届かない応答
氷晶宙域の北側、小惑星帯の影。
貨物船は、星図の上では、止まっていた。
厳密には、低速で漂流していた。機関は最低限の出力で温度を保ち、外殻の凍結を遅らせている。外殻の塗装は剥げ、補修の溶接痕がいくつも走っていた。船体の側面には、低温粒子の堆積物が、薄い氷の膜のように張り付いている。
《ザクセン》は、氷晶回廊撤退の時、混成船団の旗艦として動いていた。当時の名簿には、千二百三十二名が記載されていた。
現在、船内に生きている者は、約六百五十名だった。
《リベルテ》が接舷した時、《ザクセン》の艦橋には、痩せた女が立っていた。古い船長服の上に毛布を巻いている。目だけが鋭かった。低温被害の痕は、頬と手の甲に残っていた。
「《リベルテ》のノアか」
「ヴィルマ・ローレンス。久しいな」
「あなたが来るとは、聞いていなかった」
「軍に頼まれた」
ヴィルマ・ローレンスは、ノアの後ろに立ったレオンに視線を移した。
「軍の方か」
「帝国軍少佐、レオン・クラウゼン。第七支援隊指揮」
ローレンスは、レオンを少しの間、見ていた。
「葬送艦隊、と呼ばれている部隊か」
「公称は、第七支援隊です」
「公称は、聞いた話と違いますね」
「違わないと思います」
ローレンスは、薄く笑った。それから、艦橋の隅に座っていた若い男に手を振った。
「コルベ、来い」
若い男が、立ち上がって近づいた。痩せた、二十代前半の男だった。目の周りには低温被害の痕がある。
「通信士官のヤン・コルベです」
「旧式ビーコンを扱った方ですか」
「電源がなくなって、ビーコンも止まりました」
彼は短く息を継いだ。
「三か月かけて、別の電源を作りました」
「材料は」
「救命艇の予備バッテリー、貨物船の予備配線、それと、低温粒子流を電位差に変える簡易装置」
「ご自分で作ったのですか」
「他に作れる者がいませんでした」
レオンは少しの間、彼を見ていた。
「届きましたか」
ヤン・コルベはレオンを見た。
「は」
「ビーコンの信号は、届きましたか、と尋ねたい意図に聞こえました」
「ええ」
彼は短くうなずいた。
「届いたから、こうしていま、お話しできているのだと思います」
ミリアが、ヤン・コルベの傍に立った。
「届きました」
彼女ははっきりと言った。
「氷晶宙域の北側、座標も周波数も、ほぼ計画通りに受信しました」
ヤン・コルベは、低温で割れた唇を、一度引き締めた。
「結構です」
彼はそれだけ言って、艦橋の隅に戻った。
ローレンス船長は、自分の船長服の襟を、毛布の上から押さえた。
「私たちは、半分になりました」
「了解しています」
「残りの半分を、運んでください」
「順番を組みます」
-
救出シーケンスは、ミリアが組んだ。
最初に動けない重傷者を、《エルベ》の医療区画へ。次に低温被害の重い者を、毛布と暖房付きの輸送艇で。最後に、軽傷者と若年者を《リベルテ》に。
《ザクセン》の機関停止区画は、曳航しなかった。船体は捨てる、と決まった。乗員のみ収容する。
ローレンス船長は、その判断に反対しなかった。
「船は、もう動かない」
彼女は《リベルテ》に乗艇する直前、レオンに言った。
「動かない船を、運ぶ手間で、動ける者が一人でも遅れるなら、置いていく」
「了解しました」
「ただし、名簿は、運んでください」
「名簿、ですか」
「《ザクセン》の航海日誌と、亡くなった四百名の記録。船体に積んだままでは、誰も読まなくなる」
レオンはミリアを見た。ミリアはすでに動いていた。
「了解しました。《エルベ》第三区画の保全用記録区に移します」
「結構」
ローレンス船長は、毛布を一度きつく巻き直して、《リベルテ》の昇降ハッチに向かった。
収容には、約十二時間かかった。
最後の救命艇が《リベルテ》に接続された時、ミリアの分散観測網が、同盟軍前衛の動きを捉えた。
「敵前衛、信号探知。動き出しました」
「予測時間は」
「接触まで、約四時間」
レオンは、ノアの方を見た。
「出口は」
「低温粒子流の隘路の、南側」
