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グリムワルト回廊撤退戦

こんなの書いてみたいを少しだけ形にしてみました。

いくつか書いてみたいテーマがあるので、おもしろいと思っていただけるようなら続編を書こうかな。

「敗北を想定した作戦案を提出します」

 その一言で、艦隊司令部の空気が凍った。

 作戦室の中央には、グリムワルト回廊の立体星図が浮かんでいる。

 青い光点が帝国艦隊。赤い光点が自由星系同盟軍。

 青は赤の三倍あった。

 戦艦二百二十隻。巡洋艦六百四十隻。駆逐艦二千八百隻。補給船団、医療艦、修理艦、徴用輸送船を含めれば、第九遠征艦隊は一万を超える艦艇を連ねている。

 数字だけを見れば、勝てる戦だった。

 だからこそ、誰も負ける話など聞きたがらなかった。

「クラウゼン少佐」

 艦隊司令官、ヴォルフラム・フォン・リーデン侯爵が、ゆっくりとこちらを見た。

 銀髪を後ろに撫でつけ、胸元には帝国貴族院から贈られた勲章をいくつも下げている。軍服の肩章は重く、声は低く、笑みは冷たい。

 彼は名門リーデン侯爵家の当主であり、帝都社交界では「星海の獅子」と呼ばれていた。

 もっとも、レオン・クラウゼンの知る限り、その獅子が勝った戦いは、敵より味方の数が多い時だけだった。

「君の所属はどこだったかな」

「帝国軍務省、第七後方参謀局です」

「第七後方参謀局。ああ、敗戦処理の掃き溜めか」

 室内に、忍び笑いが広がった。

 参謀たちは誰も正面から笑わない。

 ただ、唇の端を歪め、視線を落とし、互いに目配せをする。

 敗戦処理官。

 その言葉は帝国軍では侮蔑に近い。

 勝利を誇る軍隊において、敗北を前提にする者は縁起が悪い。前線の将校たちは彼らを「死体勘定人」と呼び、貴族将官たちは宴席で「負け犬の帳簿係」と笑った。

 レオンは表情を変えなかった。

「はい。負けた後に、何人を帰せるかを計算する部署です」

「縁起でもない」

 リーデン侯爵は鼻で笑った。

「我々は勝つためにここへ来た。負ける準備をするためではない」

「勝つ準備と、負けた時の準備は矛盾しません」

 レオンは星図に視線を移した。

「矛盾するのは、勝つ予定しかない作戦です」

 今度は笑いも起きなかった。

 作戦室の空気が、冷えた刃のように張りつめる。

 リーデン侯爵の眉がわずかに動いた。

「言葉には気をつけたまえ、少佐」

「失礼しました。では数字で申し上げます」

 レオンは携帯端末から投影データを送った。


 星図の端に、燃料残量、補給船団の現在位置、通信遅延、敵艦隊の推定移動速度、重力潮汐の安定域が表示される。

 そこに浮かんだ数字は、華々しい勝利を語るものではなかった。

 消費。

 遅延。

 損耗。

 限界。

 司令部の人間が見たがらない数字ばかりだった。

「我が方の主力は、現在の進軍速度を維持した場合、八時間後に補給船団の支援限界を超えます。十二時間後には、回廊内での反転機動が困難になります。十六時間後には、後方航路を遮断された場合の自力撤退率が三一パーセントまで低下します」

「敵は敗走中だ」

 参謀長が苛立った声を出した。

「だからこそ危険です」

 レオンは答えた。

「敵の撤退が綺麗すぎます。遅滞戦闘も、偽装残置機雷も、通信妨害もない。まるで我々が最短航路で奥へ進むことを望んでいるかのようです」

「つまり、罠だと?」

「可能性は高いと判断します」

 作戦室の隅に立っていた通信参謀、ミリア・エーレンベルク中尉が、わずかに息を呑んだ。

 彼女は若かった。まだ二十代半ばだろう。軍服の襟元も、結い上げた髪も、規律通りに整っている。

 通信参謀としての経歴も優秀だ。士官学校を上位で卒業し、暗号通信と戦場中継網の専門課程を首席で修了している。今回の遠征艦隊に抜擢されたのも、貴族の縁故ではなく実力によるものだった。

