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銀河帝国の敗戦処理官、撤退命令だけで三万人を救う  作者: 鷹山
第二部 名のない戦場たち
27/53

読み直し

 九十六時間経過。搬出進度、九十二パーセント。

 《エルツバッハ》表面で、最後の設備の積み込みが続いていた。輸送船団の一部は、すでに出口側へ抜けている。残りは数隻、《エルベ》と一緒に、最後尾を保っていた。

 ヘフナーの言った「九十二時間で来ます」は外れなかった。同盟軍前衛の一部は、九十二時間目に再進入を試みていた。だが、それは本隊の包囲ではなく、観察のための小規模接触だった。ハルトマンの《ヴァイス》が応射し、距離を保った。

 《エルツバッハ》から離脱する船団の中で、技術者たちの一団が、輸送船ヴェルティルの食堂に集まっていた。レオンは現地視察として、《ヴェルティル》に短時間立ち寄っていた。

 彼を見ると、年長の技術者が手を挙げた。

「少佐」

「はい」

「移送先は、どこですか」

 レオンは内ポケットから、ミリアが用意したリストを出した。

「受け入れ施設は三か所です。第一はノルトハーフェン民間工業区、第二は南方リンデン工業集積、第三は外務省管轄の中立施設での一時受け入れ。家族の受け入れ住居は、それぞれの区画内に確保されています」

「名簿には、私たちの名前があるんですか」

「あります」

「全員」

「全員です」

 年長の技術者は、自分の指で何度か机を叩いた。

「次の戦線でも、こうやって運ばれるだけですか」

 彼の声には、敵意はなかった。だが、疲れがあった。

 レオンは少し間を置いた。

「移送先は、確定しています。次の戦線へ、皆さんを運ぶ計画はありません」

「ですが、次の戦線が下がってくれば、結局また」

「下がってくる前に、可能な限り、後ろへ送ります」

「後ろは、まだあるんですか」

 その問いに、レオンはすぐには答えなかった。

 彼は食堂の壁の方を見た。輸送船の壁は素っ気ない金属の壁で、所々に古い貼り紙の痕がある。何が貼られていたかは、もう分からない。

「後ろがあるかどうかは、私が決めることではありません」

 彼は言った。

「ただ、皆さんが運ばれるたびに、名簿は残ります。名簿が残れば、後ろにいる人たちが、皆さんがどこにいるかを知ることができます」

「それで何になるんですか」

「迎えに行けます」

 年長の技術者は、レオンを見た。それから、自分の隣の若い同僚の肩に、無言で手を置いた。

 食堂の中の空気は変わらなかった。だが、誰も、それ以上の問いを発しなかった。

 レオンは食堂を出る前に、もう一度言った。

「名簿は、残します」

     -

 百八時間後。

 《エルツバッハ》、無人化。搬出完了。

 技術者・熟練工、一万二千三百名。家族、三千四百名。希少設備、八十五基。うちデータ保全要件のあるもの四基、いずれも《エルベ》第三区画にて温度管理維持。

 第七支援隊損害。駆逐艦カラヴェル中破。戦死六名、行方不明二名、軽傷二十八名。

 同盟軍被害、不明。

 レオンはミリアの起草した報告書草案を、《アルゲン》指揮所で確認していた。

 タイトルは、《エルツバッハ》補給支援作戦、と書かれている。「作戦」の前に「補給支援」が来ている。「戦闘」という語は使われていない。

「これでいきます」

「はい」

 ミリアは小さくうなずいた。

「公式記録上は、小競り合いを伴う引き上げ作戦、扱いになると思います」

「結構です」

 彼女は記録欄を一行ずつ確認していった。同盟軍指揮官の名前、機動経路、退却理由。すべて短く、断定的に書かれている。「敵は、自軍の機動経路上に既存配置物を確認し、包囲完成が引き上げ完了より遅れると判断、後退」。

