灰色の門
カレリア要塞群は、帝国北方の盾と呼ばれていた。
だが、レオン・クラウゼンが最初に見た数字は、盾ではなかった。
燃料備蓄、四一パーセント。
食糧備蓄、十八日分。
医療物資、七日分。
民間避難民、公式発表の三・二倍。
稼働可能砲台、五八パーセント。
脱出可能な輸送艦、必要数の三割未満。
敵包囲完成予測、九日後。
要塞そのものは、まだ二十日は持つ。
だが、中の人間は七日で壊れる。
「どう見ますか、少佐」
隣でミリア・エーレンベルク中尉が尋ねた。
彼女は端末を抱え、表示された数字をじっと見ている。グリムワルト回廊の撤退戦からまだ十日も経っていない。軍服の袖には、あの戦場で焼け焦げた跡がうっすら残っていた。
レオンは端末を閉じ、司令部の展望窓から灰色の防壁を見下ろした。
巨大な壁だった。
星間要塞カレリア。
小惑星をくり抜き、外殻に装甲を貼り、砲台を埋め込み、内部に軍港と居住区を抱えた人工の山脈。帝国北方の航路を塞ぐ、最後の門。
帝国の広報は、ここを不沈要塞と呼んだ。
だが、門は外からだけ壊れるわけではない。
その足元では、避難民の列が医療区画の前まで続いていた。痩せた老人が床に座り込み、母親が子どもに酸素マスクを譲っている。軍用の配給箱は足りず、通路の隅では、兵士と民間人が水の容器をめぐって怒鳴り合っていた。
「この要塞は落ちる」
レオンは言った。
「何日持ちますか」
「要塞なら二十日」
彼は、列の中で咳き込む子どもを見た。
「人間なら七日だ」
-
カレリア要塞群司令官、オットー・フォン・ゼッケンドルフ大将は、老いた獅子のような男だった。
白い髭。深い皺。片目は義眼で、左腕は古い戦傷のために肘から下がない。だが、背筋はまっすぐで、軍服には一分の乱れもなかった。
リーデン侯爵のような虚飾はない。
彼は本物の軍人だった。
だからこそ、厄介だった。
「撤退計画だと?」
ゼッケンドルフは低い声で言った。
司令室の壁には、帝国北方航路の戦略図が広がっている。赤い敵影は、じわじわとカレリアを囲みつつあった。
「はい」
レオンは端末を差し出した。
「現在の備蓄、民間避難民数、敵包囲速度をもとに試算しました。要塞を維持した場合、十日目以降に医療区画が崩壊。十二日目に食糧配給の統制不能。十四日目に民間区画で暴動発生。十六日目には司令部機能も維持できません」
「カレリアは帝国北方の門だ」
「門に人を縛りつけても、門は強くなりません」
司令室の空気が固まった。
同席していた参謀たちが、いっせいにレオンを見た。
だが、ゼッケンドルフは怒鳴らなかった。
彼は静かに目を細めただけだった。
「クラウゼン少佐。君の名は聞いている。グリムワルトで敗残艦隊を拾い集めたそうだな」
「勝たせたわけではありません」
「だから敗戦処理官か」
「はい」
「だが、ここは艦隊ではない。要塞だ。逃げれば済む場所ではない」
ゼッケンドルフは戦略図を指した。
「カレリアを捨てれば、同盟軍は北方航路へなだれ込む。背後には民間星系が十三、工業衛星が二十七、農業コロニーが四十以上ある。ここが落ちれば、そのすべてが敵の前に裸で立つことになる」
「今のまま守れば、ここにいる八万三千人が死にます」
「その八万三千で、八千万を守れるなら安い」
ミリアが息を呑んだ。
レオンは表情を変えなかった。
「閣下は、本気でそうお考えですか」
「本気でなければ、この椅子には座れん」
老将の声には、虚勢がなかった。
彼は命を数字で切り捨てる冷酷な男ではない。むしろ、死者の重さを知っているからこそ、より大きな数を守るために小さな数を犠牲にする覚悟を決めている。
レオンは、その種の軍人を嫌いではなかった。
だが、好き嫌いで人は救えない。
「閣下」
レオンは端末を開いた。
「カレリアが二十日持つという前提は、虚偽です」
ゼッケンドルフの義眼が、わずかに光った。
「何だと」
「燃料備蓄、食糧、医療物資、砲台稼働率、民間避難民数。司令部から本国へ送られた報告と、現地記録が一致しません」
参謀の一人が声を荒げた。
「言いがかりだ! 後方参謀ごときが、前線司令部の記録に口を出すな!」
「口ではなく数字を出しています」
レオンは淡々と言った。
「公式報告では、民間避難民は二万六千。実数は八万三千。公式報告では、砲台稼働率九一パーセント。実際は五八パーセント。公式報告では、医療物資二十二日分。実際は七日分」
「それは一時的な集計誤差だ」
「集計誤差で包帯が三分の一になりますか」
参謀は言葉を詰まらせた。
ゼッケンドルフは沈黙していた。
その顔に、怒りではなく疲労が浮かんでいた。
彼は知らなかった。
少なくとも、すべては知らなかった。
「閣下」