 だが、その若さゆえに、彼女はまだ軍という組織の醜さを知らない。

 少なくとも、敗北が始まった時に誰が最初に見捨てられるかは、まだ知らない。

「可能性だと?」

 リーデン侯爵は椅子から立ち上がった。

「我が軍は敵の三倍だ。陛下より賜った第九遠征艦隊だ。私がこの手で勝利を捧げるために、ここまで来たのだ」

「兵士たちは、侯爵閣下の戦果のために配置された数字ではありません」

「何?」

「死ねば、戻りません」

 沈黙。

 リーデン侯爵の頬が赤く染まった。

「クラウゼン少佐。君は勇気と臆病を取り違えている。敗北を語る者は、勝利を掴めない」

「敗北を語れない者は、敗北に気づけません」

「もうよい」

 侯爵が手を振った。

「その不快な敗戦案とやらを下げろ。第九艦隊は予定通りグリムワルト回廊を突破する。敵補給拠点を叩き、帝都に勝報を送る」

「撤退線の設定だけでも――」

「下がれ」

 短い命令だった。

 それ以上の発言は、抗命と取られる。

 レオンは一礼し、端末を閉じた。

 作戦会議は終わった。

 誰もレオンを見なかった。

 ただ一人、ミリア中尉だけが、星図に残された補給線の数字を見つめていた。

 -

「少佐」

 作戦室を出たところで、ミリアが追いついてきた。

 通路の壁面には、帝国艦隊の航行データが流れている。白く輝く軍艦の列は、外から見れば壮観だった。星間航路を埋め尽くす装甲と砲塔。帝国の威光そのものだ。

 その光景を前にすれば、多くの者は勝利を信じる。

 いや、信じたがる。

「先ほどの試算ですが、本当に十二時間後に反転不能になるのですか」

「正確には、十二時間四十分後だ」

「なぜ会議ではそう言わなかったのですか」

「四十分を聞いて安心する人間がいるからだ」

 レオンは歩みを止めなかった。

 通路の窓外では、無数の艦影が星々を隠していた。

 帝国第九遠征艦隊。

 壮麗な光景だった。

 そしてレオンには、それが棺桶の列に見えていた。

「司令部は聞きません」

 ミリアが言った。

「だろうな」

「では、どうするのですか」

「負ける準備をする」

「司令官命令に反します」

「まだ命令は出していない」

 レオンは端末を操作した。

「第七後方参謀局には、補給船団への安全勧告権限がある。戦闘命令ではない。訓練名目で、医療艦の受け入れ区画を空けさせる。修理艦を退路側へ二光分移動させる。通信中継ブイを標準位置から三基ずらす。補給船団には通常航路から外れた待機点を指定する」

 ミリアの顔色が変わった。

「それは撤退準備です」

「そうだ」

「司令部に知られたら、軍法会議です」

「知られたらな」

 レオンは足を止め、窓の外の艦隊を見た。

「知られる頃には、必要になっている」

 ミリアはしばらく黙っていた。

 若い通信参謀は、規律を重んじる顔でレオンを見ていた。命令系統を外れた行為への嫌悪。だが同時に、会議室で見た数字への疑念もある。

 正しい命令と、正しい判断は、いつも同じではない。

 それを知るには、戦場で一度、人が死ぬところを見る必要がある。

「なぜ、そこまで負けることにこだわるのですか」

 ミリアが聞いた。

 レオンは答えなかった。

 代わりに、窓外の星を見た。

 そこには、八年前の戦場が重なっていた。

 サリウス撤退戦。

 帝国の公式記録では、勇敢な遅滞戦闘として処理されている。

 実際には違う。

 補給担当の参謀が撤退路の設定を求めた。だが、前線司令部は士気を理由にそれを拒んだ。敵の包囲が始まった時、退避すべき医療艦は前線に近すぎ、補給船は逃げ遅れ、通信中継は敵の初撃で沈黙した。

