ・リート。カレリア医療区画へ移送予定でしたが、船が来ませんでした』
さらに別の顔。
『警備隊伍長、ミハイル・ザレン。白旗信号を出しました。撃たれませんでした』
ミリアは、画面から目を逸らせなかった。
レオンも見ていた。
表情は変わらない。
だが、彼の指先が卓の縁に軽く触れていた。
法務官が言った。
「この映像の真偽は――」
「照合できます」
ミリアの声が、交渉室に響いた。
全員が彼女を見た。
彼女は端末を開いた。
「カレリア撤収時、オルム採掘衛星から発信された救難信号、投降信号、医療照会、民間技師の識別信号を保全しています。軍用記録ではなく、民間帯域、旧教育衛星、救難ビーコン経由のログです」
クラリッサが、ほんのわずかに口元を上げた。
帝国側法務官は顔を青くした。
「中尉、その記録は正式な提出手続きを――」
「交渉団通信補佐として、照合用資料を提示します」
ミリアは画面を拡大した。
「ラウル・ベッカー軍曹。救難信号発信時刻、カレリア標準時二十三時四分。ハンナ・リート技師。医療搬送予定リストに記載あり、ただしカレリア本体到着記録なし。ミハイル・ザレン伍長。投降信号送信時の警備隊識別コードと一致」
彼女は一人ずつ照合した。
全員ではない。
だが、十分だった。
部屋の空気が変わる。
ヴェガはミリアを見た。
「君が、カレリアで通信網を作った中尉か」
「はい」
「よく残した」
「消えると困るので」
ヴェガは短く頷いた。
それは敵への礼に近かった。
レオンが口を開いた。
「オルム残留者を捕虜交換対象に加えます」
法務官が慌てた。
「少佐、あなたにその権限はありません」
「では、権限者が言ってください」
クラリッサが静かに言った。
「帝国側交渉団は、オルム採掘衛星残留者二千百四十六名を、交換対象として認めます」
「参事官!」
「異議は帰国後にどうぞ。ここでは時間を節約します」
ヴェガは卓上の名簿を操作した。
「条件がある」
「でしょうね」
クラリッサが答える。
「同盟側捕虜のうち、政治将校三十二名、情報士官七名、医療班二十八名を優先返還対象に加える」
帝国側法務官が即座に反発した。
「政治将校と情報士官は通常交換対象外です」
「通常なら、存在しない捕虜も交換対象外だ」
ヴェガは言った。
静かな声だった。
だが、部屋の温度が下がったように感じた。
「帝国が二千人の名を表に戻すなら、こちらも重い札を返してもらう」
「彼らは尋問対象です」
「そちらもオルムの捕虜を尋問対象にしたいでしょう」
ヴェガはレオンを見た。
「戦争だ。互いに綺麗な手ではいられない」
レオンはしばらく黙っていた。
それから言った。
「医療班は即時返還。政治将校と情報士官は、負傷者および民間人返還後、第二陣で交換」
「遅らせる理由は」
「帝国側の承認に時間がかかります」
「その間に彼らが消えない保証は」
「こちらで名簿に固定します」
ヴェガの目が細くなった。
「固定?」
「交換対象として、両国署名済みの共同記録に入れる。帰国後の扱いは変えられても、ここで交わした記録は消せません」
クラリッサがレオンを見た。
予定にない提案だったのだろう。
だが、彼女は止めなかった。
ヴェガは少しだけ考えた。
「共同記録は中立ステーションにも保管する」
「同意します」
「医療班は即時、政治将校と情報士官は七十二時間以内」
「九十六時間」
「七十二」
「八十四」
ヴェガは笑った。
「君は交渉官に向かないな」
「よく言われます」
「主に味方からか」
「はい」
「では、八十四時間でよい」
条件は成立した。
白い停戦旗の下で、名簿が書き換えられた。
いや、書き足された。
-
交渉後、レオンはステーションの観測廊でヴェガと向き合った。
