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銀河帝国の敗戦処理官、撤退命令だけで三万人を救う  作者: 鷹山
第一部 消えなかった名前たち
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戻った者たち

 ノア・カザン船長は、礼服を着ていなかった。

 古い船長服の上に、修理跡の残るジャケットを羽織っていた。貴族院職員が何度も身なりを注意したが、彼は聞かなかったらしい。

 証言席に立つなり、彼は言った。

「先に言っておくが、《リベルテ》の修理代はまだ払われていない」

 議場の空気が少しだけ崩れた。グライフ大佐が咳払いをしたが、肩が揺れていた。

 伯爵は表情を変えなかった。

「カザン船長、あなたは軍の指揮下にない民間船長ですね」

「だったら何だ。軍の指揮下にない船も、凍れば沈む」

「言葉に注意を」

「なら、質問も船に役立つものにしてくれ」

 ミリアは思わず視線を落とした。笑うわけにはいかない。

 ノアは続けた。

「雪線で《リベルテ》は凍りかけた。氷晶回廊では他の船を曳いた。白航路では、敵が撃たないと言った道を通った。どれも好きでやったわけじゃない。乗せた連中を死なせないためだ」

「それはクラウゼン少佐の功績ですか」

「違う」

 ノアは即答した。

 伯爵の目が少し動いた。

「船を動かしたのは船長だ。機関を直したのは技師だ。泣く子を黙らせたのは母親だ。クラウゼン少佐が全部やったわけじゃない」

 ノアはレオンを見た。

「だが、燃料が必要な時に燃料を寄越した。逃げる道が必要な時に道を開けた。軍艦が入れない白航路の出口に、民間補給船を置いた。俺に言えるのはそれだけだ」

「それだけ?」

「船乗りには十分だ」

     -

 ユーン所長の証言は、技術的すぎて半分ほど議場に伝わっていなかった。

 彼はアステル観測ステーションの分散観測網について、精度低下、補助センサーの誤差、民間船団の航行計算機の限界を延々と説明した。

 伯爵が途中で遮る。

「所長、要するにアステル本体は失われたのですね」

「そうです」

「観測精度も落ちた」

「落ちました。腹立たしいほどに」

「では、失敗では?」

 ユーン所長は眼鏡を押し上げた。

「研究としては失敗です。施設運用としても大失敗です。私の三十年を返してほしい」

 彼はそこでミリアを見た。

「しかし、人員は全員退避しました。観測も六割は残った。美しくはないが、ゼロではない。あの時のエーレンベルク中尉の判断は、私より冷静でした」

 ミリアは少し俯いた。

 所長は不満そうに付け足した。

「ただし、分散観測網の精度改善は急務です。予算をください」

 議場がわずかにざわついた。

 グライフ大佐が小声で言った。

「強いな、学者は」

     -

 最後に流されたのは、中立回線を経由したサリカ補給基地司令官、エルンスト・ハイデン中佐の録画証言だった。

 彼は現在、同盟軍の捕虜である。

 映像には、簡素な収容室が映っていた。ハイデン中佐は、痩せていたが、軍服は整えていた。

『私はサリカ補給基地を武装解除し、同盟軍に引き渡した』

 その声に、議場が重くなる。

『帝都からの正式命令は、まだ届いていなかった。現地判断である』

 伯爵の顔は動かなかった。

『クラウゼン少佐から届いたのは、降伏命令ではない。補給評価だった。基地機能維持不能。人員保全を優先する場合、武装解除または後退を含む現地判断が必要。そう書かれていた』