 救難信号は三千四百二十七。

 救助できたのは百九十三。

 レオンは当時、まだ中尉だった。

 彼の兄も、その戦場にいた。

 最後に届いた通信は短かった。

『撤退命令はまだか』

 命令は届かなかった。

 誰も負ける準備をしていなかったからだ。

「勝利は上官が語る」

 レオンは言った。

「敗北は、死者数で残る」

 ミリアは何も言えなかった。

 -

 グリムワルト回廊は、星図で見るよりも狭かった。

 正確には、宇宙空間そのものが狭いわけではない。重力潮汐が荒れており、大型艦が安全に航行できる安定帯が限られているのだ。

 幅の狭い谷を、巨大な軍勢が進んでいる。

 レオンの目には、そう見えた。

 左舷外縁では重力波が荒れ、右舷側には小惑星群の残骸が帯状に広がっている。正面は安定航路。だが、その安定航路は敵の補給拠点へまっすぐ伸びていた。

 都合が良すぎる。

 戦場で都合が良すぎるものは、たいてい罠だ。

「敵前衛、さらに後退」

 通信士が報告する。

「こちらの追撃圏外です」

「当然だ」

 リーデン侯爵は満足げに頷いた。

「敵は我が艦隊の威容を見て恐れをなした。全艦、第三戦速を維持。敵補給拠点まで一気に押し込む」

 作戦室に歓声が上がった。

 若い参謀が拳を握る。

 貴族出身の副官が、早くも帝都への勝利報告文の文案を話し合っている。

 誰も、補給船団との距離を見ていない。

 誰も、通信遅延の増加を見ていない。

 誰も、敵の偵察艦が消えた理由を考えていない。

 レオンは端末の数字を見ていた。

 燃料消費率が予定値を超えている。

 補給船団との距離が広がっている。

 敵の偵察艦が、ある時点から突然消えている。

 逃げているのではない。

 見られる必要がなくなったのだ。

「ミリア中尉」

「はい」

「通信中継ブイ三号、七号、十一号の移動は」

「完了しています。医療艦ラザレット修理艦フォルク補給母艦エルベも指定位置へ移動済みです」

「救命艇区画は」

「訓練名目で開放。徴用輸送船の貨物区画も、民間責任者に避難民収容訓練として準備させています」

「よし」

 ミリアは小声で続けた。

「補給船団の責任者から、司令部の許可はあるのかと再三問い合わせが来ています」

「どう答えた」

「第七後方参謀局の安全勧告に基づく訓練であり、戦闘命令ではない、と」

「正しい」

「ただ、補給船団の一部艦長は不満を示しています。通常航路から外れれば、戦果確認から遅れると」

「補給船が戦果を確認してどうする」

「私もそう思います」

 ミリアは言った後、自分の言葉に少し驚いた顔をした。

 数時間前の彼女なら、そうは言わなかっただろう。

「少佐」

「何だ」

「本当に、来ますか」

「来る」

「なぜ断言できるのですか」

「敵が来なければ、こちらは勝つ。来れば、こちらは負ける。敵が有能なら、来る」

 その時だった。

 星図の赤い光点が、一斉に消えた。

 作戦室の誰もが、数秒だけ沈黙した。

 次の瞬間、回廊後方に、新たな赤い光点が現れる。

 通信士の声が裏返った。

「敵艦隊、後方航路に出現!」

 作戦室がざわめいた。

「馬鹿な」

 参謀長が叫んだ。

「敵主力は前方にいたはずだ!」

「偽装信号です」

 ミリアが青ざめた顔で言った。

「前方の敵艦影は、無人標識艦の反射信号です。本物の主力は、回廊外縁を迂回して後方へ――」

 言い終わる前に、星図がさらに赤く染まった。

 前方にも敵。

 後方にも敵。

 横へ逃げるには、重力潮汐が荒れすぎている。

 第九遠征艦隊は、巨大な罠の中にいた。

「全艦、前進!」

 リーデン侯爵が叫んだ。

「敵前方を突破する! 戦艦隊を中央に集結させろ!」

「閣下、燃料残量が――」

「黙れ! 帝国艦隊が背を向けるか!」

 命令が飛ぶ。

 艦隊が歪む。

 先頭の戦艦隊は前へ。補給不足の巡洋艦隊は遅れ、駆逐艦隊は命令系統を失い始める。

 撤退も突撃もできない、最悪の形だった。

「後方補給船団と通信途絶!」

「第二戦隊、敵砲撃圏内!」

「第六巡洋艦群、隊列を維持できません!」

「医療艦隊、前進できません!」

「敵艦隊、退路封鎖を開始!」

 混乱は音を持っていた。

 警告音。

 怒号。

 通信の断片。

 艦名を呼ぶ声。

 誰かの悲鳴。

 星図上で青い光点が一つ、また一つと消えていく。

 ミリアがレオンを見た。

 レオンは、星図の一点を指していた。

「三号ブイを開け」

「三号は通常通信網から外れています」

「だから生きている」

 ミリアは一瞬だけ目を見開き、すぐに操作へ移った。

「三号ブイ、接続確認。七号、十一号も反応あり。少佐、通信できます!」

「全補給船団へ送信。待機点を第二救助線へ変更。医療艦ラザレットは収容区画を開放。修理艦フォルクは損傷艦の曳航準備。補給母艦エルベは燃料配分を戦闘艦優先から退避可能艦優先へ変更」

