応答があるところから
入ってきたのは、若い女性だった。
白銀の髪を後ろでまとめ、濃紺の礼装をまとっている。護衛は少ない。だが、その少なさがかえって彼女の立場を示していた。
議場の人々が、次々に立ち上がる。エーベルハルト伯爵も、即座に姿勢を正した。
「アレシア皇女殿下」
その名が、議場に低く広がった。
アレシア・フォン・エルンハイト。帝国第三皇女。これまで軍務の表舞台に立つことはほとんどなかった人物だった。
だが、彼女の手には、厚い資料束があった。飾りではない。読まれた資料だった。
「続けてください、伯爵」
アレシアは静かに言った。
「私は、聞きに来ただけです」
伯爵は一礼した。
「殿下の御前であれば、なおのこと申し上げます。クラウゼン少佐は危険です。彼の判断は個々の戦場では人命を救うかもしれません。しかし、帝国全体から見れば、防衛線の後退を常態化させ、敵に利用される余地を増やしています」
アレシアは頷いた。
「あなたの地図は正しい。帝国は後退しています」
伯爵の表情が少し緩む。
しかし、アレシアはミリアの資料へ視線を向けた。
「エーレンベルク中尉の名簿も正しい。戻った者がいます」
彼女は議場中央へ歩いた。その動きに、大げさな威厳はない。ただ、誰も遮れなかった。
「クラウゼン少佐を処分すれば、帝国は後退の責任者を得るでしょう」
アレシアは言った。
「ですが、後退そのものは止まりません」
伯爵は慎重に答えた。
「殿下、責任の所在を明確にしなければ、軍規は保てません」
「その通りです」
「では」
「責任を明確にしましょう」
アレシアは、手元の資料を開いた。
「レオン・クラウゼン少佐」
「はい」
「あなたに、帝国軍務省北方戦線撤収・補給再編特別監察官代理を命じます」
議場が大きく揺れた。
グライフ大佐が、小さく「長いな」と呟いた。
ミリアはその肩書きの意味を理解するのに、数秒かかった。
北方戦線。撤収。補給再編。特別監察官代理。
つまり、北方全域の後退、補給、民間人退避、捕虜照合、現地判断の調整を、レオンに見させるということだった。
伯爵が鋭く言った。
「殿下、それは少佐にあまりにも大きな権限を与えることになります」
「いいえ」
アレシアは答えた。
「責任を与えます。権限は、あなた方がこれから削るでしょう」
伯爵は言葉を失った。
皇女は続けた。
「北方の地図は、しばらく小さくなるでしょう。その時、何を残すかを数える者が必要です」
アレシアはレオンを見た。
「受けますか」
レオンは、すぐには答えなかった。
「権限範囲を確認します」
議場の緊張とは少し違う空気が流れた。
皇女は、わずかに口元を動かした。
「どうぞ」
「補給線への介入権は」
「軍務省および監察局経由」
「現地撤収判断は」
「現地司令官の承認が必要です」
「民間船団への直接命令は」
「できません。要請と勧告までです」
「捕虜交換への関与は」
「外務省戦時調停局と共同」
「艦隊運用権限は」
そこで、アレシアは少しだけ間を置いた。
「限定的な機動支援部隊を付けます。詳細は後日」
伯爵が反応した。だが、アレシアは彼を見なかった。
レオンはさらに聞いた。
「責任範囲は」
「北方戦線全域です」
「不均衡ですね」
「帝国ですから」
アレシアはそう答えた。
議場の誰かが息を呑んだ。
レオンは敬礼した。
「承知しました」
それだけだった。任命を受ける言葉にしては、あまりにも短い。だが、ミリアには、その短さがかえって重く感じられた。
-
査問は、処分ではなく任命で終わった。
正確には、処分が消えたわけではない。先送りされ、別の形で重くなった。
貴族院を出る時、グライフ大佐はレオンの肩書きをもう一度読み上げていた。
「帝国軍務省北方戦線撤収・補給再編特別監察官代理。長い。長すぎる。書類の表題で一行使う」
「通称が必要ですね」
ミリアが言った。
「やめろ。現場が勝手につける」
「何と呼ばれるでしょう」
グライフは少し考えた。
「ろくな名前ではない」
クラリッサが横から言った。
「外務省では、北方整理官で通すでしょう」
「上品ですね」
ミリアが言うと、クラリッサは薄く笑った。
「上品な名前ほど、中身は荒れます」
レオンは黙っていた。手元の辞令を見ている。そこには皇女アレシアの印が押されていた。
救いの印ではない。責任の印だった。
監察局へ戻ると、部屋の空気はいつも通りだった。書類が山積み。冷めたコーヒー。鳴り続ける端末。新しい肩書きにふさわしい荘厳さなど、どこにもない。
グライフ大佐は、自分の椅子に座るなり言った。
「おめでとう、少佐。処分を免れた代わりに、処分より面倒なものをもらったな」
「はい」
「北方全域だぞ」
「はい」
「一人では無理だ」
レオンは頷いた。
「だから、分けます」
ミリアは、その言葉に顔を上げた。
レオンは壁面の星図を開いた。北方戦線全域。
グリムワルト。カレリア。アルム。雪線。氷晶回廊。サリカ。アステル。
見覚えのある名が、赤い点や灰色の点の中に混じっている。だが、それ以上に、まだ開いていない点が多かった。
通信遅延。補給不足。避難未了。捕虜未照合。指揮系統不明。低温粒子流警戒。撤収判断保留。
小さな赤い表示が、星図のあちこちで点滅している。
「多いですね」
ミリアが言った。
「はい」
「どこから始めますか」
レオンは、しばらく星図を見ていた。
グライフは空のコーヒーカップを机に置いた。クラリッサは外務省へ送る連絡文を開いている。ミリアは端末を準備した。
赤い点は、まだ消えていなかった。完全な沈黙ではない。細い通信が残っている。救難信号がある。遅れた報告がある。名簿の空欄がある。
「まだ応答があるところから」
レオンは言った。
ミリアは、その言葉を記録した。新しい任務名の下に、最初の項目を作る。
北方戦線、応答確認。
その瞬間、星図の端で、一つの赤い点が明滅した。
遠い前線からの、短い信号だった。
『こちら第九補給艇団。航路不明。指示を求む』
ミリアはレオンを見た。レオンは頷いた。
彼女は回線を開いた。
「こちら帝国軍務省北方戦線撤収・補給再編特別監察官代理室。状況を送ってください」
少し長すぎる名乗りだった。グライフ大佐が顔をしかめた。
だが、回線の向こうから、雑音まじりの声が返ってきた。
『応答あり。助かった』
ミリアは、端末に手を置いた。
助かったかどうかは、まだ分からない。けれど、応答はあった。
ならば、そこにはまだ誰かがいる。
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