広がる地図
レオンは、机の上の報告書を一枚めくった。
北方戦線後方司令部の執務室に移って、三日が経っていた。机は一回り大きくなり、戸棚も書類整理用の棚も一回り増えた。だが、増えたのは机の大きさだけではなかった。書類の量は、机の広さに比例して増えていた。
窓外には、北方の星があった。
以前の司令施設にいた時より、星の位置がわずかに違って見えた。場所が変わったのだから、当然だ。レオンは、その違いを確認しただけで、それ以上は考えなかった。
青の縁の少し向こうで、双方の艦隊が引いた、あの後。季節は一度回っていた。
雪線群以南は、表面上は静かだった。だが、その静かさは、嵐の後の浜のような静かさだった。波は、引いた後で、また満ちる。
レオンは、引き出しを浅く開けた。
五枚の紙が、そこにあった。
損耗予測表。子供の字で書かれた古い手紙。旧式救難ビーコンの内部配線図と、電源装置の構造図。中立通信回線越しの、敵将との対話の記録。そして、ゼッケンドルフ大将の直筆短信。
五枚。
増えていない。
レオンは、引き出しを閉めた。
-
扉が、二度、叩かれた。
「入る」
マティアス・グライフ大佐が入ってきた。冷めたコーヒーを片手に、もう片方の手には書類の束。軍服はよれ、襟元の階級章だけが妙に磨かれている。これまでと、変わらない姿だった。
「広くなったな」
グライフは執務室を見回した。
「机は」
「机だけだ。お前の方は、変わらん」
レオンは、応えなかった。
グライフは、書類の束を机に置いた。
「外務省からだ。中央連合の観察団が、北方の動向に関心を示しているそうだ」
「中央が」
レオンは、書類の一枚目を引き寄せた。観察団の編成。指揮官の名、随員の数、艦の種別。二枚目を引き寄せた。観測予定の宙域。雪線群以南、青の縁の周辺、それから氷晶宙域の北縁まで。三枚目をめくった。白紙だった。四枚目、五枚目も、白紙だった。
「報告書として、白紙が三枚」
「向こうも、見せる気がないんだろう」
グライフは、コーヒーを一口飲んだ。冷めていた。
「中央は、関心は示す。だが、何をするかは書かない。書類だけで、足跡を残さない」
レオンは、白紙の三枚を、書類の束の下に戻した。
「具体的には」
「何もない。関心を示している、というだけだ」
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「もう一つある」
グライフは、別の封筒を出した。外務省、軍務省、宮内省の三省連名の封蝋。
レオンは、封蝋を確認してから、開いた。
中の書類は、二枚だった。
一枚目は、正式辞令。帝国軍務省北方戦線撤収・補給再編特別監察官代理の権限拡大に関する通達。北方戦線全域の撤収統括。艦隊運用権限の拡大。民間船団への要請権限の強化。ゼッケンドルフ艦隊との連携枠。
二枚目には、変わらないことが書かれていた。軍務委員会・貴族院の決定への従属。補給線への介入権限は監察局経由。民間船団への直接命令は不可、要請と勧告まで。階級は少佐のまま。
「権限範囲を確認します」
レオンは、書類を二枚並べて読んだ。新しいことと、変わらないことの境目を、線で引くように確認した。
「権限の範囲は広くなった」
グライフが言った。
「だが、責任の範囲はもっと広い」
「不均衡ですね」
「皇女殿下らしい」
封蝋の中に、もう一枚、薄い紙が入っていた。
アレシアの直筆だった。
短い、一行だけの文。
「北方の地図と名簿を、合わせてください」
レオンは、その紙を、二枚の辞令と分けて、机の端に置いた。すぐにしまうわけではない。だが、机の上の他の書類と一緒には、置かなかった。
アレシアの字は、丁寧だった。書く速度を、わざと遅くした者の丁寧さだった。皇女は、この一行を書くために、机の前で、一度、息を整えたのだろう。
レオンは、紙の端を、指で軽く整えた。
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通信統制室に下りた。
ミリア・エーレンベルク中尉が、観測網の最新を整理していた。軍服の襟元は規律通りに整い、髪は結い上げられている。観測卓の周りには、北方全域の星図が薄く投影されていた。
「観測網は、北方全域に展開しました」
ミリアの応答は、淡々としていた。
「同盟軍主力の位置は」
「《オルトリーヴ》は、あの読み合いの後の位置から、ほとんど動いていません」
「予想内です」
「動きの兆候は」
「前線寄りで、停止しています。前衛艦の数も、変わっていません。指揮系統の通信は、観測網が拾える範囲では、静かです」
「静か、ですか」
ミリアは、観測卓の数値を一度確認した。
「静か、というより、待っている、という方が近いかもしれません」
「何を」
「分かりません」
通信回線が開いた。《ヴァイス》のハルトマン大尉。
「ご無沙汰しております、少佐」
