戻った者たち
ノア・カザン船長は、礼服を着ていなかった。
古い船長服の上に、修理跡の残るジャケットを羽織っていた。貴族院職員が何度も身なりを注意したが、彼は聞かなかったらしい。
証言席に立つなり、彼は言った。
「先に言っておくが、《リベルテ》の修理代はまだ払われていない」
議場の空気が少しだけ崩れた。グライフ大佐が咳払いをしたが、肩が揺れていた。
伯爵は表情を変えなかった。
「カザン船長、あなたは軍の指揮下にない民間船長ですね」
「だったら何だ。軍の指揮下にない船も、凍れば沈む」
「言葉に注意を」
「なら、質問も船に役立つものにしてくれ」
ミリアは思わず視線を落とした。笑うわけにはいかない。
ノアは続けた。
「雪線で《リベルテ》は凍りかけた。氷晶回廊では他の船を曳いた。白航路では、敵が撃たないと言った道を通った。どれも好きでやったわけじゃない。乗せた連中を死なせないためだ」
「それはクラウゼン少佐の功績ですか」
「違う」
ノアは即答した。
伯爵の目が少し動いた。
「船を動かしたのは船長だ。機関を直したのは技師だ。泣く子を黙らせたのは母親だ。クラウゼン少佐が全部やったわけじゃない」
ノアはレオンを見た。
「だが、燃料が必要な時に燃料を寄越した。逃げる道が必要な時に道を開けた。軍艦が入れない白航路の出口に、民間補給船を置いた。俺に言えるのはそれだけだ」
「それだけ?」
「船乗りには十分だ」
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ユーン所長の証言は、技術的すぎて半分ほど議場に伝わっていなかった。
彼はアステル観測ステーションの分散観測網について、精度低下、補助センサーの誤差、民間船団の航行計算機の限界を延々と説明した。
伯爵が途中で遮る。
「所長、要するにアステル本体は失われたのですね」
「そうです」
「観測精度も落ちた」
「落ちました。腹立たしいほどに」
「では、失敗では?」
ユーン所長は眼鏡を押し上げた。
「研究としては失敗です。施設運用としても大失敗です。私の三十年を返してほしい」
彼はそこでミリアを見た。
「しかし、人員は全員退避しました。観測も六割は残った。美しくはないが、ゼロではない。あの時のエーレンベルク中尉の判断は、私より冷静でした」
ミリアは少し俯いた。
所長は不満そうに付け足した。
「ただし、分散観測網の精度改善は急務です。予算をください」
議場がわずかにざわついた。
グライフ大佐が小声で言った。
「強いな、学者は」
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最後に流されたのは、中立回線を経由したサリカ補給基地司令官、エルンスト・ハイデン中佐の録画証言だった。
彼は現在、同盟軍の捕虜である。
映像には、簡素な収容室が映っていた。ハイデン中佐は、痩せていたが、軍服は整えていた。
『私はサリカ補給基地を武装解除し、同盟軍に引き渡した』
その声に、議場が重くなる。
『帝都からの正式命令は、まだ届いていなかった。現地判断である』
伯爵の顔は動かなかった。
『クラウゼン少佐から届いたのは、降伏命令ではない。補給評価だった。基地機能維持不能。人員保全を優先する場合、武装解除または後退を含む現地判断が必要。そう書かれていた』
ハイデンは、少し間を置いた。
『私はそれを読んだ。読み、基地の燃料と砲台と負傷者数を見た。そして武装解除を選んだ』
彼は正面を見た。
『正しかったかどうかは、帰国後に裁かれればよい。だが、私は名簿を作った。部下を行方不明にはしなかった。捕虜になったことを、敵にも味方にも記録させた』
映像が止まった。
議場には、長い沈黙が残った。
アルムで消された捕虜。サリカで自ら名簿を作った捕虜。その二つが、誰の説明もなく重なった。
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ミリアの番が来た。
彼女は証言席に立ち、端末を接続した。大議場の中央に、二つの資料が投影される。
一つは、帝国北方戦線の地図。もう一つは、名簿だった。
地図には、後退した線が示されている。名簿には、戻った者たちの名前が並んでいる。
グリムワルト生還艦艇。カレリア撤収者。アルム帰還捕虜。雪線搬出民間人。氷晶回廊通過船団。サリカ捕虜名簿。
ミリアは、静かに説明を始めた。
「この地図は、帝国が失った場所を示しています。否定しません」
彼女は次に、名簿を示した。
「こちらは、その場所から戻った人、移された人、捕虜として確認された人、治療中の人、まだ照合中の人を示しています」
伯爵が言った。
「中尉、あなたの資料は、帝国が後退した事実を否定しない」
「はい」
「ならば、何のための資料です」
ミリアは、地図と名簿を並べた。
「後退した場所から、誰が戻ったかを示すためです」
その言葉は、議場にまっすぐ届いた。
彼女は続けた。
「全員ではありません。戻れなかった人もいます。行方不明も、死亡確認もあります。ですから、これは勝利の資料ではありません」
ミリアは一度、息を吸った。
「ただ、空欄のままにしないための資料です」
レオンは彼女を見ていた。何も言わない。だが、その沈黙は以前とは少し違って見えた。
伯爵は、ゆっくりと拍手でもしそうなほど穏やかに言った。
「見事な資料です、中尉」
そして、すぐに声を変えた。
「ですが、資料の美しさと国家の安全は別問題です」
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エーベルハルト伯爵は、再び議場中央に立った。ここからが、彼の本当の反撃だった。
「証言者の皆様には感謝します。なるほど、クラウゼン少佐は多くの人命を救った。これは認めましょう」
伯爵は、星図へ振り返った。
「しかし、その結果として、帝国は後退した。ここにいる誰も、その事実を否定できない」
彼は白航路を表示した。自由星系同盟軍が提示した民間避難航路。その線が、帝国の補給基地を迂回し、サリカを孤立させた経路を示している。
「さらに問題なのは、敵がすでにクラウゼン少佐の性質を読んでいることです。白航路がその証拠です」
議場に緊張が走った。
「ヴェガ提督は、民間人を攻撃しないと通告した。クラウゼン少佐は、それを利用した。結果、民間船団は逃げ、サリカ補給基地は孤立し、武装解除した」
伯爵はレオンを見た。
「敵はあなたの判断基準を利用している。民間人。捕虜。負傷者。名簿。あなたはそれらを見せられれば、必ずそちらを選ぶ。これは美徳ではありません。軍事上の脆弱性です」
誰もすぐには反論しなかった。
それは、事実の一部だったからだ。ヴェガは読んでいる。レオンが何を見捨てないかを。
ミリアは、思わずレオンを見た。彼は表情を変えなかった。
「クラウゼン少佐」
伯爵が問いかける。
「認めますか。敵があなたの性質を利用していることを」
「はい」
議場が大きくざわついた。
伯爵の声が低くなる。
「認めるのですか」
「敵が利用していることは」
「それでも続けると?」
レオンは、白航路の表示を見た。
「敵が読むからといって、こちらの読むべき数字が変わるわけではありません」
「詭弁です」
「敵に利用されないために、民間船を凍らせるなら、敵は何もしなくて済みます」
伯爵の目が鋭くなった。
「あなたは帝国軍人です」
「はい」
「軍人は、時に人を見捨ててでも戦線を守らねばならない」
「はい」
レオンは否定しなかった。
「その時もあります」
「では、なぜあなたは」
「今回は、その時ではありませんでした」
短い答えだった。
伯爵はさらに踏み込もうとした。
その時、大議場の後方扉が静かに開いた。
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