レオンは言った。
「閣下が守ろうとしている要塞は、報告書の中にしかありません」
その一言は、砲撃より深く老将に刺さったようだった。
-
要塞の下層区画は、すでに戦場の後だった。
砲撃を受けたわけではない。
それでも、人が多すぎる場所は、それだけで壊れていく。
通路には毛布が敷き詰められ、避難民が寝ていた。空調は追いつかず、湿った汗と消毒液の匂いがこもっている。壁面の表示板には「軍人優先通路」と赤く出ていたが、誰も守っていなかった。守れる状況ではなかった。
ミリアは、手元の端末と目の前の光景を何度も見比べていた。
「公式報告では、この区画は空のはずです」
「報告書ではな」
「ここだけで何人いますか」
「見える範囲で三千。隣接区画を含めれば一万はいる」
「どうして本国に報告しなかったのでしょう」
「報告すれば、誰かが責任を取る必要がある」
レオンは歩きながら答えた。
「責任を取りたくない人間は、数字を小さくする」
その時、前方で怒鳴り声が上がった。
「軍用医療区画は満床です! これ以上は入れられません!」
「この子は呼吸ができないのよ!」
「規則です。民間人は地下第六区画へ――」
「そこに医者はいないでしょう!」
若い母親が、幼い子どもを抱えて泣いていた。子どもの唇は青く、酸素マスクは旧式のものだ。軍医らしき男は疲れ切った顔で、しかし通路を塞ぐように立っている。
その間に入ったのは、一人の女性だった。
白衣は汚れ、袖には血がついている。髪は乱れていたが、目だけは強かった。
「その子をこちらへ」
「ファルク先生、もうベッドがありません」
「床があるでしょう」
「軍の規則で――」
「規則に肺はありません」
彼女は子どもを受け取り、素早く酸素マスクを付け替えた。
レオンは足を止めた。
女性が振り返る。
「あなたたちは?」
「帝国軍務省、第七後方参謀局。レオン・クラウゼン少佐です」
「敗戦処理官?」
女性の目が鋭くなった。
「やっと来たのが、死者を数える人ですか」
「医師ですか」
「エリナ・ファルク。要塞都市カレリア第三区医療院の院長です。今は、見ての通り何でも屋ですが」
エリナはレオンをまっすぐ見た。
「撤退を勧めに来たと聞きました」
「はい」
「簡単に言いますね。ここを捨てたら、私たちはどこへ行けばいいんですか」
「生きていける場所です」
「そんな場所があるなら、最初から逃げています」
「だから作ります」
エリナは笑わなかった。
「数字で死者を数える人に、ここにいる人たちの顔が見えるんですか」
ミリアが何か言おうとした。
レオンはそれを視線で止めた。
「顔を覚えた人間から先に救えば、覚えていない人間が死にます」
エリナの表情が硬くなった。
「だから数字で見る、と?」
「はい」
「冷たい人ですね」
「そうでなければ、順番を決められません」
エリナは子どもの呼吸を確認し、母親へ引き渡した。
そして、レオンへ向き直った。
「順番を決めるということは、後回しにされる人がいるということです」
「います」
「その人たちに、あなたが説明できますか」
「必要なら」
「責任を取れますか」
「責任で人は生き返りません」
レオンは彼女の目を見た。
「だから、責任を取る前に船を出します」
エリナは黙った。
その沈黙は、納得ではない。
だが、拒絶だけでもなかった。
-
虚偽報告の出どころは、すぐに分かった。
兵站監、カール・フォン・メルツ大佐。
名門ではないが、帝都の軍需商会と深いつながりを持つ男だった。
彼は司令部の副官室で、汗を拭きながら言い訳を並べた。
「避難民数は一時的な変動です。民間人は移動しますからな。正確な把握は困難で――」
「医療物資は」
「前線特有の消費増です」
「砲台稼働率は」
「整備中のものを停止扱いにしただけでしょう」
「燃料備蓄は」
「輸送遅延です。同盟軍の妨害で――」
レオンは端末を机に置いた。
そこには、補給艦隊の航行記録が表示されていた。
「三か月前、カレリアへ向かうはずだった燃料輸送船六隻が、途中で進路を変更しています」
メルツ大佐の口が止まった。
「行き先は、軍需商会所有の民間ドック。そこから燃料は、別名義で帝都方面へ転売されています」
「それは……緊急再配分です」
「要塞の燃料を帝都の貴族所有船へ再配分したのですか」
「証拠があるのか」
「あります」
ミリアが一歩前に出た。
「暗号通信ログを復元しました。大佐の認証印も残っています」
メルツ大佐は、今度こそ顔色を変えた。
「通信参謀ごときが、私の記録を――」
「通信参謀ですので」
ミリアは静かに言った。
「記録を見るのが仕事です」
レオンはゼッケンドルフへ視線を向けた。
老将は、重い沈黙の中で端末を見ていた。