「それは正式命令ではありません」

 ミリアの声が震えた。

「勧告だ」

「誰の名で」

「第七後方参謀局、レオン・クラウゼン少佐の名で」

 ミリアは唇を噛んだ。

 彼女の指は、送信キーの上で止まっていた。

 それを押せば、もう戻れない。

 正式命令ではない勧告で、艦隊の配置が変わる。

 責任は、彼女にも及ぶ。

 レオンは急かさなかった。

 選ぶのは彼女だった。

 数秒後、ミリアは送信した。

「送信完了」

「よし」

「少佐」

「何だ」

「私は、まだあなたが正しいのか分かりません」

「それでいい」

 レオンは星図から目を離さなかった。

「今は、生き残ってから考えろ」

 -

 戦場では、勝利より先に通信が死ぬ。

 誰がどこにいるのか分からなくなる。

 どの艦が生きていて、どの艦が沈んだのか分からなくなる。

 命令は遅れ、救助は迷い、艦隊はただの鉄の群れになる。

 レオンが最初に守ったのは、艦ではなかった。

 声だった。

通信巡洋艦アルゲン、推進機関損傷。敵追撃圏まで十二分」

 ミリアが報告する。

旗艦グローリアは?」

「護衛艦六隻が健在。損傷軽微。ただし侯爵閣下は、前進命令を継続中です」

「《アルゲン》を先に逃がす」

「しかし、旗艦にはリーデン侯爵が」

「侯爵が生きていても、命令が届かなければ艦隊は死ぬ」

 レオンは退避航路を引き直した。

「《アルゲン》には通信士が三十七名いる。彼らが生きていれば、まだ二万隻に声が届く」

「旗艦を見捨てるのですか」

「違う」

 レオンは、初めてミリアを見た。

「旗艦だけを救う戦場を、見捨てるんだ」

 ミリアは一瞬だけ目を閉じた。

 次に目を開けた時、その迷いは消えていた。

通信巡洋艦アルゲンへ退避勧告。駆逐艦ヴァイスに護衛を要請します」

「要請では弱い。生還可能率を添付しろ。旗艦護衛継続時、一八パーセント。《アルゲン》護衛時、六二パーセント。艦長は数字で動く」

「了解」

 星図上で、青い光点が二つ、隊列を離れた。

 それを見たリーデン侯爵が怒号を上げる。

「誰が退避を許した! 戻せ! 旗艦を守らせろ!」

 だが、もう遅い。

 レオンがずらしておいた通信中継は、旗艦の命令より早く《アルゲン》へ届いていた。

 そして《アルゲン》の通信網が、崩壊寸前の艦隊に声を戻した。

『第三駆逐隊、左舷重力帯へ退避せよ』

『損傷艦は救助線二号へ向かえ』

『燃料残量三割以下の艦は戦闘を停止。退避を優先』

医療艦ラザレット、収容可能』

『第八輸送群、民間徴用船を先に逃がせ。繰り返す。民間徴用船を先に逃がせ』

 混乱は消えない。

 死者も減らない。

 だが、艦隊は群れから隊列へ戻り始めた。

「第二戦艦隊より通信。前進継続の是非を問うています」

「戦艦隊には停止を勧告。主砲を敵前衛へ向けたまま後退。撃つな。撃てば反動で隊列が崩れる」

「撃つな、ですか?」

「敵は追撃させたい。こちらが撃てば、向こうも応射する。砲撃戦になれば、損傷艦を逃がす時間が消える」

「了解」

「第十二駆逐隊は?」

「隊列から孤立。敵の軽巡に追われています」

「救えない」

 ミリアの手が止まった。

「少佐」

「救えない」

 レオンは繰り返した。

「彼らを救うには、修理艦を重力荒域へ出す必要がある。そうすれば修理艦も沈む。修理艦が沈めば、中央の損傷艦二十三隻が死ぬ」

「ですが、第十二駆逐隊には――」

「分かっている」

 レオンの声は低かった。

「分かっているが、救えない」

 ミリアは唇を噛みしめた。

 戦場の計算は、時に残酷だ。

 何人を救うかを決めることは、何人を救わないかを決めることでもある。

 レオンは端末に指を走らせた。

「第十二駆逐隊へ通信。敵軽巡を三分引きつけた後、全救命艇を射出。救助座標を送れ。後続の徴用船が拾う」

「救命艇で、ですか。戦場の中を?」

「艦は救えない。人を救う」

 ミリアは大きく息を吸い、通信を送った。

 数分後、星図上で第十二駆逐隊の光点が消えた。

 だが、その周囲に小さな救難信号が散った。

 レオンはその数を数えた。

 救難信号、百七十六。

 拾えるのは、最大で百二十。

 五十六人は、おそらく戻らない。

 それでも、ゼロではない。

 -

 自由星系同盟軍旗艦オルトリーヴ

 若き提督アレクサンドル・ヴェガは、帝国艦隊の動きを見て眉をひそめていた。

 彼はまだ三十代半ばだったが、同盟軍ではすでに「静かな刃」と呼ばれている。華々しい演説も、無謀な突撃も好まない。ただ相手の失策を待ち、最も痛い場所を最も静かに刺す。

