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銀河帝国の敗戦処理官、撤退命令だけで三万人を救う  作者: 鷹山
第二部 名のない戦場たち
36/53

見えない動き

 ミリア・エーレンベルク中尉は、いつもより早く通信卓の前に着いていた。

 第十七司令施設の早朝。執務区画の照明はまだ半分しか点いていない。彼女の端末の表示だけが、分散観測網の更新ログを薄く流していた。

 北方戦域、青の領域の縁。

 星図の中の、雪線群以南。

 赤い艦影が、いくつもの方向から、ゆっくりと集まっていた。複数方面からの集結。一方面ではなく、二方面でもなく、三方面以上から。ミリアは、それぞれの艦影の進行ベクトルを、観測網の中の補助ブイの位置と照合した。

 いずれの艦影も、ヴェガ提督の旗艦オルトリーヴの周辺に、緩やかな弧を描いて近づいていた。

 ミリアが応答欄に「了解」とだけ書いた、その時、執務区画の通路から、足音が聞こえた。

 レオン・クラウゼン少佐だった。

 いつもより、早かった。

 彼は通信卓の前に短く立ち寄って、ミリアの端末の表示を、視線の角度で確認した。

「ご苦労」

「は」

「私は、少し外に出ます」

「出先は」

「未定です」

 短い間。

「戻りは」

「夜になります」

「了解しました」

 レオンは執務机の方には寄らず、そのまま通路の方へ歩いていった。軍服の襟は、いつもの通り、整っていた。だが、いつもとはわずかに違う角度に整っていた。整える時に、片手で襟の左側を一度、押さえ直していた。

 ミリアは、その動作を、視界の端で見ていた。

 通路の足音が遠ざかってから、彼女は端末の応答欄に、自分のメモを短く書き加えた。

 ── 〇六二〇、少佐、出。出先未定。戻り、夜。

 ミリアは端末を閉じて、観測網の更新に戻った。

 星図の上で、赤い艦影は、まだ集まっていた。

     -

 午前、マティアス・グライフ大佐からの内線が入った。

 声には、いつもの皮肉が、いつもより薄かった。

「ヘルダーが新しい聴聞要請を作った」

「内容は」

「《ザクセン》の放棄。氷晶北側越権。青縁外の救難応答。それら全てをまとめて、処分検討、と書いてある」

「期日は」

「二週間後」

 ミリアは応答欄を開いた。

「少佐は、いま、出ています」

「分かっている」

「戻り次第、お伝えします」

「いつ戻る」

「夜です」

 短い間。

「出先は」

「未定、と聞いています」

 通信の向こうで、グライフは紙の音を立てた。それから、少し声を落とした。

「中尉」

「は」

「お前の方は、いつもと違うことを察しているか」

 ミリアは、端末の表示を見ていた。応答欄の自分のメモが、まだそこにあった。

「は」

「言うな」

「は」

「気にするな、ということでもない。だが、今は、お前が察していることを口にしない方がいい」

「了解しました」

「お前の任務は、観測網だ」

「了解しました」

 通信が切れる前に、グライフはひとこと付け加えた。

「中尉」

「は」

「お前の整え方は、いつから少佐に似てきた」

 ミリアは、応答しなかった。

 通信は、それで切れた。

 ミリアは応答欄を閉じて、観測網の更新に戻った。

     -

 午後、ユーン所長からの並行通信が入った。

 声は、いつもの不機嫌だった。

「複数方面からの集結が、確認できる」

「規模は」

「中規模艦隊として、三十から四十隻」

「ヴェガ提督の本隊の動きは」

「動かず。だが、周辺艦が、徐々に集まっている」

「中央への集結ですか」

「中央というよりは、扇形だ。広い面で押す姿勢に近い」

「予想は」

「十日以内に何かが起こる」

 ユーンは短く咳ばらいをした。

「私の予想だ。当たらないこともある」

「観測者の予想は、当たらない方が多いと言われましたが」

「ああ。だが、今回は、当たる方に賭けてくれ」

「了解しました」

 ミリアは、地図に複数の赤い点を表示した。三十数個の小さな点が、雪線群以南の宙域に、扇形に並んでいた。

 通信が切れる前に、ユーンが言った。

「中尉」

「は」

「少佐は、どこに出ている」

「未定、と聞いています」

「結構」

 通信が切れた。

 ミリアは、端末の応答欄に、もう一行、メモを書き加えた。

 ── 一三一二、ユーン所長、集結確認。十日以内に動く予想。

     -

 午後の遅い時刻、外務省戦時調停局からの短信が入った。

 クラリッサ・フォン・ヴァイト参事官の定型署名。文面は二行だけだった。

 ── 中立通信回線、六時から十二時まで、別目的での開通を確認しました。書類上は、敵側戦術評価のための情報収集。

 ── ご無事で。

 ミリアは、その短信を、応答欄の自分のメモの下に並べた。

 六時から十二時まで。

 その時間、レオン・クラウゼン少佐は司令施設にいなかった。

 彼が、どこに、何のために、誰と話をしたのかは、ミリアには知らされていなかった。中立通信回線という言葉だけが、外務省を介さない経路を経由していたことを示していた。軍用回線ではなく、貴族院の管理下にもない、外務省の戦時調停局が直接管理する細い通信線。

