動いた刃
中立通信回線が、三十分後に開いた。
クラリッサの確認応答が、ミリアの端末に届いた。
── 同盟軍側の応答、待ちです。
短い間。
ミリアの端末の表示が、一度、点滅した。
「同盟軍側、応答……来ました」
レオンは通信卓の前に立って、ヘッドセットを着けた。
短い沈黙の後、声が届いた。
穏やかで、年齢を感じない声だった。だが、その奥に、長い指揮の経験が薄く沈んでいる声だった。
アレクサンドル・ヴェガ提督。
「クラウゼン少佐。久しぶりだ」
「ヴェガ提督。お久しぶりです」
ヴェガが先に話した。
「君が、対話を要請してくるとは思わなかった」
「私もです」
短い沈黙。
「公開した救難信号は、罠だ」
ヴェガが言った。
「承知しているか」
「承知しています」
「それでも、応答するのか」
「応答します」
もう一度、短い沈黙。
ヴェガの声には、少しだけ、感情の色が乗った。理解できる、というニュアンスの色だった。
「私の指揮日誌に、君のことを書いた」
「は」
「『応答の側に立つ男だ』と」
「そうでしたか」
「もう一行、書いた。『世論が動けば、彼の特性は脆さに変わる』」
レオンは応えなかった。
通信卓の向こうで、ミリアが、別の表示を進めていた。囮部隊と同盟軍前衛の接触が始まっていた。
ヴェガは続けた。
「読まれていた、ということだ」
「ご明察です」
「読まれていただけではない。これから、書かれていることが利用される」
「利用される、というのは」
「世論だ」
ヴェガの声は、感情を一度、引いた。理性的な、ただの説明の声に戻っていた。
「君の国の貴族院は、君が応答するかどうかを聞いている。応答すれば、君は『敵の罠に飛び込む男』と書かれる。応答しなければ、『救難を見捨てる男』と書かれる。どちらでも、君の立場は弱くなる」
「ご明察です」
「君は、どちらを選んだ」
「私は、選んでいません」
短い沈黙。
ヴェガの声が、また少し動いた。今度は、軽い驚きの色だった。
「では、何を」
「順番を、組み直しました」
もう一度、沈黙。
通信の向こうで、ヴェガが短く息を吐く音が、聞こえた。
「二段ではなく、二つに、か」
「ご明察です」
「囮と、本隊」
「ご明察です」
「《リベルテ》、中央」
「ご明察です」
ヴェガが、薄く笑った。今度は、皮肉ではなく、感心の笑いだった。
「君は、対話を要請しながら、その間に、本隊を私の前衛の外に通している」
「対話そのものが、想定外の手です」
「分かる」
短い間。
「クラウゼン少佐」
「は」
「君に、一つだけ、訊きたいことがある」
「は」
「君は、なぜ応答する」
レオンは、通信卓の星図を見ていた。星図の上で、囮部隊と同盟軍前衛が、軽い砲戦の距離に入っていた。本隊は、低温粒子流の影の中で、民間船団の発信源に近づいていた。
彼は、ヘッドセットの向こうに、答えた。
「応答があるところから、まだ人間が生きているからです」
沈黙。
長い沈黙ではなかった。だが、短くもなかった。
「分かった」
ヴェガは、それだけ言って、通信を切った。
-
民間船団との合流は、本隊の側で進んだ。
民間船団二十隻は、すでに半分以下に減っていた。発信源の周辺で、低温粒子の影響と、同盟軍前衛の威嚇射撃を受けて、いくつかの船が機関停止していた。
オットー・ヘルマは、年配の男だった。古い船長服の上に、毛布を巻いていた。痩せていた。だが、姿勢は崩れていなかった。
レオンが《リベルテ》の通信卓経由で接触した時、彼は短く名乗った。
「ヘルマだ」
「クラウゼン少佐です」
「軍が来てくれたか」
「来ました。順番を組みます」
ヘルマは、自分の指揮船の通信卓に手を置いていた。彼は、少し迷ってから、言った。
「公開信号を出すように、求められた」
「は」
「相手は、同盟軍と名乗らなかった」
短い間。
「我々は、生きるためにそれに従いました」
「了解しました」
レオンはそれ以上、問わなかった。
救出シーケンスは、これまでの救出と同じ手順で組まれた。重傷者を《エルベ》の医療区画へ。低温被害の重い者を毛布と暖房付きの輸送艇で。軽傷者と若年者を《リベルテ》に。
全員の収容には、約十時間かかった。
その間、囮部隊は同盟軍前衛との軽い砲戦を継続していた。ハルトマンの《ヴァイス》は、先端の前衛艦の進路を切る位置で、応射のみを続けていた。同盟軍前衛は深追いをしなかった。
ユーンの観測網が、その理由を捉えていた。
「敵前衛、深追い中止の命令を受領」
「指揮系統は」
「ヴェガ提督から直接」
レオンは応えなかった。
ヴェガは、対話の後、自分の艦隊に深追いを止める命令を出していた。
-
収容完了の時点で、民間船団二十隻のうち、約十五隻が機関停止のまま放棄されていた。