窓の外には、捕虜交換用の医療艇が停泊している。白い船体に、両国の識別色が並んでいた。
「なぜ、映像を持ってきたのですか」
レオンが聞いた。
「君たちが認めない場合に、帝都へ流すためだ」
ヴェガは正直に答えた。
「あなたは人道で動いたのでは」
「人道も使えるなら使う」
「軍人らしい答えです」
「君も似たようなものだろう。人命を救うために、数字も規則も敵の通信も使う」
レオンは答えなかった。
ヴェガは窓の外を見た。
「オルムの捕虜は、君の国へ帰った後、証人になる。燃料の流れ、衛星の用途、誰が退避船を止めたか。話す者もいるだろう」
「でしょうね」
「彼らは安全か」
「分かりません」
「正直だな」
「嘘をつく相手でもありません」
ヴェガはレオンを見た。
「君の国は、敵より厄介そうだ」
「あなたの国も、似たようなものでは」
「似ている。だから戦争は長引く」
短い沈黙があった。
観測廊の向こうで、ミリアが捕虜輸送リストを確認している。クラリッサは同盟側事務官と文書の署名をしていた。
ヴェガは言った。
「次は戦場で会うかもしれない」
「可能性は高いです」
「その時、私は君の救おうとする船を撃つかもしれない」
「私も、あなたの兵が死ぬ配置を選ぶかもしれません」
「そうだな」
ヴェガは少しだけ笑った。
「やはり、君は交渉官に向かない」
-
帰還した捕虜たちは、英雄のようには見えなかった。
医療艇の扉が開くと、最初に降りてきたのは担架だった。
その後に、痩せた兵士、作業服の民間人、顔色の悪い技師たちが続く。誰も歓声を上げない。迎える側も、どう声をかければよいか分からずに立っていた。
ミリアは、名簿を片手に一人ずつ照合した。
「ラウル・ベッカー軍曹」
「はい」
「負傷区分、軽度。後方医療区画へ」
「家族へ連絡は」
「手続き中です」
軍曹は頷いた。
彼の目は、まだどこかを警戒していた。
「ハンナ・リート技師」
「はい」
「医療班が待っています」
「私は、まだ雇用されていますか」
ミリアは一瞬、言葉に詰まった。
その問いは、想定していなかった。
代わりに、レオンが答えた。
「あなたの所属は確認済みです。未着扱いから、帰還扱いに変更しました」
「それだけですか」
「まずは」
ハンナはしばらくレオンを見ていた。
怒るかと思った。
泣くかと思った。
だが、彼女は小さく頷いた。
「まずは、それでいいです」
次に降りてきた警備隊伍長が、レオンの前で立ち止まった。
「我々は、見捨てられたのですか」
周囲の空気が固まった。
レオンはすぐには答えなかった。
少し離れた場所で、クラリッサがこちらを見ている。帝国側法務官は、不安そうに視線を逸らしていた。
「船は来ませんでした」
レオンは言った。
「それは答えですか」
「事実です」
「誰の命令で?」
「調査します」
「調査で、あの三十時間は戻りますか」
「戻りません」
伍長の拳が震えた。
ミリアは思わず前に出かけた。
だが、伍長は殴らなかった。
ただ、疲れた顔で言った。
「では、せめて調べてください」
「はい」
「本当に?」
「はい」
伍長は敬礼しようとした。
途中で腕が上がらず、やめた。
ミリアは彼に近づき、静かに言った。
「お帰りなさい」
伍長の顔が崩れた。
彼は目元を手で押さえ、声を殺した。
その後ろで、二千人の列はゆっくりと進んだ。
ミリアは名を呼び続けた。
レオンは状態を記録し続けた。
誰も拍手しなかった。
だが、一人ずつ、欄が埋まっていった。
-
帝都に戻ると、エーベルハルト伯爵からの呼び出しが来ていた。
今度は貴族院軍務委員会の正式な部屋だった。
伯爵の微笑は、以前よりも薄かった。
「クラウゼン少佐。あなたは面倒な方だ」
「よく言われます」
「主に悪口として?」
「はい」
伯爵は笑わなかった。