怒りは顔に出ていない。
だが、義手のない左袖がわずかに震えていた。
「メルツ大佐」
ゼッケンドルフは言った。
「君を兵站監の任から解く」
「閣下! お待ちください、これは誤解で――」
「営倉へ連れて行け」
兵士が入ってきた。
メルツ大佐は抵抗したが、すぐに取り押さえられた。
彼が連れ出された後、司令室には重い沈黙が残った。
「私は」
ゼッケンドルフが言った。
「自分の要塞の数字も見えていなかったということか」
「現場の全てを司令官一人で見ることはできません」
「慰めは不要だ」
「慰めではありません」
レオンは端末を閉じた。
「今、見えました。なら、ここから判断できます」
ゼッケンドルフはレオンを見た。
「撤退か」
「撤収です」
「同じだ」
「違います。撤退は敵から逃げることです。撤収は、守るべきものを運び出すことです」
老将はしばらく黙っていた。
やがて、低く笑った。
「言葉遊びがうまいな、敗戦処理官」
「数字遊びよりは得意ではありません」
-
同盟軍旗艦では、カレリア要塞の包囲図が青白く輝いていた。
アレクサンドル・ヴェガ提督は、要塞から伸びる通信量を眺めていた。
「増えたな」
副官が頷く。
「帝国軍の正規通信とは別に、低出力の民間波が増えています。旧式の教育用衛星や救難ビーコンまで使っているようです」
「ミリア・エーレンベルク」
「はい?」
「グリムワルトで、クラウゼンの通信を通した参謀だ。おそらく彼女がいる」
副官は少し驚いた顔をした。
「では、クラウゼン少佐も?」
「いるだろうな」
ヴェガは要塞を見つめた。
灰色の外殻に無数の砲台が並んでいる。
古い要塞だ。
強固だが、鈍い。
飢えれば内側から崩れる。
「攻めますか」
「攻めない」
「今なら包囲完成前です。敵は混乱しています」
「だから攻めない」
ヴェガは静かに言った。
「混乱した要塞に撃ち込めば、民間区画へ砲火が逸れる。カレリアには避難民がいる」
「帝国側も民間人を置いているのです。こちらが配慮する必要は――」
「必要があるかないかで戦争をすると、最後には何でも必要なくなる」
副官は口を閉じた。
ヴェガは、要塞の一角に表示された微弱な通信を拡大した。
民間放送局の帯域。
教育用衛星。
旧式救難ビーコン。
正規軍の通信網ではない。
誰かが、命令の通る道を作り直している。
「クラウゼンは要塞を捨てる」
「ならば撤退路を塞ぎますか」
「塞げば、彼は別の出口を作る」
「では、どうします」
「出口を数える」
ヴェガは笑みを消した。
「彼が何を守り、何を捨てるかを見る」
-
灰色の門作戦。
レオンが提出した撤収計画の名を、ゼッケンドルフは気に入らなかった。
「勝利の名ではないな」
「勝利する作戦ではありません」
「では敗北の名か」
「人を通す門の名です」
作戦の骨子は単純だった。
カレリア要塞が健在であるように見せながら、内部の人間を段階的に外へ出す。
ただし、問題は山ほどあった。
同盟軍は包囲網を狭めている。
正規の航路は監視されている。
輸送艦は足りない。
避難民は多すぎる。
要塞司令部には、まだ撤収に反対する将校がいる。
そして、カレリアが落ちると知れば、要塞内はパニックになる。
だから、誰にも全体を知らせない。
必要な者に、必要な分だけ伝える。
「まず砲台を偽装します」
レオンは会議室に集まった少数の関係者へ説明した。
ゼッケンドルフ、ミリア、エリナ、整備長、医療責任者、輸送隊長。それだけだった。
「稼働していない砲台にも熱源を置き、通信試験信号を流します。外から見れば、全砲台が再起動準備中に見える」
整備長が唸った。
「砲身の動作まではごまかせません」
「動かす必要はありません。敵に『攻撃準備をしているかもしれない』と思わせればいい」
「その間に避難船を?」
「はい。ただし、避難船とは呼びません。医療廃棄物搬出船、補給艦の空荷回送、通信ブイ修理艇。名目を分けます」
エリナが手を上げた。
「最初に誰を乗せますか」
「生命維持装置が必要な患者。十歳未満の子ども。妊婦。重度外傷者。次に、医療従事者と整備技術者の一部」
「軍人は?」
「後です」
輸送隊長が顔をしかめた。
「兵士を後回しにすれば、反発が出ます」
「出ます」
「暴動になります」
「ならないよう、兵士には別の任務を与えます」
レオンは端末を操作した。
「避難誘導、輸送船の積載補助、医療区画の搬送、偽装砲台の設置。自分たちが逃げるのではなく、逃がしていると思わせる」
「実際は?」
「実際もそうです。最後には彼らも逃がす」
エリナがじっとレオンを見た。
「最後に残る人は?」
「私たちです」
ミリアが小さく息を呑んだ。
レオンは続けた。