搬出二千五百名。重傷四百名。死亡確認百名。
第七支援隊損害、軽傷六名のみ。戦死なし。
囮部隊は、本隊の収容完了後、距離を取って撤退した。同盟軍前衛は深追いせず、互いに観測距離で離れていく形になった。
帰投航路に乗った時、ミリアは報告書草案を提出欄に移していた。タイトルは「青縁外、民間救難応答」と書かれている。「補給支援作戦」ではなかった。今回は、補給ではなかった。
末尾の追記。
── 搬出二千五百名。死者百名。重傷四百名。
── 民間船団指揮、オットー・ヘルマ。
── 救難信号は民間通信路経由で公開された。発信を求めた相手は、同盟軍と名乗らなかった、と現地指揮の証言あり。
── 第七支援隊、敵艦撃沈なし。
-
帝都郊外、第十七司令施設。
帰投の翌朝、グライフ大佐からの内線が入った。
「文書回答、十時に提出した」
「ありがとうございます」
「聴聞の場で、ヘルダーがお前の文書を読み上げた」
「貴族院の反応は」
「半分は、お前の応答を『罠への飛び込み』として批判した。半分は、黙っていた」
「分かりました」
「だが、エーベルハルト伯爵が、その批判を引き取った」
「引き取った、というのは」
「『次回に持ち越す』と伯爵が宣言した」
「了解しました」
通信の向こうで、グライフは紙の音を立てた。
「お前を直接処分する材料が、まだ揃っていない、という意味だ。だが、伯爵は次の手を準備している」
「ご明察です」
「ヘルダーが、次の聴聞要請を作っている。期日は、おそらく一か月以内」
「了解しました」
「あの男は、お前を疲れさせる、と前に言った」
「覚えています」
「疲れさせる、の次は、削る、だ。一つずつ、お前の判断を細らせる」
「想定の範囲です」
「想定するな。準備しろ」
「順番でいきます」
「お前らしい」
グライフは短く笑った。
「クラウゼン」
「は」
「もう一つだけ」
「は」
「中立通信回線の使用記録、こっちで処理した。外務省も、監察局も、お前の今回の対話は『敵側の戦術評価のための情報収集』として記録する」
「ありがとうございます」
「お前の方の見方は」
短い間。
「呼ばれた方から、行きます」
通信の向こうで、グライフは黙った。それから、もう一度、短く笑った。
「お前の整え方は、いつも数字だ」
「他の整え方を、知りません」
通信が切れた。
-
同盟軍旗艦。
アレクサンドル・ヴェガは、自分の私室で、自分の指揮日誌を開いていた。
日誌の前のページには、ザールクヴェル後に書いた一行が残っていた。
── 撃つ局面でも、撃ち方を選ぶ男だ。(マルコ・セヴリーノ大佐の指揮日誌から、写し)
その下に、氷晶宙域北側のあとに書いた二行。
── 応答の側に立つ男だ。
── 世論が動けば、彼の特性は脆さに変わる。
ヴェガは、新しいページに、もう二行、書き加えた。
── 応答の側に立つ男だ、と書いた。だが、彼の応答は、数字の中にある。世論ではない。
── 次は、教科書ではなく、彼の数字を相手にする必要がある。
彼は日誌を閉じた。
星図の上で、雪線群以南の青の縁、その向こうに、自分の艦隊の本隊が、ゆっくりと集結を始めていた。前線寄りの位置に。
-
帝都郊外、第十七司令施設。
レオンは執務机の前で、内ポケットの紙を、一度確認した。
古い損耗予測表、子供の字の手紙、ヤン・コルベの配線図。そこに、もう一枚、新しい紙が加わっていた。ミリアが書き起こした、ヴェガとの対話の記録の写しだった。
短い対話だった。十分にも満たない時間の対話。だが、その十分は、彼の机の上の数字を、少しだけ、別の方向に揺らしていた。
ミリアは通信卓の前で、分散観測網の最新の表示を進めていた。
北方戦域の星図の中で、雪線群以南の青の縁、その向こうに、複数の赤い艦影が、ゆっくりと、近づいてきていた。
「ヴェガ提督の本隊、前線寄りに移動中」
彼女は言った。
「規模は」
「同盟軍の中規模艦隊が、複数方面から集結の兆しを見せています」
レオンは星図を見ていた。
彼の机の上の数字は、これまでと違う方向に動こうとしていた。これまでの第七支援隊の任務は、小規模な救出と補給線維持が中心だった。中規模艦隊が複数方面から集結している、という観測は、それを変える兆しだった。
彼は内ポケットの紙を、もう一度、指で確認した。
古い損耗予測表。子供の字。ヤン・コルベの配線図。ヴェガとの対話の記録。四枚は、いつもの順番に、いつもの位置にあった。
「呼ばれた方から、行きます」
彼はそれだけ言った。
ミリアは小さくうなずいて、観測網の表示を進めていった。
星図の上で、赤い艦影は、まだ、ゆっくりと近づいていた。
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