読み合いの果て
戦闘開始から、六時間が過ぎていた。
雪線群以南、青の縁の少し向こうの宙域。
双方の艦影は、互いに射程内で、停止していた。
通信巡洋艦の指揮所では、レオン・クラウゼン少佐が、星図の前から動かなかった。
星図の上に並ぶ艦影の数。
第七支援隊。軍艦七、民間船一。うち、《カラヴェル》大破、《エルベン》機関停止、《イーゼ》機関停止、《リベルテ》外殻損傷。可動の艦は《アルゲン》《ヴァイス》《エルベ》《ヴェルダ》の四隻。
ゼッケンドルフ艦隊。戦艦一、巡洋艦四、駆逐艦十二、補給艦二。うち、駆逐艦三隻大破、巡洋艦一隻被弾。
同盟軍中規模艦隊。前衛十二、本隊十五、後衛八。確認されている損害は、駆逐艦四隻沈没、巡洋艦一隻機関停止。それ以外の損害は、観測上は確認できなかった。
双方とも、これ以上、前進すれば、互いに失う。
双方とも、ここから引けば、こちらの背中が見える。
ミリア・エーレンベルク中尉の観測網が、一秒ごとに更新を続けていた。だが、その更新の内容は、変わらなかった。艦影の位置、損害、被弾、機動。どの数値も、停止していた。
ハルトマン大尉の《ヴァイス》から、短い通信が入った。
「《ヴァイス》、配置維持。応射準備のまま」
「了解」
レオンの応答は、いつもの通り平坦だった。
彼は星図の前で、襟を一度、指で整えた。
-
中立通信回線が、向こう側から開いた。
ミリアが応答した。
「同盟軍側、通信要求」
「開けてください」
通信卓のスピーカーから、ヴェガ提督の声が、流れ始めた。整っている。だが、その整い方の下に、長い時間、戦況を読み続けてきた重さが、薄く沈んでいた。
「クラウゼン少佐」
「ヴェガ提督」
短い間。
「私たちは、互いに、最後まで読んだ」
レオンは、星図の前で姿勢を変えなかった。
「同感です」
「ここで終わりにしよう」
ミリアの観測網が、その通信を、ログに記録した。
「お互いに、終わりにできる根拠を持っていますか」
レオンの問いに、ヴェガは短く答えた。
「持っている。だが、上司の判断が必要だ」
「私もです」
短い沈黙。
「君の側の上司は」
「皇女殿下です」
ヴェガの応答は、間を置いた。
その間の長さは、ミリアの観測網の感度では、計測できない種類のものだった。
「分かった」
レオンは、もう一度、訊いた。
「ヴェガ提督の上司は」
「同盟軍最高評議会。だが、私の艦隊運用の判断は、私が持っている」
「了解しました」
「皇女殿下が動くなら、私は、それに合わせる」
レオンは、短い間を置いた。
「皇女殿下に、繋ぎます」
「待つ」
通信は、開いたまま、保留に変わった。
-
レオンは、ミリアの方を見た。
「クラリッサ参事官に、繋いでください」
「了解しました」
ミリアが別の通信卓を開いた。
外務省戦時調停局、クラリッサ・フォン・ヴァイト参事官の声が、すぐに返ってきた。涼しく、いつもの通り、視線が見える気がする声だった。
「クラウゼン少佐」
「皇女殿下に、繋ぎたい」
「目的は」
「戦線の終結。双方の合意の確認」
短い間。
「分かりました。皇女殿下は、すでに状況を把握しています」
「は」
「私が、報告を続けています」
「ありがとうございます」
「皇女殿下、直接の通信を希望されています」
「お繋ぎください」
通信が切り替わった。
-
別チャンネルが、開いた。
声は若かった。だが、若さの下に、落ち着きが乗っていた。
「クラウゼン少佐」
「皇女殿下」
短い間。
「ゼッケンドルフ大将は、お力添えになりましたか」
「結構なお力添えでした。ありがとうございます」
「彼は、私が動かしました。理由は、お分かりかと思います」
レオンは、星図の前から、姿勢を変えなかった。
「ご明察、というには、まだ早いかと思います」
「結構です。今は、それでいい」
短い沈黙。
「ヴェガ提督からの通信、確認しました。終わりにする、と」
「は」
「私の側でも、終わりにします。聴聞は、保留にします」
「伯爵閣下は、お認めになりますか」
「認めなくても、私が押します」
「了解しました」
アレシアの声には、感情の色は薄かった。だが、その薄さの下に、何かが、薄く沈んでいた。
「ヴェガ提督と、直接、話をしてもよろしいですか」
「中立通信回線、開いています」
「お繋ぎください」
ミリアが通信を繋いだ。
-
中立通信回線が、皇女アレシアの側から、開いた。
ヴェガの応答は、間を置いた。間の長さは、レオンが彼と話した時より、わずかに長かった。
「アレシア皇女」
「ヴェガ提督」
短い沈黙。
ヴェガの声が、もう一度、開いた。
「お久しぶりです」
「お久しぶりです」
ミリアは、通信卓の前で、その短いやり取りを聞いていた。彼女の観測網は、ヴェガとアレシアの艦影が、いつ、どこで、互いに対峙したことがあるのかを、記録の中に持っていなかった。記録の中にない関係が、その短い挨拶の中で、確かに、両者の間に流れていた。
ミリアは、応答欄には何も書かなかった。
アレシアが、続けた。
「あなたが終わりにする、と提案したと聞きました」
