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銀河帝国の敗戦処理官、撤退命令だけで三万人を救う  作者: 鷹山
第一部 消えなかった名前たち
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グリムワルト撤退戦

 グリムワルト回廊は、星図で見るよりも狭かった。

 宇宙空間そのものが狭いわけではない。重力潮汐が荒れており、大型艦が安全に航行できる安定帯が限られているのだ。

 幅の狭い谷を、巨大な軍勢が進んでいる。レオンの目には、そう見えた。

 左舷外縁では重力波が荒れ、右舷側には小惑星群の残骸が帯状に広がっている。正面は安定航路。だが、その安定航路は敵の補給拠点へまっすぐ伸びていた。

 都合が良すぎる。

 戦場で都合が良すぎるものは、たいてい罠だ。

「敵前衛、さらに後退」

 通信士が報告する。

「こちらの追撃圏外です」

「当然だ」

 リーデン侯爵は満足げに頷いた。

「敵は艦隊の威容を見て恐れをなした。全艦、第三戦速を維持。敵補給拠点まで一気に押し込む」

 作戦室に歓声が上がった。

 若い参謀が拳を握る。貴族出身の副官は、早くも帝都への勝利報告文の文案を話し合っている。

 誰も、補給船団との距離を見ていない。

 誰も、通信遅延の増加を見ていない。

 誰も、敵の偵察艦が消えた理由を考えていない。

 レオンは端末の数字を見ていた。

 燃料消費率が予定値を超えている。

 補給船団との距離が広がっている。

 敵の偵察艦が、ある時点から突然消えている。

 逃げているのではない。見られる必要がなくなったのだ。

「ミリア中尉」

「はい」

「通信中継ブイ三号、七号、十一号の移動は」

「完了しています。医療艦ラザレット修理艦フォルク補給母艦エルベも指定位置へ移動済みです」

「救命艇区画は」

「訓練名目で開放。徴用輸送船の貨物区画も、民間責任者に避難民収容訓練として準備させています」

「結構です」

 ミリアは小声で続けた。

「補給船団の責任者から、司令部の許可はあるのかと再三問い合わせが来ています」

「どう答えましたか」

「第七後方参謀局の安全勧告に基づく訓練であり、戦闘命令ではない、と」

「正しい応答です」

「ただ、補給船団の一部艦長は不満を示しています。通常航路から外れれば、戦果確認から遅れると」

「補給船が戦果を確認して、どうするのですか」

「私もそう思います」

 ミリアは言った後、自分の言葉に少し驚いた顔をした。数時間前の彼女なら、そうは言わなかっただろう。

「少佐」

「はい」

「本当に、来ますか」

「来ます」

「なぜ断言できるのですか」

「敵が来なければ、こちらは勝ちます。来れば、こちらは負けます。敵が有能なら、来ます」

 その時だった。

 星図の赤い光点が、一斉に消えた。

 作戦室の誰もが、数秒だけ沈黙した。

 次の瞬間、回廊後方に、新たな赤い光点が現れる。

 通信士の声が裏返った。

「敵艦隊、後方航路に出現!」

「馬鹿な」

 参謀長が叫んだ。

「敵主力は前方にいたはずだ!」

「偽装信号です」

 ミリアが青ざめた顔で言った。

「前方の敵艦影は、無人標識艦の反射信号です。本物の主力は、回廊外縁を迂回して後方へ」

 言い終わる前に、星図がさらに赤く染まった。

 前方にも敵。

 後方にも敵。

 横へ逃げるには、重力潮汐が荒れすぎている。

 第九遠征艦隊は、巨大な罠の中にいた。

「全艦、前進!」

 リーデン侯爵が叫んだ。

「敵前方を突破する! 戦艦隊を中央に集結させろ!」

「閣下、燃料残量が」

「黙れ! 帝国艦隊が背を向けるか!」

 命令が飛ぶ。艦隊が歪む。

 先頭の戦艦隊は前へ。補給不足の巡洋艦隊は遅れ、駆逐艦隊は命令系統を失い始める。撤退も突撃もできない、最悪の形だった。

「後方補給船団と通信途絶」

「第二戦隊、敵砲撃圏内」

「第六巡洋艦群、隊列を維持できません」

「医療艦隊、前進できません」

「敵艦隊、退路封鎖を開始」

 混乱は音を持っていた。

 警告音。怒号。通信の断片。艦名を呼ぶ声。誰かの悲鳴。

 星図上で青い光点が一つ、また一つと消えていく。

 ミリアがレオンを見た。

 レオンは、星図の一点を指していた。

「三号ブイを開けてください」

「三号は通常通信網から外れています」

「だから生きています」

 ミリアは一瞬だけ目を見開き、すぐに操作へ移った。

「三号ブイ、接続確認。七号、十一号も反応あり。少佐、通信できます」

「全補給船団へ送信。待機点を第二救助線へ変更。医療艦ラザレットは収容区画を開放。修理艦フォルクは損傷艦の曳航準備。補給母艦エルベは燃料配分を戦闘艦優先から退避可能艦優先へ変更」