「《リベルテ》先導、《エルベ》中央、コア艦は後方警戒」
ハルトマンの《ヴァイス》から、応答が返ってきた。
「《ヴァイス》、後方警戒。応射のみ、距離維持」
「了解」
艦列は、低温粒子流の濃密帯の影に入っていった。
-
離脱の航路上で、同盟軍前衛艦の一隻が、《ヴァイス》に接近した。
接触はあった。短い砲戦が、観測上に記録される程度の規模で交わされた。
《ヴァイス》は応射した。距離を維持したまま、相手の進路を切る位置に動いた。同盟軍観測艦は、深追いはしなかった。
艦列は、低温粒子流の隘路の南側を抜けて、青の領域に戻った。
離脱完了。
搬出人数、六百五十名。うち、重傷者百二十名。搬出中の死亡、四名。
第七支援隊損害、なし。《ザクセン》ほか、機関停止のまま放棄された貨物船、二隻。
-
同盟軍旗艦。
アレクサンドル・ヴェガは、自分の私室で、北方戦域からの報告書を読んでいた。
報告書は、薄かった。
氷晶宙域北側、消息不明だった船団の信号再活性化。帝国軍第七支援隊が、軍用観測網外の航路を使って接近、人員を収容、離脱。
ヴェガは星図を見た。星図の上で、青の領域から少しだけ外に出ていた赤い点が、青の側に戻っていた。
「氷晶北側、か」
彼は静かに言った。
「彼は、忘れない男だ」
副官は黙っていた。
「応答があれば、行く」
「は」
「これは、特性であって、戦術ではない」
ヴェガは指揮日誌を開いて、短く書き加えた。
── 応答の側に立つ男だ。
それから、もう一行。
── 世論が動けば、彼の特性は脆さに変わる。
彼は日誌を閉じた。
星図の上の青の領域は、わずかに広がっていた。ほんの少しだけ。だが、その「ほんの少し」を、ヴェガは指で押さえていた。
-
帝都郊外、第十七司令施設。
帰投後の夜、レオンは執務机の前にいた。
ミリアが報告書草案を提出欄に移したところだった。タイトルは、「氷晶宙域北側補給支援作戦」と書かれている。「戦闘」「砲戦」の語は、含まれていない。
末尾の追記。
── 搬出六百五十名。死者、確認分四百一名(航海日誌より)。
── 旧船団指揮、貨物船船長ヴィルマ・ローレンス。
── 通信士官ヤン・コルベ、旧式救難ビーコンを手動再起動。詳細、別添。
── 《ザクセン》ほか機関停止艦二隻、現地放棄。
ローレンス船長が、医療区画の窓のある部屋に通された後、レオンに言葉を残していた。
「私たちの名前は、戻りましたか」
「戻りました。名簿に記載済みです」
短いやり取りだったが、レオンはそれを覚えていた。
彼は執務机の引き出しを開けた。中には、損耗予測表、子供の字で書かれた古い手紙、それからもう一枚、新しい紙が入っていた。
ヤン・コルベが、《リベルテ》の中で、ミリアに渡したものだった。
旧式救難ビーコンの内部配線図の、写しだった。三か月かけて作った、別の電源装置の構造図も、その下に書き加えられていた。
彼の字は、低温被害の手で書かれたために、所々が震えていた。だが、読めた。
レオンはそれを引き出しに戻した。
通信卓が、グライフ大佐からの内線を告げた。
「氷晶北側に出たことを、貴族院の何人かが、別の意味で問題視している」
「別の意味、というのは」
「詳細は、次便で送る。ただ、お前は知っておいた方がいい」
「了解しました」
「お前は、ザクセンを放棄したな」
「機関停止艦でした」
「貴族院は、あの船を放棄したことを問題にするかもしれない」
「了解しました」
「了解しました、ばかりだな」
「他に答え方がありません」
通信が切れた。
ミリアは通信卓の前で、分散観測網の点を、いつものように一つずつ確認していた。
北方戦域の星図のどこかで、まだ応答のある赤い点が、いくつか、光ったままだった。
「応答があるところから」
レオンはそれだけ言って、引き出しを閉じた。
ミリアは小さくうなずいて、観測網の表示を進めていった。
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