見えない動き
ミリア・エーレンベルク中尉は、いつもより早く通信卓の前に着いていた。
第十七司令施設の早朝。執務区画の照明はまだ半分しか点いていない。彼女の端末の表示だけが、分散観測網の更新ログを薄く流していた。
北方戦域、青の領域の縁。
星図の中の、雪線群以南。
赤い艦影が、いくつもの方向から、ゆっくりと集まっていた。複数方面からの集結。一方面ではなく、二方面でもなく、三方面以上から。ミリアは、それぞれの艦影の進行ベクトルを、観測網の中の補助ブイの位置と照合した。
いずれの艦影も、ヴェガ提督の旗艦の周辺に、緩やかな弧を描いて近づいていた。
ミリアが応答欄に「了解」とだけ書いた、その時、執務区画の通路から、足音が聞こえた。
レオン・クラウゼン少佐だった。
いつもより、早かった。
彼は通信卓の前に短く立ち寄って、ミリアの端末の表示を、視線の角度で確認した。
「ご苦労」
「は」
「私は、少し外に出ます」
「出先は」
「未定です」
短い間。
「戻りは」
「夜になります」
「了解しました」
レオンは執務机の方には寄らず、そのまま通路の方へ歩いていった。軍服の襟は、いつもの通り、整っていた。だが、いつもとはわずかに違う角度に整っていた。整える時に、片手で襟の左側を一度、押さえ直していた。
ミリアは、その動作を、視界の端で見ていた。
通路の足音が遠ざかってから、彼女は端末の応答欄に、自分のメモを短く書き加えた。
── 〇六二〇、少佐、出。出先未定。戻り、夜。
ミリアは端末を閉じて、観測網の更新に戻った。
星図の上で、赤い艦影は、まだ集まっていた。
-
午前、マティアス・グライフ大佐からの内線が入った。
声には、いつもの皮肉が、いつもより薄かった。
「ヘルダーが新しい聴聞要請を作った」
「内容は」
「《ザクセン》の放棄。氷晶北側越権。青縁外の救難応答。それら全てをまとめて、処分検討、と書いてある」
「期日は」
「二週間後」
ミリアは応答欄を開いた。
「少佐は、いま、出ています」
「分かっている」
「戻り次第、お伝えします」
「いつ戻る」
「夜です」
短い間。
「出先は」
「未定、と聞いています」
通信の向こうで、グライフは紙の音を立てた。それから、少し声を落とした。
「中尉」
「は」
「お前の方は、いつもと違うことを察しているか」
ミリアは、端末の表示を見ていた。応答欄の自分のメモが、まだそこにあった。
「は」
「言うな」
「は」
「気にするな、ということでもない。だが、今は、お前が察していることを口にしない方がいい」
「了解しました」
「お前の任務は、観測網だ」
「了解しました」
通信が切れる前に、グライフはひとこと付け加えた。
「中尉」
「は」
「お前の整え方は、いつから少佐に似てきた」
ミリアは、応答しなかった。
通信は、それで切れた。
ミリアは応答欄を閉じて、観測網の更新に戻った。
-
午後、ユーン所長からの並行通信が入った。
声は、いつもの不機嫌だった。
「複数方面からの集結が、確認できる」
「規模は」
「中規模艦隊として、三十から四十隻」
「ヴェガ提督の本隊の動きは」
「動かず。だが、周辺艦が、徐々に集まっている」
「中央への集結ですか」
「中央というよりは、扇形だ。広い面で押す姿勢に近い」
「予想は」
「十日以内に何かが起こる」
ユーンは短く咳ばらいをした。
「私の予想だ。当たらないこともある」
「観測者の予想は、当たらない方が多いと言われましたが」
「ああ。だが、今回は、当たる方に賭けてくれ」
「了解しました」
ミリアは、地図に複数の赤い点を表示した。三十数個の小さな点が、雪線群以南の宙域に、扇形に並んでいた。
通信が切れる前に、ユーンが言った。
「中尉」
「は」
「少佐は、どこに出ている」
「未定、と聞いています」
「結構」
通信が切れた。
ミリアは、端末の応答欄に、もう一行、メモを書き加えた。
── 一三一二、ユーン所長、集結確認。十日以内に動く予想。
-
午後の遅い時刻、外務省戦時調停局からの短信が入った。
クラリッサ・フォン・ヴァイト参事官の定型署名。文面は二行だけだった。
── 中立通信回線、六時から十二時まで、別目的での開通を確認しました。書類上は、敵側戦術評価のための情報収集。
── ご無事で。
ミリアは、その短信を、応答欄の自分のメモの下に並べた。
六時から十二時まで。