「最後の輸送船団が出た後、要塞司令部は総攻撃を装います。その隙に司令部と後衛を撤収させる」
ゼッケンドルフが言った。
「誰がその総攻撃を指揮する」
「閣下です」
老将は笑った。
「私に逃げろと言うのか、囮になれと言うのか、どちらだ」
「両方です」
会議室に沈黙が落ちた。
「囮は死ぬために残るものではありません。生きて最後の船に乗るまでが任務です」
「死ぬ覚悟もない囮に、敵が騙されるか」
「死ぬ覚悟のある司令官は珍しくありません」
レオンは老将を見た。
「生きて敗北の報告をする覚悟のある司令官は、少ない」
ゼッケンドルフの表情が、わずかに動いた。
「私に恥をかけと」
「はい」
「正直だな」
「嘘をつく時間が惜しいので」
老将はしばらくレオンを睨んでいた。
やがて、深く息を吐いた。
「よかろう。灰色の門を開け」
-
ミリアの戦場は、砲塔の外ではなく通信室だった。
正規の軍用通信網は同盟軍に監視されている。暗号化されていても、通信量の増減で作戦の意図は読まれる。
だから、彼女は軍の外側に目を向けた。
要塞都市の民間放送局。
古い教育用通信衛星。
廃止された鉱山用ビーコン。
観光案内用の短距離案内波。
旧式の救難信号発信機。
軍人なら見向きもしない、低出力で不格好で遅い通信網。
だが、それらは生きていた。
「民間帯域を使えば、同盟軍に読まれる可能性があります」
若い通信兵が言った。
「内容は読ませない。存在は読ませる」
ミリアは端末を操作しながら答えた。
「避難誘導は、医療連絡と配給変更に見せかける。輸送船の発進は、廃棄物処理と設備点検に偽装。民間放送局には、避難訓練の案内を流させます」
「訓練ですか」
「本番と言えば、人は走ります。訓練と言えば、並びます」
通信兵は、少しだけ笑った。
「中尉、言い方がクラウゼン少佐に似てきましたね」
ミリアは手を止めた。
「それは褒めていますか」
「判断が難しいです」
「私もです」
彼女は再び画面へ向かった。
命令が届かないから死ぬなら、命令が届く道を作る。
グリムワルトで、彼女はレオンの命令を送った。
今回は違う。
今回は、彼女が道を作る。
「第三区医療院へ接続。ファルク医師に、第一便の患者リストを送ってください。民間放送局には、地下第六区画で配給変更と流します。実際には避難集合です」
「了解」
「旧教育衛星を中継に使います。遅延は?」
「七秒」
「十分です」
「軍用基準では遅すぎます」
「逃げる人間には速すぎるくらいです」
ミリアは、要塞内に散らばる小さな光点を見た。
それらは軍艦ではない。
砲台でもない。
だが、人を動かす声だった。
-
最初の船は、医療廃棄物搬出船という名で出た。
実際には、重病患者と子どもたちを乗せた小型輸送艇だった。
エリナは、乗船口の前で患者リストを握っていた。
「ファルク先生」
看護師が震える声で言った。
「本当に全員乗れますか」
「全員は無理」
エリナは即答した。
看護師が顔をこわばらせる。
だが、エリナは続けた。
「だから、次の便を出す。今は、この便に乗る人を間違えない」
彼女はリストを読み上げた。
生命維持装置が必要な患者。
酸素依存の子ども。
妊婦。
重度熱傷者。
名前を呼ばれなかった者たちが、黙って見ている。
その視線は痛かった。
なぜ自分ではないのか。
なぜあの人なのか。
その問いに、エリナは一人ずつ答える時間がない。
だから、レオンが作った基準に従った。
公平で、冷たく、残酷な基準。
だが、恣意ではない。
それが今は救いだった。
「先生」
小さな少女が、酸素マスク越しに言った。
「お母さんは?」
エリナは一瞬だけ言葉を失った。
母親は、次の便だった。
少女の状態では、今出さなければ危険だった。
「後から来るわ」
「本当?」
「本当」
エリナは少女の手を握った。
「私が乗せる」
少女は頷いた。
その横で、レオンが輸送艇の積載率を確認していた。
エリナは彼に近づいた。
「嘘をつきました」
「母親を次の便に乗せれば、嘘ではなくなります」
「作れますか、次の便」
「作ります」
「作れなかったら?」
「その時は、あなたに殴られるでしょうね」
エリナは少しだけ眉を上げた。
「殴って済むと思っているんですか」
「思っていません」
「なら、作ってください」
「はい」
輸送艇の扉が閉まった。
外では、偽装砲台が熱源を放ち始めている。
カレリア要塞は、まだ戦うふりをしていた。
その影で、最初の百八十六人が外へ出た。
-
作戦三日目。
避難者数、一万二千四百。
残存者数、七万弱。
敵包囲完成予測、五日後。
順調ではなかった。
ただ、最悪よりは良かった。
レオンが司令室に戻ると、ゼッケンドルフが一人で戦略図を見ていた。
