廃止された航路
ザールクヴェルから帰投して、数日。
ミリア・エーレンベルク中尉は、通信卓の前で、古い周波数帯の信号を聞き続けていた。
信号は弱かった。一定の間隔で、十六秒ごとに途切れる。
手動式の旧式救難ビーコン、と彼女は端末に書いていた。発信源は、氷晶宙域の北側。同盟軍前衛が展開している宙域の、さらに先。座標は、氷晶回廊撤退の時に消息不明となった船団の旧位置と、概ね一致していた。
査問の終わりに見た、大議場の星図の隅に点滅していた赤い点のうちの、一つだった。
レオン・クラウゼン少佐は、ミリアの示した旧名簿を、執務机の上で開いていた。
名簿の表紙には、氷晶回廊撤退時の混成船団、と書かれている。乗船総数、千二百三十二名。
「現在の信号からの推定人数は」
「六百五十前後です」
「半分は」
「未確認です」
ミリアは紙の名簿の一枚目を、指で押さえていた。その下に、彼女自身がここ数日で書き加えた一行があった。
── 信号再活性化、三日前。
「自然作動ですか」
「不明です。手動再起動の可能性も、否定できません」
レオンは名簿を畳んだ。
通信卓のスピーカーが、別の音を流し始めた。軍務省監察局からの内線。グライフ大佐だった。
声には、いつもの皮肉が乗っていた。だが、その下に、別の色が薄く重なっている。
「貴族院の何人かが、お前の艦隊がまた氷晶に戻ることを面白がっている」
「面白がっている、ですか」
「言葉通りだ。深く考えるな」
レオンは答えなかった。
「補助艦の手配は、変わらん。《カラヴェル》があと数日で出る。《イーゼ》はあと一週間半」
「了解しました」
「もう一つ」
「は」
「お前の動きを、外から見ている目がある。お前が氷晶に戻る、という事実そのものが、彼らには使える」
「使える、というのは」
「彼らがいずれ何かを言いたい時、お前の動きが材料になる、という意味だ」
「了解しました」
「順番でいくのか」
「順番でいきます」
通信が切れた。
ミリアは、旧名簿の二枚目を開いた。乗船者の氏名が並んでいる。彼女はその名簿の中の、十数行を指でなぞった。
「通信士官、四名」
「は」
「氷晶回廊撤退時、この船団に同乗していました。うち、若手が一名。ヤン・コルベ、技術曹長」
「旧式ビーコンを扱える者ですか」
「資格上は」
ミリアはもう一行加えた。
「ノア・カザン船長に、すでに連絡を入れました」
レオンは目を上げた。
「いつ」
「昨日です」
「返答は」
「《リベルテ》、修理ドックから出たところだそうです。氷晶ならば、一日半で到着する、と」
レオンはうなずいた。
「お知恵を借ります」
-
《リベルテ》は、翌日の午後、第十七司令施設の外接岸に着いた。
ノア・カザンは、査問の証言席に立った時とほぼ同じ服装で降りてきた。灰色の髪を後ろで縛り、古い船長服の上に厚手の防寒ジャケットを羽織っている。眉間の皺は、相変わらず深かった。
指揮所に通されると、彼は最初に星図を見た。
氷晶宙域の北側、青と灰色の境界線の、少し先。
「氷晶か」
「氷晶です」
「軍では入れない場所がある」
「ご存じの場所はありますか」
「ある」
ノアは星図に近づいて、指で三本の線を引いた。
旧鉱山航路。旧商業航路。低温粒子流の影を伝う、観測網に乗らない経路。
「軍が観測網を作る時、その元になる地図が必要だ。地図は、誰かが先に通っていなければ作れない。先に通った者の航路は、軍の地図には載らない」
彼は淡々と説明した。
「軍はいつも、船に二つの仕事をさせたがる。荷を運ぶことと、地図を作らせること。だが、地図を作った船は、いずれ廃止される。地図が完成するから、不要になる」
レオンは星図の三本の線を見ていた。
「廃止された航路は、いま、通れますか」
「通れる場所と、通れない場所がある」
「割合は」
「半分」
「半分は、十分です」
ノアは少しだけ、口の端を動かした。
「ところで、《リベルテ》の修理代は、まだ払われていない」