 その下に、もう一行だけ加えられていた。

「敵主力との直接砲戦は、最小限の応射に留まった。敵艦の撃沈は確認されていない」

 ミリアはそれを読み返した。

「沈めていないんですね」

「沈めていません」

「ご報告は」

「そのままで」

 通信卓が鳴った。

 軍務省監察局からの内線。グライフ大佐だった。彼の声には、わずかな疲労があった。

「敵を一隻も沈めなかったな」

「攻める必要がありませんでした」

「お前は、本当にそう答えるな」

「他に答え方がありません」

 グライフは一拍置いて、口調を変えずに続けた。

「《エルベ》第三区画の用途変更、書類が来ていない」

「先に動かしました」

「想定通りだ。報告書、後追いで出せ」

「了解」

「もう一つ」

「は」

「貴族院の何人かが、お前の艦隊が『敵を撃たない』と騒ぎ始めている」

「数字はお持ちですか」

「ある。お前の数字より、彼らの数字の方が早く動く」

 レオンは答えなかった。

 グライフは続けた。

「『葬送艦隊』という呼び名が、貴族院の一部にも届いている」

「公称は、第七支援隊です」

「公称は、お前を守らんよ」

 通信が切れた。

 ミリアは通信卓の前で、しばらく動かなかった。それから、報告書を上書きせずに、そのまま提出欄へ移した。

     -

 同盟軍旗艦オルトリーヴ

 アレクサンドル・ヴェガは、自分の艦の私室で、セヴリーノからの報告書を読んでいた。

 報告書は薄かった。包囲機動の各段階。両翼の機動経路。右翼で確認された観測ブイ群と機雷散布残骸の座標。左翼の進行先で確認された低温粒子流濃密帯の座標。

 それぞれに、配置物の出所が付記されている。

 ── 北黒嶺方面補給線確保作戦の残置物。二か月前。

 ── 雪線方面、アステル系列センサーによる粒子流監視の継続観測。継続中。

 ヴェガは星図に座標を当てていった。

 右翼の機雷散布残骸の位置。左翼の濃密帯の位置。帝国側の防衛網は、その二つの位置の間に、薄く広がっていた。広がっているように見えて、実は、両翼の機動経路の「先」に、すでに何かがある場所を選んで広がっていた。

 ヴェガは指で星図をなぞった。

 ── 何も、新しく置かれていない。

 彼は小さく声に出した。

「読み直したな」

 その「読み直し」は、既存記録の上に成立していた。残骸も、観測網も、軍用記録には残っている。配置として記録されているわけではない。撤収・継続観測の対象として、記録の片隅に位置を持っているだけだった。

 その記録の隅から、クラウゼンは配置物の座標を拾い、自軍のコア部隊の防衛位置をその後ろに置いた。包囲機動の経路が、その配置物に触れる位置に来た時、包囲は成立しなくなる。

 それは、戦闘での勝利ではない。配置を、勝てる形に整えただけだった。

 ヴェガは報告書をもう一度読み返した。

 セヴリーノは、退き際を読み損ねていない。包囲完成が引き上げ完了より遅れると判断した時点で、彼は引いた。それは指揮官として正しい判断だった。

 だが、その「引き時」を、クラウゼンは事前に組み込んでいた。

 ヴェガは私室の窓の外を見た。宙の暗がりに、艦隊の配置灯が淡く並んでいる。

 彼は副官を呼ばずに、ひとり言のように呟いた。

「これは、時間稼ぎではない」

 彼は星図にもう一度視線を落とした。

「最初から、こちらの勝ち筋を一つずつ潰しに来ていた」

 報告書を閉じる前に、彼は最後の一行を読んだ。

 ── 帝国側、敵艦撃沈、確認されず。

 ヴェガは、その一行を指で押さえた。

 彼の中で、クラウゼンという男の輪郭が、また少し変わった。艦隊撤退戦で名簿を救う男から、艦隊を持って勝ち筋を消す男へ。

 ヴェガは机の上の通信端末を引き寄せて、自分の側近に短く命じた。

「クラウゼンは、艦隊を持った」

「は」

「次は、もう少し気を入れる必要がある」

「は」

 彼は通信を切った。窓の外の暗がりは、何も変わらなかった。

     -

 帝都郊外、第十七司令施設。

 第七支援隊が帰投した翌朝、レオンは執務机の前で、新しい任務の通達を読んでいた。

 差出人は、軍務省北方戦域監察局。

 北方戦域、ザールクヴェル中継基地より退避要請。同盟軍前衛の南進、想定より早い。退避対象は通信士官と医療要員、計約二千八百名。希望航路、未定。

 ミリアが横で内容を確認した。

「中継基地は、雪線群と氷晶の中間にあります」

「うちが行ける距離ですか」

「片道四十時間。補給は、出口側で受けられます」

「出ます」

 レオンは通達を畳んで、机の端に置いた。

 通信卓では、ミリアが分散観測網の座標を更新し始めていた。古い配置物の記録が、また一つ、新しい任務の地図に重ねられていく。

 窓の外、帝都の朝はまだ薄暗かった。

 北方の星図のどこかで、まだ応答のある赤い点が、灯ったまま位置を保っている。

 第七支援隊は、その点に向かって、また動き出すところだった。


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