「少佐」
「はい」
「私は長く軍人をやってきた」
「存じています」
「若い頃は、撤退する司令官を軽蔑していた。戦場に背を向ける者に、兵はついてこないと思っていた」
老将は静かに言った。
「今も、半分はそう思っている」
「半分は?」
「残り半分が、邪魔をする」
ゼッケンドルフは展望窓の外を見た。
避難船団の光が、灰色の要塞の影から静かに離れていく。
「あの光を見ていると、私は間違っていたのかもしれんと思う」
「間違っていたかどうかは、後で記録すればいい」
「後で?」
「今は人を出す時間です」
老将は苦く笑った。
「君は容赦がないな」
「時間にも容赦がありません」
「そうだな」
しばらく沈黙があった。
やがて、ゼッケンドルフは言った。
「私は残るつもりだった」
「でしょうね」
「この要塞と共に死ねば、少なくとも兵たちは、司令官は逃げなかったと思うだろう」
「思います」
「それでは駄目か」
「駄目です」
「なぜだ」
「死んだ司令官は、敗北の報告を訂正できません」
ゼッケンドルフの義眼がレオンを捉えた。
「生きて、何を言えと」
「要塞は落ちた。だが、人は逃がした。補給は足りず、報告は歪み、兵站は腐っていた。次に同じことをすれば、また死ぬ」
レオンは言った。
「そう報告してください」
「貴族院は聞かんぞ」
「聞かなくても、記録には残ります」
「記録か」
老将は小さく呟いた。
「君は本当に、死者の側に立つ男だな」
「生者を相手にするのは、あまり得意ではありません」
「知っている」
-
作戦五日目に、事故が起きた。
輸送船が第三退避航路で推進機関を停止した。
乗員と避難民、合わせて九百四十名。
そのうち二百名以上が負傷者だった。
修理に必要な時間は四十分。
敵哨戒艦が到達するまで二十二分。
見捨てれば、他の船団は守れる。
救おうとすれば、避難航路全体が露見する。
司令室に緊張が走った。
「切り離すべきです」
輸送隊長が言った。
「今なら他の船団は逃げられます。《エイレーネ》を救おうとすれば、第二、第三船団まで危険にさらされる」
エリナが顔を上げた。
「乗っているのは民間人です」
「それは承知しています」
「承知して見捨てるんですか」
「全員を危険にさらすわけにはいきません」
議論は感情に傾きかけていた。
レオンは数字を見ていた。
救助成功率、二一パーセント。
他船団への被害拡大率、六八パーセント。
見捨てた場合の損失、九百四十。
救助失敗時の推定損失、最大六千。
答えは出ていた。
「《エイレーネ》を切り離す」
レオンが言った。
エリナが彼を見た。
「本気ですか」
「はい」
「九百人を?」
「他の五千を守るために」
「数字で言えば、そうでしょうね」
エリナの声は震えていた。
「でも、その九百人にも顔があります」
「知っています」
「知っていて、捨てるんですか」
「はい」
ミリアが、それまで黙っていたミリアが、一歩前に出た。
「少佐」
「何だ」
「別案があります」
レオンは彼女を見た。
ミリアは端末を操作し、通信図を投影した。
「《エイレーネ》の周囲には、旧式補給ポッド群があります。要塞建設時代の資材搬送用で、今は放棄されています」
「使えない」
「補給ポッドとしては使えません。ですが、識別信号は生きています」
レオンの目が細くなった。
「偽装か」
「はい。《エイレーネ》の識別信号を一時的に隠し、補給ポッド群の信号を増幅します。敵哨戒艦には、無人漂流物が密集しているように見えるはずです」
「時間は稼げるか」
「十三分。うまくいけば十七分」
「修理には四十分必要だ」
「修理はしません」
ミリアは別の図を出した。
「《エイレーネ》を自走させるのではなく、無人補給ポッド群の慣性推進を連動させて押します。速度は遅いですが、敵哨戒圏から外すだけなら可能です」
輸送隊長が驚いた声を上げた。
「そんな使い方、設計上想定されていません」
「戦場も想定していません」
ミリアは言った。
レオンは成功率を計算した。
「成功率は」
「三七パーセントです」
司令室が沈黙した。
低い。
だが、二一よりは高い。
そして、他船団への被害拡大率は二七パーセントまで下がる。
レオンはミリアを見た。
「三七は高いな」
ミリアは、小さく息を吐いた。
「そう言うと思いました」
「実行しろ」
「了解」
エリナがレオンを見た。
「切り離すのでは?」
「より良い数字が出ました」
「本当に、数字でしか動かないんですね」
「今回は、その数字を中尉が作りました」
エリナはミリアを見た。
ミリアはもう画面へ向かっていた。