 グリムワルト回廊の罠も、彼の設計だった。

 帝国軍の貴族将官は、勝利の匂いに弱い。敵が逃げれば追う。補給線が伸びても追う。味方の制止を、臆病と呼ぶ。

 だから、逃げて見せた。

 道を空けた。

 勝てると思わせた。

 そして、退路を閉じた。

 作戦は成功している。

 そのはずだった。

「妙だな」

 ヴェガは言った。

 副官が尋ねる。

「何がでしょうか」

「崩れ方が違う」

 ヴェガは星図を拡大した。

「リーデン侯爵の艦隊なら、旗艦を中心に固まる。貴族の艦隊はいつもそうだ。司令官を守ろうとして、全体が死ぬ」

「ですが、敵は分散して退避しています」

「正確には、捨てる艦と救う艦を選んでいる」

 ヴェガは口元に薄い笑みを浮かべた。

「嫌な相手だ」

「リーデン侯爵では?」

「違う。あの男にこの撤退はできない」

 星図上で、帝国の医療艦が負傷者を吸い上げている。修理艦が損傷巡洋艦を曳航している。補給船団は戦闘ではなく救助のために動いている。

 最初から、負ける準備をしていなければできない動きだった。

「帝国軍に一人だけ、こちらの罠を見ていた者がいる」

 ヴェガは静かに言った。

「追撃を強めますか」

「いや」

「なぜです」

「強めれば、こちらも無理をする。敵の撤退を設計している者は、それを待っているかもしれない」

「この機に殲滅すべきでは」

「殲滅は美しい言葉だが、戦場ではたいてい高くつく」

 ヴェガは手元の端末を操作した。

「追撃は第三線まで。重力荒域には入るな。帝国軍の救助船団は撃つな」

 副官が驚いた顔をした。

「撃たないのですか」

「撃てば、次から帝国軍はこちらの救助船を撃つ。戦争をただの虐殺に変える気はない」

「しかし、敵兵です」

「今日の敵兵は、明日の捕虜交換の材料だ。死体は交渉しない」

 ヴェガは星図の一点を見つめた。

 逃げていく帝国艦隊の中に、見えない相手がいる。

 勝利に酔わず、敗北に溺れず、ただ死者を減らすために動く者。

「名前を調べろ」

「誰のです」

「この撤退を組んでいる者だ」

 -

 帝国第九遠征艦隊は敗れた。

 戦艦四十二隻を失い、巡洋艦百八十隻が大破し、駆逐艦隊の三割が帰還しなかった。

 リーデン侯爵が夢見た勝報は、帝都に届かなかった。

 だが、全滅もしなかった。

 本来なら、グリムワルト回廊で三万人以上が死ぬはずだった。

 実際の戦死者は六千四百二十一名。

 行方不明者は二千三百九十。

 重傷者は八千を超えた。

 重い数字だった。

 決して勝利ではなかった。

 だが、二万四千人以上が生きて帰った。

 帰還した艦隊の格納庫では、負傷兵たちが床に横たわっていた。医療班が走り回り、酸素マスクの音と、遠くの泣き声が混ざっている。

 焼けた軍服の匂い。

 血と消毒液の匂い。

 損傷した義手の金属音。

 誰かが名前を呼んでいる。

 返事はない。

 レオンはその中を歩いていた。

 称賛を受けるためではない。

 人数を確認するためだった。

 生還者。重傷者。行方不明者。艦別損耗。救助遅延。通信断絶時間。

 負け戦は、終わってからが彼の仕事だった。

 死者数を確定しなければ、次の戦場で同じ死に方をする者が出る。

 だから、数える。

 どれほど嫌われても、数える。

「クラウゼン少佐」

 声をかけたのは、若い駆逐艦長だった。

 片腕を吊っている。額には包帯。だが、立っていた。

駆逐艦ヴァイス艦長、ユリウス・ハルトマン大尉です」

「《アルゲン》を護衛した艦か」

「はい」

「よく生きて戻った」

