グリムワルト撤退戦
グリムワルト回廊は、星図で見るよりも狭かった。
宇宙空間そのものが狭いわけではない。重力潮汐が荒れており、大型艦が安全に航行できる安定帯が限られているのだ。
幅の狭い谷を、巨大な軍勢が進んでいる。レオンの目には、そう見えた。
左舷外縁では重力波が荒れ、右舷側には小惑星群の残骸が帯状に広がっている。正面は安定航路。だが、その安定航路は敵の補給拠点へまっすぐ伸びていた。
都合が良すぎる。
戦場で都合が良すぎるものは、たいてい罠だ。
「敵前衛、さらに後退」
通信士が報告する。
「こちらの追撃圏外です」
「当然だ」
リーデン侯爵は満足げに頷いた。
「敵は艦隊の威容を見て恐れをなした。全艦、第三戦速を維持。敵補給拠点まで一気に押し込む」
作戦室に歓声が上がった。
若い参謀が拳を握る。貴族出身の副官は、早くも帝都への勝利報告文の文案を話し合っている。
誰も、補給船団との距離を見ていない。
誰も、通信遅延の増加を見ていない。
誰も、敵の偵察艦が消えた理由を考えていない。
レオンは端末の数字を見ていた。
燃料消費率が予定値を超えている。
補給船団との距離が広がっている。
敵の偵察艦が、ある時点から突然消えている。
逃げているのではない。見られる必要がなくなったのだ。
「ミリア中尉」
「はい」
「通信中継ブイ三号、七号、十一号の移動は」
「完了しています。医療艦、修理艦、補給母艦も指定位置へ移動済みです」
「救命艇区画は」
「訓練名目で開放。徴用輸送船の貨物区画も、民間責任者に避難民収容訓練として準備させています」
「結構です」
ミリアは小声で続けた。
「補給船団の責任者から、司令部の許可はあるのかと再三問い合わせが来ています」
「どう答えましたか」
「第七後方参謀局の安全勧告に基づく訓練であり、戦闘命令ではない、と」
「正しい応答です」
「ただ、補給船団の一部艦長は不満を示しています。通常航路から外れれば、戦果確認から遅れると」
「補給船が戦果を確認して、どうするのですか」
「私もそう思います」
ミリアは言った後、自分の言葉に少し驚いた顔をした。数時間前の彼女なら、そうは言わなかっただろう。
「少佐」
「はい」
「本当に、来ますか」
「来ます」
「なぜ断言できるのですか」
「敵が来なければ、こちらは勝ちます。来れば、こちらは負けます。敵が有能なら、来ます」
その時だった。
星図の赤い光点が、一斉に消えた。
作戦室の誰もが、数秒だけ沈黙した。
次の瞬間、回廊後方に、新たな赤い光点が現れる。
通信士の声が裏返った。
「敵艦隊、後方航路に出現!」
「馬鹿な」
参謀長が叫んだ。
「敵主力は前方にいたはずだ!」
「偽装信号です」
ミリアが青ざめた顔で言った。
「前方の敵艦影は、無人標識艦の反射信号です。本物の主力は、回廊外縁を迂回して後方へ」
言い終わる前に、星図がさらに赤く染まった。
前方にも敵。
後方にも敵。
横へ逃げるには、重力潮汐が荒れすぎている。
第九遠征艦隊は、巨大な罠の中にいた。
「全艦、前進!」
リーデン侯爵が叫んだ。
「敵前方を突破する! 戦艦隊を中央に集結させろ!」
「閣下、燃料残量が」
「黙れ! 帝国艦隊が背を向けるか!」
命令が飛ぶ。艦隊が歪む。
先頭の戦艦隊は前へ。補給不足の巡洋艦隊は遅れ、駆逐艦隊は命令系統を失い始める。撤退も突撃もできない、最悪の形だった。
「後方補給船団と通信途絶」
「第二戦隊、敵砲撃圏内」
「第六巡洋艦群、隊列を維持できません」
「医療艦隊、前進できません」
「敵艦隊、退路封鎖を開始」
混乱は音を持っていた。
警告音。怒号。通信の断片。艦名を呼ぶ声。誰かの悲鳴。
星図上で青い光点が一つ、また一つと消えていく。
ミリアがレオンを見た。
レオンは、星図の一点を指していた。
「三号ブイを開けてください」
「三号は通常通信網から外れています」
「だから生きています」
ミリアは一瞬だけ目を見開き、すぐに操作へ移った。
「三号ブイ、接続確認。七号、十一号も反応あり。少佐、通信できます」
「全補給船団へ送信。待機点を第二救助線へ変更。医療艦は収容区画を開放。修理艦は損傷艦の曳航準備。補給母艦は燃料配分を戦闘艦優先から退避可能艦優先へ変更」