その時間、レオン・クラウゼン少佐は司令施設にいなかった。
彼が、どこに、何のために、誰と話をしたのかは、ミリアには知らされていなかった。中立通信回線という言葉だけが、外務省を介さない経路を経由していたことを示していた。軍用回線ではなく、貴族院の管理下にもない、外務省の戦時調停局が直接管理する細い通信線。
その線の向こうに、誰がいたのかは、書類上は「敵側戦術評価」だった。
ミリアは、それ以上は考えなかった。
応答欄を閉じて、観測網の更新に戻った。
-
夕方、レオンが司令施設に戻った。
軍服に、外気の冷たさが残っていた。彼は通信卓の前に短く立ち寄って、ミリアの端末の表示を、視線の角度で確認した。
「お帰りなさいませ」
「ありがとう」
レオンは、それ以上のやり取りをせず、執務机の方に歩いた。
ミリアは、その背中を、視界の端で見ていた。
軍服の襟の角度が、朝とほぼ同じだった。だが、内ポケットの紙の角度が、わずかに変わっていた。朝より、紙の角が、襟の縁にわずかに食い込む位置にずれていた。重さの違いか、枚数の違いか、ミリアには、断定できなかった。
ただ、襟の縁の食い込み方は、いつもと違った。
レオンは執務机に着いた。
彼は端末を開かず、まず内ポケットの紙を、一度、指で確認した。引き出しは開けなかった。確認だけして、手を離した。
ミリアは、視線を観測網に戻した。
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夜、聴聞要請の文書が、軍務省の内線で正式に届いた。
ミリアは、それを自分の端末で開いてから、レオンの執務机の端末に転送した。
「期日は、二週間後」
「処分検討、と明記されています」
「了解しました」
レオンは文書を一度、上から下まで読んだ。
「文書回答の準備を、グライフ大佐と並行で進めますか」
「進めてください」
「は」
短い間。
「ただし、文書だけでは、間に合わないかもしれません」
ミリアは応えなかった。
間に合わない、というレオンの言葉が、何を指しているのかは、応答欄に書く類の話ではなかった。
彼女は、自分の端末の応答欄を閉じて、観測網の更新を続けた。
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夜の遅い時刻、ユーン所長から追加の通信が入った。
「ヴェガ提督の本隊、僅かに前進」
「規模は」
「中規模艦隊として、ほぼ完成しつつある」
「予想は」
「五日以内に動く」
「五日」
「私の予想だ」
ミリアはその通信を、レオンに転送した。
「五日以内、と予想されています」
レオンは星図の方を見た。
「ハルトマン大尉に、出撃準備の通達を」
「了解しました」
「《ヴァイス》、《カラヴェル》、《イーゼ》、《エルベ》、《エルベン》、《ヴェルダ》。《リベルテ》は、ノアの裁量で」
「了解しました」
「準備期間は、四日」
「了解しました」
「いつ、というのは、ミリアの方で、観測網と並行で見てください」
「了解しました」
レオンは、それ以上は言わなかった。
ミリアは、通達の文面を整え始めた。
-
夜が深くなった頃、ミリアは執務区画に一人で残っていた。
レオンは、執務机の前で、何か別の書類を読んでいるらしかった。視界の端でしか確認できなかったが、彼の手は、引き出しの方には伸びていなかった。
ミリアの分散観測網の星図の上で、同盟軍中規模艦隊の集結が、ほぼ完成していた。赤い艦影が、雪線群以南の青の縁を、すでにわずかに超え始めていた。
彼女は、その星図を、レオンの執務机の端末にも転送した。
レオンは、星図を開いた。
彼の視線が、星図の上を、いつもよりわずかに長く動いた。
それから、彼は引き出しを、半分だけ開けた。
ミリアは、視線を観測網に戻した。だが、視界の端で、引き出しの中の紙が、四枚ではなく、五枚になっているのを、彼女は見た。
五枚目の紙の表書きまでは、見えなかった。
レオンは引き出しを、すぐに閉じた。
彼は窓の外を見た。窓の外は、夜の帝都郊外で、星海の暗がりだけがあった。
「動き始めます」
ミリアが言った。
「呼ばれた方から、行きます」
レオンが応えた。
彼の声は、平坦だった。だが、その平坦さの下に、四日後に動く艦隊の重さが、薄く沈んでいた。
ミリアは、星図の更新を続けた。
赤い艦影は、まだ、ゆっくりと動いていた。