 ハルトマンは一瞬、言葉に詰まった。

 そして、深く頭を下げた。

「少佐の退避勧告がなければ、我々は旗艦の周囲で沈んでいました」

「勧告を選んだのは君だ」

「いいえ」

 ハルトマンは顔を上げた。

「誰かが、逃げていいと言ってくれなければ、私は部下を死なせていました」

 レオンは黙った。

 その言葉は、礼よりも重かった。

 ハルトマンの背後で、若い兵士が泣いていた。

 彼は救助艇に乗れたらしい。だが、隣に座っていた仲間は途中で息を引き取ったのだろう。膝の上には、血で汚れた認識票が一つ握られている。

 勝利の物語では、そういう兵士の名前は残らない。

 敗北の記録には残る。

 レオンは端末に、その区画の負傷者数を入力した。

「少佐」

 ハルトマンが言った。

「あなたは、戦っていないのに」

「そうだな」

「誰よりも、戦場を見ていました」

 レオンは答えなかった。

 答えれば、何かが崩れそうだった。

 -

 軍法会議の準備は、帰還から三時間後には始まっていた。

 容疑は独断専行、指揮系統の混乱、司令官命令違反、敗北主義的扇動。

 リーデン侯爵は、負け戦の責任を必要としていた。

 そして敗戦処理官ほど、責任を押しつけやすい者はいなかった。

「君は自分が英雄だとでも思っているのかね」

 臨時査問室で、リーデン侯爵は言った。

 顔色は悪い。だが、貴族らしい尊大さだけは失っていなかった。

 彼の旗艦は生還した。

 護衛艦を六隻失ったが、侯爵自身は無傷だった。

 その事実が、彼の怒りをかえって大きくしていた。

 生き残った以上、敗北の責任を誰かに移さなければならない。

「いいえ」

 レオンは答えた。

「ではなぜ、私の命令を無視した」

「命令が艦隊を救わないと判断したからです」

「貴様!」

 侯爵が机を叩いた。

「私は帝国貴族だぞ。陛下より艦隊を預かった司令官だ。その私の命令より、自分の判断が上だと言うのか」

「戦場では、爵位より通信の方が速く届きます」

 侯爵の顔が歪んだ。

「君は処罰される。二度と軍服を着られると思うな」

「処罰は監察局の判断です」

「その監察局へ、私が報告するのだ」

「報告は事実に基づくべきです」

「事実だと?」

 リーデン侯爵は笑った。

「事実とは、誰が記録するかで決まる。君はまだ若いな、クラウゼン少佐。戦場では勝った者が歴史を書く。宮廷では、生き残った貴族が報告書を書くのだ」

「では、今回はどちらでもありません」

「何?」

「敗戦です。書くべきは、死者の数です」

 侯爵が立ち上がりかけた、その時。

 査問室の扉が開いた。

 入ってきたのはミリア中尉だった。

 その後ろには、ハルトマン大尉をはじめ、数名の艦長が並んでいた。

「何の真似だ」

 リーデン侯爵が睨む。

 ミリアは敬礼した。

「査問記録に、通信ログおよび生還艦長の証言を提出します」

「許可していない」

「軍務省監察局の受理印があります」

 侯爵の動きが止まった。

 ミリアは端末を差し出した。

医療艦ラザレット修理艦フォルク通信巡洋艦アルゲン駆逐艦ヴァイスより証言が届いています。いずれも、クラウゼン少佐の事前勧告がなければ生還不能であったと」

「小娘が、誰の許可で」

「通信参謀として、通信ログの保全義務を果たしました」

 ミリアの声は震えていなかった。

「また、旗艦グローリアより発信された前進命令が、補給線の限界を超過した後も継続されていた記録も添付済みです」

 査問室の空気が変わった。

 リーデン侯爵の顔から血の気が引く。

「貴様……」