「それは正式命令ではありません」
ミリアの声が震えた。
「勧告です」
「誰の名で」
「第七後方参謀局、レオン・クラウゼン少佐の名で」
ミリアは唇を噛んだ。
彼女の指は、送信キーの上で止まっていた。それを押せば、もう戻れない。正式命令ではない勧告で、艦隊の配置が変わる。責任は、彼女にも及ぶ。
レオンは急かさなかった。選ぶのは彼女だった。
数秒後、ミリアは送信した。
「送信完了」
「結構です」
「少佐」
「はい」
「私は、まだあなたが正しいのか分かりません」
「それでいいです」
レオンは星図から目を離さなかった。
「今は、生き残ってから考えてください」
-
戦場では、勝利より先に通信が死ぬ。
誰がどこにいるのか分からなくなる。どの艦が生きていて、どの艦が沈んだのか分からなくなる。命令は遅れ、救助は迷い、艦隊はただの鉄の群れになる。
レオンが最初に守ったのは、艦ではなかった。
声だった。
「通信巡洋艦、推進機関損傷。敵追撃圏まで十二分」
ミリアが報告する。
「旗艦は」
「護衛艦六隻が健在。損傷軽微。ただし侯爵閣下は、前進命令を継続中です」
「《アルゲン》を先に逃がします」
「しかし、旗艦にはリーデン侯爵が」
「侯爵が生きていても、命令が届かなければ艦隊は死にます」
レオンは退避航路を引き直した。
「《アルゲン》には通信士が三十七名います。彼らが生きていれば、まだ二万隻に声が届きます」
「旗艦を見捨てるのですか」
「違います」
レオンは、初めてミリアを見た。
「旗艦だけを救う戦場を、見捨てるのです」
ミリアは一瞬だけ目を閉じた。次に目を開けた時、その迷いは消えていた。
「通信巡洋艦へ退避勧告。駆逐艦に護衛を要請します」
「要請では弱いです。生還可能率も添付してください。旗艦護衛継続時、一八パーセント。《アルゲン》護衛時、六二パーセント。艦長は数字で動きます」
「了解」
星図上で、青い光点が二つ、隊列を離れた。
それを見たリーデン侯爵が怒号を上げる。
「誰が退避を許した! 戻せ!」
だが、もう遅い。
レオンがずらしておいた通信中継は、旗艦の命令より早く《アルゲン》へ届いていた。
そして《アルゲン》の通信網が、崩壊寸前の艦隊に声を戻した。
『第三駆逐隊、左舷重力帯へ退避せよ』
『損傷艦は救助線二号へ向かえ』
『燃料残量三割以下の艦は戦闘を停止。退避を優先』
『医療艦、収容可能』
『第八輸送群、民間徴用船を先に逃がせ。繰り返す。民間徴用船を先に逃がせ』
混乱は消えない。死者も減らない。
だが、艦隊は群れから隊列へ戻り始めた。
「第二戦艦隊より通信。前進継続の是非を問うています」
「戦艦隊には停止勧告。主砲を敵前衛へ向けたまま後退。撃たせないでください。撃てば反動で隊列が崩れます」
「撃たない、ですか」
「敵は追撃させたいのです。こちらが撃てば、向こうも応射します。砲撃戦になれば、損傷艦を逃がす時間が消えます」
「了解」
「第十二駆逐隊は」
「隊列から孤立。敵の軽巡に追われています」
「救えません」
ミリアの手が止まった。
「少佐」
「救えません」
レオンは繰り返した。
「彼らを救うには、修理艦を重力荒域へ出す必要があります。そうすれば修理艦も沈みます。修理艦が沈めば、中央の損傷艦二十三隻が死にます」
「ですが、第十二駆逐隊には」
「分かっています」
レオンの声は低かった。
「分かっていますが、救えません」
ミリアは唇を噛みしめた。
戦場の計算は、時に残酷だ。何人を救うかを決めることは、何人を救わないかを決めることでもある。
レオンは端末に指を走らせた。
「第十二駆逐隊へ通信。敵軽巡を三分引きつけた後、全救命艇を射出。救助座標を送ってください。後続の徴用船が拾います」
「救命艇で、戦場の中を」
「艦は救えません。人を救います」
ミリアは大きく息を吸い、通信を送った。
数分後、星図上で第十二駆逐隊の光点が消えた。
だが、その周囲に小さな救難信号が散った。
レオンはその数を数えた。
救難信号、百七十六。
拾えるのは、最大で百二十。
五十六人は、おそらく戻らない。
それでも、ゼロではない。
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