「それは正式命令ではありません」

 ミリアの声が震えた。

「勧告です」

「誰の名で」

「第七後方参謀局、レオン・クラウゼン少佐の名で」

 ミリアは唇を噛んだ。

 彼女の指は、送信キーの上で止まっていた。それを押せば、もう戻れない。正式命令ではない勧告で、艦隊の配置が変わる。責任は、彼女にも及ぶ。

 レオンは急かさなかった。選ぶのは彼女だった。

 数秒後、ミリアは送信した。

「送信完了」

「結構です」

「少佐」

「はい」

「私は、まだあなたが正しいのか分かりません」

「それでいいです」

 レオンは星図から目を離さなかった。

「今は、生き残ってから考えてください」

     -

 戦場では、勝利より先に通信が死ぬ。

 誰がどこにいるのか分からなくなる。どの艦が生きていて、どの艦が沈んだのか分からなくなる。命令は遅れ、救助は迷い、艦隊はただの鉄の群れになる。

 レオンが最初に守ったのは、艦ではなかった。

 声だった。

通信巡洋艦アルゲン、推進機関損傷。敵追撃圏まで十二分」

 ミリアが報告する。

旗艦グローリアは」

「護衛艦六隻が健在。損傷軽微。ただし侯爵閣下は、前進命令を継続中です」

「《アルゲン》を先に逃がします」

「しかし、旗艦にはリーデン侯爵が」

「侯爵が生きていても、命令が届かなければ艦隊は死にます」

 レオンは退避航路を引き直した。

「《アルゲン》には通信士が三十七名います。彼らが生きていれば、まだ二万隻に声が届きます」

「旗艦を見捨てるのですか」

「違います」

 レオンは、初めてミリアを見た。

「旗艦だけを救う戦場を、見捨てるのです」

 ミリアは一瞬だけ目を閉じた。次に目を開けた時、その迷いは消えていた。

通信巡洋艦アルゲンへ退避勧告。駆逐艦ヴァイスに護衛を要請します」

「要請では弱いです。生還可能率も添付してください。旗艦護衛継続時、一八パーセント。《アルゲン》護衛時、六二パーセント。艦長は数字で動きます」

「了解」

 星図上で、青い光点が二つ、隊列を離れた。

 それを見たリーデン侯爵が怒号を上げる。

「誰が退避を許した! 戻せ!」

 だが、もう遅い。

 レオンがずらしておいた通信中継は、旗艦の命令より早く《アルゲン》へ届いていた。

 そして《アルゲン》の通信網が、崩壊寸前の艦隊に声を戻した。

『第三駆逐隊、左舷重力帯へ退避せよ』

『損傷艦は救助線二号へ向かえ』

『燃料残量三割以下の艦は戦闘を停止。退避を優先』

医療艦ラザレット、収容可能』

『第八輸送群、民間徴用船を先に逃がせ。繰り返す。民間徴用船を先に逃がせ』

 混乱は消えない。死者も減らない。

 だが、艦隊は群れから隊列へ戻り始めた。

「第二戦艦隊より通信。前進継続の是非を問うています」

「戦艦隊には停止勧告。主砲を敵前衛へ向けたまま後退。撃たせないでください。撃てば反動で隊列が崩れます」

「撃たない、ですか」

「敵は追撃させたいのです。こちらが撃てば、向こうも応射します。砲撃戦になれば、損傷艦を逃がす時間が消えます」

「了解」

「第十二駆逐隊は」

「隊列から孤立。敵の軽巡に追われています」

「救えません」

 ミリアの手が止まった。

「少佐」

「救えません」

 レオンは繰り返した。

「彼らを救うには、修理艦を重力荒域へ出す必要があります。そうすれば修理艦も沈みます。修理艦が沈めば、中央の損傷艦二十三隻が死にます」

「ですが、第十二駆逐隊には」

「分かっています」

 レオンの声は低かった。

「分かっていますが、救えません」

 ミリアは唇を噛みしめた。

 戦場の計算は、時に残酷だ。何人を救うかを決めることは、何人を救わないかを決めることでもある。

 レオンは端末に指を走らせた。

「第十二駆逐隊へ通信。敵軽巡を三分引きつけた後、全救命艇を射出。救助座標を送ってください。後続の徴用船が拾います」

「救命艇で、戦場の中を」

「艦は救えません。人を救います」

 ミリアは大きく息を吸い、通信を送った。

 数分後、星図上で第十二駆逐隊の光点が消えた。

 だが、その周囲に小さな救難信号が散った。

 レオンはその数を数えた。

 救難信号、百七十六。

 拾えるのは、最大で百二十。

 五十六人は、おそらく戻らない。

 それでも、ゼロではない。


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― 新着の感想 ―
後から見て功績なんだろうけど、まだトップが死んでいない状態で無視するのは軍として機能しないのでわ
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