「ハルトマン大尉。《ヴァイス》の整備は」
「上がっています。砲塔の更新も、済みました」
「左腕は」
短い間。
「夜には、まだ痺れます。日中は、変わりません」
「了解しました」
「次の任務、お知らせください」
「準備中です」
通信は、そこで切れた。
ミリアが、観測卓のもう一つの数値を読み上げた。
「観測網は、北方全域に届きます」
レオンは、星図の一点に目をやった。
「届きますか」
「届きます」
-
執務室に戻ると、グライフがまだいた。書類の束に、また別の一枚が加わっていた。
「貴族院から、聴聞の予告通知が来ている」
「ヘルダー大佐ですか」
「起案中だ。期日は来月、具体的な日取りは追って」
「件名は」
「『広くなった権限の、運用の妥当性』」
「便利な言葉ですね」
「伯爵が好む言い回しだ」
グライフは、コーヒーを置いた。
「伯爵は、お前の権限を、お前の縄にしようとしている」
「文書で答えます」
「お前らしい」
短い間。
「だが、今回は、文書だけでは足りないかもしれない」
「と、いうと」
「分からん。だが、伯爵は、前と同じ手は使わない」
レオンは、白紙の三枚を、もう一度思い出した。書類だけで、足跡を残さない、中央連合の触れ方。書類で何でも書く、伯爵の触れ方。やり方は違うが、どちらも、足跡を隠すという点では似ていた。
「準備します」
「何の準備だ」
「文書の」
「お前らしい」
グライフは、コーヒーを持ち直した。
「もう一つ、伝えておく。お前の聴聞は、捕虜交換の動きが片付いてからだそうだ。外務省側で、ヘリオス七の枠組みが進んでいる」
「ザールクヴェルの二十名と、サリカのハイデン中佐」
「そうだ。期日は、聴聞より前になる」
「分かりました」
グライフは、扉に向かいかけて、立ち止まった。
「広くなったな」
レオンは、応えなかった。
グライフは、それ以上は何も言わずに、扉を閉めた。
-
日が暮れた頃、扉が一度、軽く叩かれた。
「入ってください」
ミリアが入ってきた。観測卓の夜間更新を済ませた後の、薄い書類束を抱えている。
「観測卓、夜間更新を完了しました」
「ご苦労様です」
ミリアは、書類を机の端に置いた。だが、すぐには退室しなかった。
レオンは、書類から目を上げた。ミリアの軍服の襟元は、日中と変わらず、規律通りに整っていた。だが、襟元の整い方に、いつもとは別のものが、わずかに混ざっていた。何かを言うつもりで来た者の、整え方だった。
「もう一つ、お知らせがあります」
「お聞きします」
「私の任地、変わりません。これまで通り、少佐の通信参謀として」
「ご報告ですか」
「ご報告です。先日、中央方面への異動の打診がありました。お断りしました」
短い間。
「なぜ」
「観測網が、まだ、北方全域に届く準備の途中です」
「網は届いています」
「網は、届いています」
短い間。
「ですが、網と、観測者は、別です」
「観測者は」
「ここにいます」
レオンは、机の上の書類を一度、揃え直した。観測卓の書類束も、机の端から少しだけ引き寄せた。
「分かりました」
「お申し付けは、ありますか」
「ありません」
「では、夜間更新の続きを」
「お願いします」
ミリアは退室した。
扉が閉まった後、レオンは、観測卓の書類束を、机の端に戻した。すぐにはしまわなかった。観測卓の書類束は、これまでも何度も机の端に置かれてきた。だが、今夜の書類束だけは、置かれ方がわずかに違って見えた。違って見えた、というだけで、置かれた書類は、いつもと同じ書類だった。
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通信が入った。ミリアからだった。
「少佐。北方戦線南端の補給拠点群から、退避要請です」
「内容は」
「軍人と民間人、合わせて約一万二千名。同盟軍前衛が、当該宙域へ接近中。予測接触まで七十時間です」
「規模が、これまでと違いますね」
「違います」
レオンは、机の上の書類を一度、片付けた。
「整えます」
「コア艦に通達します」
「《リベルテ》にも、声を掛けてください」
「ノア・カザン船長は、現在、修理ドック明けです。出られると」
「お願いします」
通信が切れた。
レオンは、机の上に新しい通達書類を広げた。
軍人四千、民間人八千。補給拠点群、四か所。同盟軍接触まで七十時間。
これまでの中規模任務の、二倍に近い数字だった。それでも、書類の書式は、これまでと同じだった。事務的な記述、淡々と並ぶ数字、退避先の候補施設の一覧。書類は、規模が変わっても、書式までは変えなかった。
レオンは引き出しを開け、五枚の紙を、軽く整え直した。アレシアの一行を、その上に置いた。
六枚になった。
引き出しを閉めた。
窓外に、北方の星があった。
星の位置は、以前の司令施設にいた時から、わずかに違って見えた。
地図は、広くなった。
広くなった分、重くなった。