「外務省と監察局で、共同負担になっています。手続き中です」
「待つことには慣れている」
「ありがとうございます」
ノアは指揮所の隅の椅子に座って、自分の防寒ジャケットの内ポケットから、糊で綴じた紙のメモを出した。
「あの船団のいた場所、見当はつく。氷晶の北側に、古い鉱山船の隠れ場所があった。低温粒子流の影で、軍の観測には乗りにくい」
「同盟軍の警戒網は」
「軍が作った観測網は、軍の地図に載るからな。同盟軍も、その地図を読んでいるはずだ」
「そこを抜ける、ですか」
「抜ける」
ノアは紙のメモの一頁を指で押さえた。
「ただし、こちらの船団は、軍服を着てこない方がいい」
-
第七支援隊の編成は、軍艦五隻、民間一隻になった。
通信巡洋艦、駆逐艦、補給母艦、駆逐艦、駆逐艦。それに、ノア・カザンの民間船。
駆逐艦はザールクヴェルでの中破により修理中。駆逐艦は《エルツバッハ》戦の中破からの修理進行中。修理艦は《カラヴェル》整備に拘束されたままだった。申請中の補助駆逐艦二隻は、答弁の予定が、また外されていた。
出発の朝、ミリアは通信卓の前で、分散観測網の表示を確認していた。
北方戦域、青の領域の縁。氷晶宙域の手前、雪線群以南。
星図の上で、同盟軍前衛の艦影が、断続的に動いていた。
「敵前衛、巡回パターン、確認」
ミリアは言った。
「警戒網は、時間帯で密度が変わります」
「変動の幅は」
「観測艦の交代時間、補給艇の航行時間帯、低温粒子流の濃淡。三つの変数で、薄い時間帯が一日に二度、各三十分前後」
「短いですね」
「短いですが、ないわけではありません」
レオンは星図を見ていた。
「《リベルテ》、先導。距離は、軍用観測網に乗らない位置で」
通信卓に、ノアの声が返ってきた。
「了解。古い船は、古い船の扱いを知っている」
星図の上で、《リベルテ》の艦影が、ゆっくりと氷晶宙域への入口に向かって動き出した。
-
氷晶宙域への進入は、軍用航路から外れた経路を通った。
ミリアの分散観測網は、同盟軍前衛の警戒網を、一秒ごとに更新していた。同盟軍の観測艦は、軍用の標準的な巡回パターンを踏襲していた。それは、帝国軍が同盟軍の地図を読んでいるのと同じ理由で、帝国軍にも読まれていた。
ノアの旧航路は、その地図には載っていなかった。
低温粒子流の濃密帯の、影を伝う経路。観測網が成立する前に廃止された旧鉱山航路。低温粒子流の濃淡が観測艦のセンサーを乱す位置。
第七支援隊は、最小限の機動で進んだ。コア艦と補助艦は、《リベルテ》の航跡を追う形で、艦間距離を狭めずに進む。
進入から十二時間。
同盟軍前衛艦の一隻が、《リベルテ》の進行方向に近づいた。
「敵観測艦、進路上に接近」
「距離は」
「四千二百」
「警戒網の薄い時間帯ですか」
「いま、入りました。残り、二十二分」
レオンは通信卓に指示を出した。
「《リベルテ》、進路維持。観測偽装を準備」
ミリアは通信卓のもう一つの端末を開いた。彼女が用意していたのは、民間放送局の中継ブイの信号パターンの写しだった。査問の後の数か月、分散観測網を整備する中で、彼女は同種の信号を多数収集していた。
「観測偽装、入りました。敵は『民間放送局の信号』と読みます」
「読まれて構いません」
同盟軍観測艦は、《リベルテ》の方向に、わずかに進路を変えた。ただし、攻撃姿勢ではなく、確認姿勢だった。民間信号として処理する場合、武装解除を要求するか、通過させるかの判断になる。
通過させる、と判断した。観測艦は進路を戻し、《リベルテ》から離れた。
「敵観測艦、進路復帰」
「距離、開きます」
ミリアの声には、緊張の色が薄く残っていた。だが、すぐに次の警戒網の解析に戻っていく。
ノアの通信が、《アルゲン》に届いた。
「ここで右、低温粒子流の影に入る」
「了解。《リベルテ》先導、コア艦は粒子流の影に同期」
艦影は、星図の上で、淡い灰色の帯の中に入っていった。