「オルム捕虜の帰還により、帝都では余計な憶測が広がっています。軍需物資の流れ、採掘衛星の用途、避難船の未着。どれも、現時点では未確認です」
「調査すれば確認できます」
「だから余計なのです」
伯爵は卓に手を置いた。
「あなたは敗戦処理官だ。負けた戦場の後始末をする。それは必要な仕事でしょう。ですが、後始末とは、散らかったものを片づけることであって、床板を剥がすことではありません」
「床下から声がしました」
「比喩がお好きですな」
「伯爵ほどではありません」
沈黙。
伯爵は、深く息を吐いた。
「あなたを前線に戻すべきではない、という意見が出ています」
「理由は」
「あなたが行く先々で、数字が増える」
「実数に戻るだけです」
「軍にとっては増えるのです」
伯爵は書類を一枚差し出した。
「辞令です」
レオンは受け取った。
帝国軍務省監察局付き特別調査官。
階級は少佐のまま。
権限は限定的。
任務範囲は、カレリアおよび北方戦線に関する補給・捕虜・撤収記録の調査。
前線ではなく、帝都勤務。
「栄転ですかな」
伯爵は言った。
「それとも左遷か」
レオンは書類を読んだ。
「負け戦ですね」
「帝都を戦場扱いするのは感心しません」
「訂正します。書類の多い戦場です」
伯爵の表情が硬くなった。
「少佐。帝都には砲弾は飛びません」
「その方が厄介です」
レオンは辞令を畳んだ。
「砲弾は、少なくとも着弾すれば分かります」
-
夜、軍務省の臨時執務室で、ミリアは名簿を整理していた。
オルム捕虜、帰還。
重傷者、医療区画へ移送。
民間作業員、身元照合中。
死亡確認者、同盟側記録と照合。
行方不明者、三十七名。
まだ埋まらない欄がある。
それでも、なし、ではなかった。
レオンは向かいの席で、監察局の辞令を読んでいた。
「少佐」
「何ですか」
「これは栄転ですか、左遷ですか」
「伯爵にも聞かれました」
「答えは?」
「負け戦だと」
ミリアは小さく笑った。
「では、準備します」
「何を」
「通信ログ、避難者名簿、捕虜交換記録、オルム救難信号、医療搬送記録、補給航路図、軍需商会の燃料記録。全部、複製しておきます」
「命令していません」
「申請です」
「却下されるかもしれません」
「その場合は、意見書を五十枚添付します」
レオンは顔を上げた。
「増えましたね」
「成長しました」
彼は少しだけ口元を動かした。
窓の外では、帝都の夜景が輝いている。
カレリアの灰色の防壁とも、グリムワルトの赤い星図とも違う光だった。
美しく、静かで、遠い。
ミリアは、最後の名簿を保存した。
オルム採掘衛星残留者。
二千百四十六名。
帰還、二千百九名。
死亡確認、十二名。
行方不明、二十五名。
彼女はその数字を見つめた。
完全ではない。
終わってもいない。
それでも、空欄ではなくなった。
レオンの端末に、新しい調査項目が表示される。
北方戦線補給横流し疑惑。
関係組織、帝国軍需商会連合。
関与疑い、貴族院軍務委員会関係者。
関連人物、カール・フォン・メルツ大佐。
関連施設、オルム採掘衛星。
ミリアは画面を見て、息を吐いた。
「少佐」
「何ですか」
「帝都は、かなり広そうですね」
「ええ」
「逃がす人は、まだいますか」
レオンは少し考えた。
それから、窓の外ではなく、机上の名簿を見た。
「探すところからです」
ミリアは頷いた。
彼女は新しいフォルダを作った。
名前をつけるのに、少し迷った。
結局、ただ日付だけを入力した。
余計な言葉をつける必要はなかった。
翌朝になれば、また誰かが何かを「整理」しようとするだろう。
その前に、残しておく。
帝都の夜は静かだった。
砲声はない。
警告灯もない。
だが、白い停戦旗の下で書き足された名前たちは、まだ画面の中に並んでいた。