「届きましたか」
「届きました」
「私も、同じ提案を、私の側に出します」
「結構です」
短い沈黙。
「あなたの艦隊は、引いていただけますか」
「引きます」
「ありがとうございます」
短い間。
「皇女殿下」
「は」
「クラウゼン少佐は、いい艦隊指揮官です」
「存じております」
「次は、もう少し、別の場所で会えるかもしれません」
アレシアの応答は、間を置いた。
「お互いに、長生きしましょう」
「結構です」
通信が切れた。
ミリアは、応答欄に短いログを書いた。
── 通信終了。皇女殿下と提督、合意確認。
-
双方の艦隊が、戦域から離脱を始めた。
ヴェガの旗艦が、中央から後退する。同盟軍中規模艦隊の本隊が、それに続いた。前衛も、ゆっくりと距離を取り始めた。
第七支援隊と、ゼッケンドルフ艦隊も、同様に離脱した。
戦場には、双方の機関停止艦と、被害を受けた艦影だけが残った。
機関停止艦の回収は、双方が中立的な合意のもとで行うことになった。クラリッサ・フォン・ヴァイト参事官が、外務省戦時調停局の手続きで、互いの回収艦の進入経路を整えた。
ゼッケンドルフ大将からの並行通信が、《アルゲン》指揮所に届いた。
「クラウゼン少佐、終わりだ」
「ありがとうございました」
「私の方こそ、結構なお呼び立てをありがとう」
「皇女殿下のお力添え、感謝します」
ゼッケンドルフは、短く間を置いた。
「あの方は、若いが、聡明だ。私の老兵としては、結構なお仕えだった」
「は」
「次に呼ばれた時、私はまだ動けるか分からない。だが、呼ばれれば、出る」
「お願いします」
通信が切れた。
星図の上で、ゼッケンドルフ艦隊が、北方戦線の別の任地の方向に、ゆっくりと進路を変えた。
第七支援隊は、帝都郊外の方向へ、帰投航路に乗った。
-
帝都郊外、第十七司令施設。
帰投の翌朝、レオンは執務机の前にいた。
ミリアが報告書草案を提出欄に移したところだった。タイトルは「青縁外、双方艦隊接触」と書かれている。
末尾の追記。
── 双方撤退。決着なし。
── 第七支援隊、敵艦撃沈、確認分、四隻。ゼッケンドルフ艦隊、確認分、三隻。
── 第七支援隊損害、戦死十二、軽傷四十二、機関停止艦二、大破艦一。
── ゼッケンドルフ艦隊損害、戦死六十一、大破艦三。
── 同盟軍損害、不明。
通信卓が、グライフ大佐からの内線を告げた。
「聴聞は、皇女殿下のご裁定で、保留になった」
「了解しました」
「伯爵は、激しく反発した。だが、皇女殿下は、押し切った」
「ご明察です」
「伯爵は、次の手を準備するだろう。だが、いまは、休めるだけ休め」
「ありがとうございます」
「お前の方の傷は」
「ありません」
「いつもの嘘か」
「他に答え方がありません」
「いつもの、か」
通信の向こうで、グライフは短く息を吐いた。
通信が切れた。
レオンは、執務机の引き出しを、開けた。
中には、五枚の紙が、いつもの順番に折り畳まれていた。
古い損耗予測表。
子供の字で書かれた手紙。
ヤン・コルベが作った旧式救難ビーコンの内部配線図と、電源装置の構造図の写し。
ヴェガとの対話の記録の写し。
そして、五枚目。
ゼッケンドルフ大将の直筆だった。
短い文面が、整った字で書かれていた。
── 呼ばれたら、出る。クラウゼン少佐の判断に、私は同意する。
日付は、数日前の朝、レオンが朝早く司令施設を出ていった日の前夜だった。
レオンは、五枚目を、もう一度、指で確認した。それから、引き出しを閉めた。
ミリアは、通信卓の前から、その動作を、視界の端で見た。
彼女は、何も問わなかった。
-
夕方、皇女アレシアからの通信が、もう一度入った。
「クラウゼン少佐」
「皇女殿下」
「次は、もっと大きな戦場が、あなたを呼ぶでしょう」
「呼ばれた方から、行きます」
「北方戦線全域の撤退、これから本格化します」
「了解しました」
「あなたの仕事は、増えます」
「責任の範囲は、変わりますか」
「変わります。詳細は、後日」
「不均衡ですね」
「帝国ですから」
通信が切れた。
レオンは、執務机の端末の前で、星図を開いた。
北方戦線。
青の領域は、いまも、そこにあった。だが、その縁は、徐々に内側に下がってきていた。
ミリアの分散観測網が、星図の上の赤い点を、一つずつ確認していた。応答のあるもの、ないもの。それぞれの位置、それぞれの座標。
ミリアの声が、いつもの平坦さで、彼女自身の作業の確認のように、流れた。
「次は」
「まだ、応答があるところから」
レオンは、それだけ言って、星図を閉じた。
窓の外、帝都郊外の星海の暗がりは、変わらなかった。
北方戦線全域の、もっと大きな撤退戦が、彼を待っていた。
呼ばれた方から、行く。応答のあるところから。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第二部「名のない戦場たち」はいかがでしたでしょうか。
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