 ハイデンは、少し間を置いた。

『私はそれを読んだ。読み、基地の燃料と砲台と負傷者数を見た。そして武装解除を選んだ』

 彼は正面を見た。

『正しかったかどうかは、帰国後に裁かれればよい。だが、私は名簿を作った。部下を行方不明にはしなかった。捕虜になったことを、敵にも味方にも記録させた』

 映像が止まった。

 議場には、長い沈黙が残った。

 アルムで消された捕虜。サリカで自ら名簿を作った捕虜。その二つが、誰の説明もなく重なった。

     -

 ミリアの番が来た。

 彼女は証言席に立ち、端末を接続した。大議場の中央に、二つの資料が投影される。

 一つは、帝国北方戦線の地図。もう一つは、名簿だった。

 地図には、後退した線が示されている。名簿には、戻った者たちの名前が並んでいる。

 グリムワルト生還艦艇。カレリア撤収者。アルム帰還捕虜。雪線搬出民間人。氷晶回廊通過船団。サリカ捕虜名簿。

 ミリアは、静かに説明を始めた。

「この地図は、帝国が失った場所を示しています。否定しません」

 彼女は次に、名簿を示した。

「こちらは、その場所から戻った人、移された人、捕虜として確認された人、治療中の人、まだ照合中の人を示しています」

 伯爵が言った。

「中尉、あなたの資料は、帝国が後退した事実を否定しない」

「はい」

「ならば、何のための資料です」

 ミリアは、地図と名簿を並べた。

「後退した場所から、誰が戻ったかを示すためです」

 その言葉は、議場にまっすぐ届いた。

 彼女は続けた。

「全員ではありません。戻れなかった人もいます。行方不明も、死亡確認もあります。ですから、これは勝利の資料ではありません」

 ミリアは一度、息を吸った。

「ただ、空欄のままにしないための資料です」

 レオンは彼女を見ていた。何も言わない。だが、その沈黙は以前とは少し違って見えた。

 伯爵は、ゆっくりと拍手でもしそうなほど穏やかに言った。

「見事な資料です、中尉」

 そして、すぐに声を変えた。

「ですが、資料の美しさと国家の安全は別問題です」

     -

 エーベルハルト伯爵は、再び議場中央に立った。ここからが、彼の本当の反撃だった。

「証言者の皆様には感謝します。なるほど、クラウゼン少佐は多くの人命を救った。これは認めましょう」

 伯爵は、星図へ振り返った。

「しかし、その結果として、帝国は後退した。ここにいる誰も、その事実を否定できない」

 彼は白航路を表示した。自由星系同盟軍が提示した民間避難航路。その線が、帝国の補給基地を迂回し、サリカを孤立させた経路を示している。

「さらに問題なのは、敵がすでにクラウゼン少佐の性質を読んでいることです。白航路がその証拠です」

 議場に緊張が走った。

「ヴェガ提督は、民間人を攻撃しないと通告した。クラウゼン少佐は、それを利用した。結果、民間船団は逃げ、サリカ補給基地は孤立し、武装解除した」

 伯爵はレオンを見た。

「敵はあなたの判断基準を利用している。民間人。捕虜。負傷者。名簿。あなたはそれらを見せられれば、必ずそちらを選ぶ。これは美徳ではありません。軍事上の脆弱性です」

 誰もすぐには反論しなかった。

 それは、事実の一部だったからだ。ヴェガは読んでいる。レオンが何を見捨てないかを。

 ミリアは、思わずレオンを見た。彼は表情を変えなかった。

「クラウゼン少佐」

 伯爵が問いかける。

「認めますか。敵があなたの性質を利用していることを」

「はい」

 議場が大きくざわついた。

 伯爵の声が低くなる。

「認めるのですか」

「敵が利用していることは」

「それでも続けると?」

 レオンは、白航路の表示を見た。

「敵が読むからといって、こちらの読むべき数字が変わるわけではありません」

「詭弁です」

「敵に利用されないために、民間船を凍らせるなら、敵は何もしなくて済みます」

 伯爵の目が鋭くなった。

「あなたは帝国軍人です」

「はい」

「軍人は、時に人を見捨ててでも戦線を守らねばならない」

「はい」

 レオンは否定しなかった。

「その時もあります」

「では、なぜあなたは」

「今回は、その時ではありませんでした」

 短い答えだった。

 伯爵はさらに踏み込もうとした。

 その時、大議場の後方扉が静かに開いた。


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