 ハルトマンが前に出た。

「私の艦は、少佐の勧告で《アルゲン》を護衛しました。結果、通信網が維持され、第三駆逐隊の生存率は大きく上がりました」

「若造が知った口を」

「はい。私は若造です」

 ハルトマンはまっすぐに言った。

「ですが、部下の名前は知っています。誰が生きて、誰が死んだかも知っています。少佐の勧告がなければ、死者名簿はもっと長くなっていました」

 査問室は静まり返った。

 リーデン侯爵は歯を食いしばった。

 レオンは何も言わなかった。

 自分を擁護する言葉ほど、敗戦処理官に似合わないものはない。

 -

 処分は下らなかった。

 正確には、下せなかった。

 第九艦隊の敗北は隠しようがなかったが、同時に、壊滅を免れた理由も隠しきれなかった。

 リーデン侯爵は療養名目で帝都へ戻された。

 参謀長は配置換え。

 公式発表では、グリムワルト回廊の戦闘は「敵の奇襲により甚大な損害を受けたが、第九遠征艦隊は秩序ある後退に成功」とされた。

 そこに、レオン・クラウゼンの名はなかった。

 戦死者の数も、正確には発表されなかった。

 ただ「多数」とだけ記された。

 勝利の記録は華やかだ。

 敗北の記録は曖昧だ。

 だからこそ、死者は二度消える。

 戦場で命を失い、報告書で名前を失う。

 レオン・クラウゼン少佐は、昇進しなかった。

 表彰もなかった。

 ただ、軍務省から一通の辞令が届いた。

 差出人は、第七後方参謀局局長。

 内容は短かった。

『クラウゼン少佐を、北方辺境戦域、カレリア要塞群へ派遣する』

 ミリアはその辞令を見て、眉をひそめた。

「カレリア要塞群……あそこは、補給が途絶しかけている前線です」

「知っている」

「また、負け戦ですか」

「おそらくな」

「少佐は腹が立たないのですか。あれだけのことをして、昇進も表彰もなく、次の危険地帯へ送られるなんて」

 レオンは窓の外を見た。

 修理中の艦隊が、星明かりの下で沈黙している。

 砲塔は焼け、装甲は剥がれ、艦腹には応急修理の白い継ぎ目が走っていた。

 それでも、生きて戻った艦だ。

「勝ち戦には、私より向いた人間がいる」

「では、負け戦には?」

「人が死ぬ」

 レオンは辞令を閉じた。

「なら、誰かが行く必要がある」

 ミリアはしばらく黙っていた。

 やがて、背筋を伸ばした。

「通信参謀、ミリア・エーレンベルク中尉。カレリア要塞群への同行を申請します」

「許可した覚えはない」

「申請です」

「却下されるかもしれない」

「その場合は、通信網の再整備に関する意見書を三十枚添付します」

 レオンは初めて、わずかに口元を動かした。

「嫌がらせの才能があるな」

「少佐ほどではありません」

 その時、端末に新しい資料が届いた。

 カレリア要塞群の損耗予測。

 燃料残量。

 食糧備蓄。

 民間避難民数。

 敵艦隊の包囲進捗。

 そして、最悪の場合の死亡推定。

 赤い数字が、画面を埋めていた。

 ミリアが息を呑む。

「これは……」

「まだ間に合う」

 レオンは静かに言った。

「数字が赤い間は、まだ人間が生きている」

 彼は端末を閉じ、歩き出した。

 勝利の歓声はない。

 英雄の凱旋もない。

 ただ、次の負け戦が待っている。

 レオン・クラウゼンはため息をつき、赤字で染まった損耗予測表を胸元にしまった。

 次の戦場にも、まだ死ぬ必要のない兵士たちがいた。


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