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銀河帝国の敗戦処理官、撤退命令だけで三万人を救う  作者: 鷹山
第一部 消えなかった名前たち
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応答があるところから

 入ってきたのは、若い女性だった。

 白銀の髪を後ろでまとめ、濃紺の礼装をまとっている。護衛は少ない。だが、その少なさがかえって彼女の立場を示していた。

 議場の人々が、次々に立ち上がる。エーベルハルト伯爵も、即座に姿勢を正した。

「アレシア皇女殿下」

 その名が、議場に低く広がった。

 アレシア・フォン・エルンハイト。帝国第三皇女。これまで軍務の表舞台に立つことはほとんどなかった人物だった。

 だが、彼女の手には、厚い資料束があった。飾りではない。読まれた資料だった。

「続けてください、伯爵」

 アレシアは静かに言った。

「私は、聞きに来ただけです」

 伯爵は一礼した。

「殿下の御前であれば、なおのこと申し上げます。クラウゼン少佐は危険です。彼の判断は個々の戦場では人命を救うかもしれません。しかし、帝国全体から見れば、防衛線の後退を常態化させ、敵に利用される余地を増やしています」

 アレシアは頷いた。

「あなたの地図は正しい。帝国は後退しています」

 伯爵の表情が少し緩む。

 しかし、アレシアはミリアの資料へ視線を向けた。

「エーレンベルク中尉の名簿も正しい。戻った者がいます」

 彼女は議場中央へ歩いた。その動きに、大げさな威厳はない。ただ、誰も遮れなかった。

「クラウゼン少佐を処分すれば、帝国は後退の責任者を得るでしょう」

 アレシアは言った。

「ですが、後退そのものは止まりません」

 伯爵は慎重に答えた。

「殿下、責任の所在を明確にしなければ、軍規は保てません」

「その通りです」

「では」

「責任を明確にしましょう」

 アレシアは、手元の資料を開いた。

「レオン・クラウゼン少佐」

「はい」

「あなたに、帝国軍務省北方戦線撤収・補給再編特別監察官代理を命じます」

 議場が大きく揺れた。

 グライフ大佐が、小さく「長いな」と呟いた。

 ミリアはその肩書きの意味を理解するのに、数秒かかった。

 北方戦線。撤収。補給再編。特別監察官代理。

 つまり、北方全域の後退、補給、民間人退避、捕虜照合、現地判断の調整を、レオンに見させるということだった。

 伯爵が鋭く言った。

「殿下、それは少佐にあまりにも大きな権限を与えることになります」

「いいえ」

 アレシアは答えた。

「責任を与えます。権限は、あなた方がこれから削るでしょう」

 伯爵は言葉を失った。

 皇女は続けた。

「北方の地図は、しばらく小さくなるでしょう。その時、何を残すかを数える者が必要です」

 アレシアはレオンを見た。

「受けますか」

 レオンは、すぐには答えなかった。

「権限範囲を確認します」

 議場の緊張とは少し違う空気が流れた。

 皇女は、わずかに口元を動かした。

「どうぞ」

「補給線への介入権は」

「軍務省および監察局経由」

「現地撤収判断は」

「現地司令官の承認が必要です」

「民間船団への直接命令は」

「できません。要請と勧告までです」

「捕虜交換への関与は」

「外務省戦時調停局と共同」

「艦隊運用権限は」

 そこで、アレシアは少しだけ間を置いた。

「限定的な機動支援部隊を付けます。詳細は後日」

 伯爵が反応した。だが、アレシアは彼を見なかった。

 レオンはさらに聞いた。

「責任範囲は」

「北方戦線全域です」

「不均衡ですね」

「帝国ですから」

 アレシアはそう答えた。

 議場の誰かが息を呑んだ。

 レオンは敬礼した。

「承知しました」

 それだけだった。任命を受ける言葉にしては、あまりにも短い。だが、ミリアには、その短さがかえって重く感じられた。

     -

 査問は、処分ではなく任命で終わった。

 正確には、処分が消えたわけではない。先送りされ、別の形で重くなった。

 貴族院を出る時、グライフ大佐はレオンの肩書きをもう一度読み上げていた。

「帝国軍務省北方戦線撤収・補給再編特別監察官代理。長い。長すぎる。書類の表題で一行使う」

「通称が必要ですね」

 ミリアが言った。

「やめろ。現場が勝手につける」

「何と呼ばれるでしょう」

 グライフは少し考えた。

「ろくな名前ではない」

 クラリッサが横から言った。

「外務省では、北方整理官で通すでしょう」

「上品ですね」

 ミリアが言うと、クラリッサは薄く笑った。

「上品な名前ほど、中身は荒れます」

 レオンは黙っていた。手元の辞令を見ている。そこには皇女アレシアの印が押されていた。

 救いの印ではない。責任の印だった。

 監察局へ戻ると、部屋の空気はいつも通りだった。書類が山積み。冷めたコーヒー。鳴り続ける端末。新しい肩書きにふさわしい荘厳さなど、どこにもない。

 グライフ大佐は、自分の椅子に座るなり言った。

「おめでとう、少佐。処分を免れた代わりに、処分より面倒なものをもらったな」

「はい」

「北方全域だぞ」

「はい」

「一人では無理だ」

 レオンは頷いた。

「だから、分けます」

 ミリアは、その言葉に顔を上げた。

 レオンは壁面の星図を開いた。北方戦線全域。

 グリムワルト。カレリア。アルム。雪線。氷晶回廊。サリカ。アステル。

 見覚えのある名が、赤い点や灰色の点の中に混じっている。だが、それ以上に、まだ開いていない点が多かった。

 通信遅延。補給不足。避難未了。捕虜未照合。指揮系統不明。低温粒子流警戒。撤収判断保留。

 小さな赤い表示が、星図のあちこちで点滅している。

「多いですね」

 ミリアが言った。

「はい」

「どこから始めますか」

 レオンは、しばらく星図を見ていた。

 グライフは空のコーヒーカップを机に置いた。クラリッサは外務省へ送る連絡文を開いている。ミリアは端末を準備した。

 赤い点は、まだ消えていなかった。完全な沈黙ではない。細い通信が残っている。救難信号がある。遅れた報告がある。名簿の空欄がある。

「まだ応答があるところから」

 レオンは言った。

 ミリアは、その言葉を記録した。新しい任務名の下に、最初の項目を作る。

 北方戦線、応答確認。

 その瞬間、星図の端で、一つの赤い点が明滅した。

 遠い前線からの、短い信号だった。

『こちら第九補給艇団。航路不明。指示を求む』

 ミリアはレオンを見た。レオンは頷いた。

 彼女は回線を開いた。

「こちら帝国軍務省北方戦線撤収・補給再編特別監察官代理室。状況を送ってください」

 少し長すぎる名乗りだった。グライフ大佐が顔をしかめた。

 だが、回線の向こうから、雑音まじりの声が返ってきた。

『応答あり。助かった』

 ミリアは、端末に手を置いた。

 助かったかどうかは、まだ分からない。けれど、応答はあった。

 ならば、そこにはまだ誰かがいる。


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