「《エイレーネ》へ送信。主機停止のまま、姿勢制御だけ維持。旧式補給ポッド群へ同期信号を送ります。民間帯域を開けてください。敵に見せる信号を作ります」
それから二十一分、司令室の全員が息を詰めていた。
敵哨戒艦は近づいた。
《エイレーネ》は動かない。
ただ、周囲の無人ポッドがゆっくりと動き始める。
小さな、古い、忘れられた機械たちが、九百四十人を乗せた船を押した。
敵哨戒艦は、一度だけ進路を変えた。
だが、攻撃しなかった。
無人の漂流物と判断したのか。
あるいは、判断に迷ったのか。
どちらでもよかった。
《エイレーネ》は、哨戒圏を抜けた。
司令室に、遅れて歓声が上がった。
ミリアは椅子に座り込んだ。
レオンは言った。
「よくやった」
彼女は少しだけ笑った。
「少佐に褒められると、戦場が悪化しそうです」
「もう悪化している」
「では、ちょうどいいですね」
-
ヴェガは、《エイレーネ》の偽装を見抜いていた。
少し遅れて、だが見抜いた。
「撃てます」
副官が言った。
「今なら、あの輸送船を落とせます」
星図上では、小さな輸送船が補給ポッド群に紛れて移動している。
軍艦ではない。
砲もない。
速度も遅い。
撃てば沈む。
そして、その中に何が乗っているか、ヴェガには分かっていた。
「撃つな」
「しかし、帝国兵が乗っている可能性もあります」
「負傷兵だろうな」
「ならば戦力です」
「寝台の上の負傷兵を戦力と呼ぶなら、我々はもう軍ではない」
副官は不満そうだったが、命令には従った。
ヴェガは目を細めた。
「三七パーセント」
「何ですか」
「おそらく、その程度の賭けだった」
「なぜ分かるのです」
「私なら二五を切れば捨てる。四〇を超えれば迷わない。あの動きは、迷った末の実行だ」
ヴェガは少しだけ笑った。
「クラウゼンではないな」
「では誰が?」
「通信参謀だ」
星図の端で、カレリア要塞の砲台がいっせいに熱を持ち始めた。
偽装砲台。
だが、すべてが偽装ではない。
「灰色の門か」
ヴェガは呟いた。
「何か?」
「いや。敵ながら、よく開ける」
-
作戦七日目。
要塞内の避難完了率は七割を超えた。
だが、同盟軍も気づき始めていた。
包囲網の外側へ抜けていく小型船の数が多すぎる。
偽装砲台の熱源にも不自然な周期がある。
灰色の門は、閉じかけていた。
「最終船団を出します」
レオンは言った。
「残存者は」
「軍人一万一千。民間人七千。負傷者二千。司令部要員を含め、約二万」
ミリアの声は少し掠れていた。
この七日間、彼女はほとんど眠っていない。
それはレオンも同じだった。
「輸送能力は」
「一万六千が限界です」
エリナが顔を上げた。
「四千、残るということですか」
「通常積載なら」
「詰め込めば?」
「二万人全員を乗せられます。ただし、酸素供給が足りません。航路途中で死者が出ます」
「何人」
「最悪で千二百」
重い沈黙。
ゼッケンドルフが口を開いた。
「兵士を残す」
「閣下」
「民間人と負傷者を先に出せ。歩ける兵士は残る」
老将の声は揺れていなかった。
「この要塞を守るためではない。最後の欺瞞砲撃を成立させるためだ」
レオンは彼を見た。
「司令官も残ると?」
「当然だ」
「最後の船に乗る約束です」
「状況が変わった」
「変わっていません」
「私は司令官だ」
「だから乗ってください」
ゼッケンドルフの目に怒りが宿った。
「君は私から死に場所まで奪うのか」
「はい」
「なぜだ」
「死に場所を欲しがる司令官は、部下に死ぬ理由を与えるからです」
老将は黙った。
「兵士を残すなら、彼らに必要なのは死に場所ではありません。帰る命令です」
「帰る船が足りん」
「足りるようにします」
レオンはミリアを見た。
「中尉。要塞内の短距離作業艇、整備艇、救難カプセル、民間小型船。すべて洗い出せ」
「すでに始めています」
「何隻使える」
「飛べるものだけなら百六十二。飛べそうなものを含めれば二百四十」
「十分だ」
輸送隊長が叫んだ。
「十分ではありません! あれは航路外へ出るための船ではない!」
「航路外へは出しません」
レオンは星図を拡大した。
「最終船団の周囲に配置し、酸素供給ユニットとして接続する。小型船を船としてではなく、外付けの空気タンクとして使う」
「そんな無茶な」
「無茶だから、敵も想定しない」
ミリアが頷いた。
「接続信号はこちらで統一できます。民間規格と軍規格の差分は、旧教育衛星を経由して変換します」
「また教育衛星か」
ゼッケンドルフが呆れたように言った。
「帝国北方の盾は、学校の衛星に救われるのか」
「はい」
ミリアは真面目に答えた。
「よい教育の成果です」
老将は一瞬だけぽかんとし、それから低く笑った。
「君たちは、まったく軍人らしくないな」