 その線の向こうに、誰がいたのかは、書類上は「敵側戦術評価」だった。

 ミリアは、それ以上は考えなかった。

 応答欄を閉じて、観測網の更新に戻った。

     -

 夕方、レオンが司令施設に戻った。

 軍服に、外気の冷たさが残っていた。彼は通信卓の前に短く立ち寄って、ミリアの端末の表示を、視線の角度で確認した。

「お帰りなさいませ」

「ありがとう」

 レオンは、それ以上のやり取りをせず、執務机の方に歩いた。

 ミリアは、その背中を、視界の端で見ていた。

 軍服の襟の角度が、朝とほぼ同じだった。だが、内ポケットの紙の角度が、わずかに変わっていた。朝より、紙の角が、襟の縁にわずかに食い込む位置にずれていた。重さの違いか、枚数の違いか、ミリアには、断定できなかった。

 ただ、襟の縁の食い込み方は、いつもと違った。

 レオンは執務机に着いた。

 彼は端末を開かず、まず内ポケットの紙を、一度、指で確認した。引き出しは開けなかった。確認だけして、手を離した。

 ミリアは、視線を観測網に戻した。

     -

 夜、聴聞要請の文書が、軍務省の内線で正式に届いた。

 ミリアは、それを自分の端末で開いてから、レオンの執務机の端末に転送した。

「期日は、二週間後」

「処分検討、と明記されています」

「了解しました」

 レオンは文書を一度、上から下まで読んだ。

「文書回答の準備を、グライフ大佐と並行で進めますか」

「進めてください」

「は」

 短い間。

「ただし、文書だけでは、間に合わないかもしれません」

 ミリアは応えなかった。

 間に合わない、というレオンの言葉が、何を指しているのかは、応答欄に書く類の話ではなかった。

 彼女は、自分の端末の応答欄を閉じて、観測網の更新を続けた。

     -

 夜の遅い時刻、ユーン所長から追加の通信が入った。

「ヴェガ提督の本隊、僅かに前進」

「規模は」

「中規模艦隊として、ほぼ完成しつつある」

「予想は」

「五日以内に動く」

「五日」

「私の予想だ」

 ミリアはその通信を、レオンに転送した。

「五日以内、と予想されています」

 レオンは星図の方を見た。

「ハルトマン大尉に、出撃準備の通達を」

「了解しました」

「《ヴァイス》、《カラヴェル》、《イーゼ》、《エルベ》、《エルベン》、《ヴェルダ》。《リベルテ》は、ノアの裁量で」

「了解しました」

「準備期間は、四日」

「了解しました」

「いつ、というのは、ミリアの方で、観測網と並行で見てください」

「了解しました」

 レオンは、それ以上は言わなかった。

 ミリアは、通達の文面を整え始めた。

     -

 夜が深くなった頃、ミリアは執務区画に一人で残っていた。

 レオンは、執務机の前で、何か別の書類を読んでいるらしかった。視界の端でしか確認できなかったが、彼の手は、引き出しの方には伸びていなかった。

 ミリアの分散観測網の星図の上で、同盟軍中規模艦隊の集結が、ほぼ完成していた。赤い艦影が、雪線群以南の青の縁を、すでにわずかに超え始めていた。

 彼女は、その星図を、レオンの執務机の端末にも転送した。

 レオンは、星図を開いた。

 彼の視線が、星図の上を、いつもよりわずかに長く動いた。

 それから、彼は引き出しを、半分だけ開けた。

 ミリアは、視線を観測網に戻した。だが、視界の端で、引き出しの中の紙が、四枚ではなく、五枚になっているのを、彼女は見た。

 五枚目の紙の表書きまでは、見えなかった。

 レオンは引き出しを、すぐに閉じた。

 彼は窓の外を見た。窓の外は、夜の帝都郊外で、星海の暗がりだけがあった。

「動き始めます」

 ミリアが言った。

「呼ばれた方から、行きます」

 レオンが応えた。

 彼の声は、平坦だった。だが、その平坦さの下に、四日後に動く艦隊の重さが、薄く沈んでいた。

 ミリアは、星図の更新を続けた。

 赤い艦影は、まだ、ゆっくりと動いていた。


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