「よく言われます」
レオンは言った。
「主に悪口として」
-
最終作戦は、夜に始まった。
宇宙に夜はない。
だが、カレリア要塞では、人工照明を落とし、民間区画に夜間避難訓練と告げた。
人々は列を作った。
兵士が誘導し、医師が負傷者を運び、整備員が古い小型船を外部ユニットとしてつないだ。
偽装砲台は最大出力で熱源を放った。
要塞外殻では、無人砲塔がゆっくりと動き出す。
同盟軍から見れば、カレリアは最後の総攻撃を準備しているように見えるはずだった。
ゼッケンドルフは司令室に立っていた。
「全砲台、発射準備」
老将の声が響く。
その声を聞いた兵士たちは、背筋を伸ばした。
彼らはまだ知らない。
それが勝利のための号令ではなく、逃げるための幕だということを。
「第一、第二偽装砲列、発光開始」
ミリアが通信を通す。
「民間船団、接続完了。酸素供給安定」
「医療区画、最終搬出完了」
エリナの声が入る。
「残りは私たちだけです」
「あなたも乗れ」
レオンが言った。
「乗りますよ。最後から二番目に」
「最後ではなく?」
「最後はあなたでしょう」
「私は仕事が残っています」
「私もです」
通信越しに、エリナの息遣いが聞こえた。
「子どもの母親、乗せました」
レオンは一瞬だけ沈黙した。
「そうですか」
「嘘にしませんでした」
「よかった」
「ええ」
それだけで、通信は切れた。
ミリアが言った。
「最終船団、発進可能」
ゼッケンドルフがうなずく。
「では、撃つか」
「当てないでください」
レオンが言った。
「分かっている。私は古い軍人だが、そこまで愚かではない」
老将は手を上げた。
「カレリア要塞、全砲台、発射」
灰色の要塞が光った。
無数の砲火が、同盟軍の包囲網へ向かって伸びる。
だが、それは敵艦隊を破壊するための砲撃ではない。
航路を照らし、敵のセンサーを焼き、避難船団の影を隠すための光だった。
その光の裏側で、最終船団が動き出した。
軍艦、輸送艦、民間船、作業艇、救難カプセル。
不格好な船団だった。
だが、そこには二万人の呼吸があった。
-
「攻撃ではない」
ヴェガは、カレリア要塞の砲撃を見て言った。
「では?」
副官が問う。
「幕だ」
ヴェガは星図を拡大した。
砲火の裏に、微弱な推進反応が連なっている。
船団。
民間信号。
軍艦信号。
救難カプセル。
まるで壊れた楽器のように不揃いな光。
「生者の葬列だな」
「追撃しますか」
「軍艦だけを追え。民間識別信号には撃つな」
「混在しています。識別は困難です」
「ならば撃つな」
副官が目を見開いた。
「それでは逃げられます」
「逃げるだろうな」
「提督」
「我々の目的はカレリア要塞の無力化だ。避難民の虐殺ではない」
「帝国軍は、その温情を利用します」
「利用させておけ」
ヴェガは要塞を見つめた。
「その代わり、要塞はもらう」
同盟軍艦隊が動く。
追撃は限定的だった。
それでも、砲火は船団の周囲をかすめた。小型船が一隻、推進器を吹き飛ばされる。別の救難カプセルが回転し、信号を失う。
戦争は慈悲だけでは止まらない。
ヴェガはそれを知っている。
レオンも知っているだろう。
それでも、撃たない線を引く。
その線だけが、人間を人間の側に留める。
-
最終船団の離脱から二時間後。
カレリア要塞は沈黙した。
砲台は焼け、外殻は裂け、同盟軍の上陸艇が灰色の装甲へ取りついている。
帝国北方の盾は、落ちた。
だが、要塞の中は空だった。
正確には、完全な空ではない。
残された物資、壊れた機械、動けなかった死者、そして最後まで起動していた自動放送があった。
『これは避難訓練です。係員の指示に従い、落ち着いて移動してください』
無人の通路に、ミリアが設定した声が流れ続けていた。
レオンたちが乗る最後の連絡艇は、要塞から離れていた。
小さな艇だった。
中には、レオン、ミリア、ゼッケンドルフ、エリナ、数名の通信兵と負傷兵が詰め込まれている。
ゼッケンドルフは肩に破片を受けていた。
出血は止まっているが、顔色は悪い。
「死に損なったな」
老将は呟いた。
「任務成功です」
レオンは答えた。
「私は敗北した司令官だ」
「はい」
「要塞を失った」
「はい」
「だが、人は逃がした」
「はい」
ゼッケンドルフは目を閉じた。
「死んで詫びる方が、どれほど楽だったか」
「楽な責任の取り方を、兵士に見せるべきではありません」
老将は薄く笑った。
「君は、本当に容赦がない」
「よく言われます」
「主に悪口として、だろう」
「はい」
ミリアが、小さく笑った。
エリナは疲れ切った顔で、負傷兵の脈を取っている。
誰も勝っていない。
誰も英雄になっていない。
それでも、連絡艇の外には船団の光があった。
八万人近い人間が、生きてカレリアを離れていた。
-
帝国本国の発表は、予想通りだった。
『カレリア要塞群は、敵の大規模攻勢を受け、戦略的再配置を実施』
『ゼッケンドルフ大将は、民間人保護を最優先とした秩序ある後退を指揮』
『北方航路における戦線再編は予定通り進行中』
予定通り。
その言葉を聞いた時、ミリアは端末を投げそうになった。
「予定通り?」
彼女は医療船の一室で声を荒げた。
「燃料を横流しされて、避難民を隠されて、要塞を失って、これが予定通りですか」
「公式発表とはそういうものです」
レオンは負傷者リストを見ながら答えた。
「腹が立たないのですか」
「立ちます」
「そうは見えません」
「見せる余裕がないだけです」
ミリアは言葉を止めた。
レオンの端末には、死者と行方不明者のリストが並んでいた。
カレリア要塞群撤収作戦。
避難成功者、七万八千六百二十一名。
戦死者、二千九百四十名。
行方不明者、八百十六名。
重傷者、五千三百。
要塞喪失。
北方航路後退。
勝利ではない。
だが、全滅でもない。
「少佐」
エリナが入ってきた。
彼女も眠っていなかった。目元には濃い疲労があり、白衣は新しいものに替わっていたが、袖口にはまだ血の跡が残っている。
「これを」
彼女は一通の紙片を差し出した。
紙だった。
この時代に、珍しい。
「何ですか」
「あなた宛てです。第三区画から避難した女の子が、ミリア中尉に渡してくれと」
ミリアが受け取り、レオンへ渡した。
紙には、拙い字で短く書かれていた。
『こわいかおのしょうささんへ。おかあさんをのせてくれてありがとう』
レオンはしばらく黙っていた。
「これは記録に残せません」
彼は言った。
ミリアは静かに答えた。
「では、私が覚えています」
エリナも言った。
「私も」
レオンは紙片を丁寧に折った。
そして、軍服の内ポケットにしまった。
そこには、損耗予測表と同じ場所だった。
-
数日後、捕虜交換用の中立通信回線を通じて、一通の書簡が届いた。
差出人は、自由星系同盟軍。
署名はなかった。
だが、誰からかは明らかだった。
レオンは内容を読んだ。
『カレリアの撤収、見事だった。
次は、君が救おうとする者の中に、私の敵も含まれることを忘れるな。』
ミリアが尋ねた。
「敵からですか」
「敵も、数字を読むらしい」
「返事は?」
「書きません」
「よろしいのですか」
「次の戦場で返すことになるでしょう」
レオンは書簡を閉じた。
その時、新しい命令が届いた。
軍務省監察局からだった。
『クラウゼン少佐およびエーレンベルク中尉は、カレリア撤収作戦に関する査問のため、帝都へ帰還せよ』
ミリアの顔が引きつった。
「査問?」
「当然です」
「なぜですか。私たちは八万人を逃がしたんですよ」
「要塞を失いました」
「それは――」
「それに、横流しの記録を掘り返した」
レオンは端末を閉じた。
「人を救うと、誰かの失敗が残ります。失敗を隠したい人間にとって、救助記録は不都合です」
エリナが腕を組んだ。
「帝都は、戦場より厄介そうですね」
「戦場の方が正直です」
レオンは立ち上がった。
「砲弾は、少なくとも自分が砲弾であることを隠しません」
ミリアは深く息を吐いた。
「では、次は帝都ですか」
「はい」
「負け戦ですか」
レオンは少し考えた。
「おそらく」
「なら、準備が必要ですね」
ミリアは端末を開いた。
「通信ログ、避難者名簿、医療搬送記録、補給横流しの証拠、偽装砲台の運用記録。全部、複製しておきます」
「命令していません」
「申請です」
「却下されるかもしれません」
「その場合は、意見書を五十枚添付します」
レオンは彼女を見た。
「増えましたね」
「成長しました」
エリナが初めて笑った。
医療船の窓の外で、カレリアから逃れた船団が、帝国後方へ向かってゆっくり進んでいる。
故郷を失った者たちの船団。
敗北の船団。
それでも、生者の船団だった。
レオン・クラウゼンは、その光をしばらく見ていた。
要塞は落ちた。
門は破られた。
だが、門の向こうにいた人間は、まだ歩いている。
ならば、敗戦処理は終わっていない。
彼は端末に、新しい項目を作った。
カレリア撤収作戦、戦後処理。
避難民再配置。
負傷者追跡。
行方不明者照合。
補給横流し調査。
帝都査問対策。
そして最後に、一行を加えた。
生存者の証言を消させないこと。
勝利の歓声はない。
英雄の凱旋もない。
次に待つのは、砲火ではなく議場と書類と貴族たちの笑顔だった。
それでも、レオンはため息をつき、赤字で染まった記録を保存した。
次の戦場にも、まだ消される必要のない名前があった。




