灰色の地図
貴族院軍務委員会の大議場には、地図が掲げられていた。
帝国北方戦線の星図である。青が帝国軍の支配宙域。赤が自由星系同盟軍の進出宙域。白は中立航路。そして灰色は、放棄された要塞、撤収済みの補給基地、帰属不明となった宙域だった。
グリムワルト回廊。カレリア要塞群。アルム採掘衛星。雪線要塞群。氷晶回廊。サリカ補給基地。
それらの名前が、星図上に静かに並んでいる。
ルドルフ・フォン・エーベルハルト伯爵は、その地図の前に立っていた。
彼はいつものように穏やかな顔をしていた。声も柔らかい。だが、その指先が示す星々は、どれも帝国が失った場所だった。
「クラウゼン少佐」
伯爵は言った。
「あなたが関わった戦場を並べると、帝国の地図は見事に小さくなっている」
議場は静まり返っていた。
レオン・クラウゼン少佐は、証言席に立っていた。隣にはミリア・エーレンベルク中尉。少し離れた席に、マティアス・グライフ大佐とクラリッサ・フォン・ヴァイト参事官がいる。
大議場には、貴族院の軍務委員、軍務省の高官、外務省の調停官、監察局の職員、そして証人として呼ばれた者たちが並んでいた。
白い大理石の床。高い天井。磨き上げられた議席。
ここには血の匂いも、焼けた装甲の匂いも、低温粒子に凍る船体の軋みもない。だが、戦場より冷たい場所だった。
「はい」
レオンは答えた。
短い肯定。
伯爵の微笑がわずかに深くなる。
「では確認しましょう。グリムワルト回廊では、あなたは司令官命令に先んじて補給船団と医療艦を動かした。カレリアでは、帝国北方の盾と呼ばれた要塞群を放棄する計画を主導した。アルムでは、存在しないはずの捕虜を名簿に戻し、敵との交渉材料を増やした」
伯爵は一歩、星図の前を歩いた。
「その後、あなたは北方補給線に介入し、雪線要塞群を撤収させ、氷晶回廊では敵機雷原の中を民間船団に通らせた。さらにサリカ補給基地では、敵が提示した白航路の使用を事実上認め、同基地の武装解除を促す補給評価を送った」
彼は振り返った。
「これらは事実ですね」
「はい」
「では、あなたの任務は帝国を後退させることですか」
「いいえ」
「では、なぜ常に後退する」
議場の空気が少し動いた。誰もがその問いを待っていたようだった。
レオンは、正面の地図を見た。青が減り、灰色が増えている。それは事実だった。
「前に進める状態ではありませんでした」
「状態が悪ければ、下がるのですか」
「下がれなければ、崩れます」
「あなたは崩壊を避けたと言いたい?」
「はい」
伯爵は卓上の資料を一枚持ち上げた。
「クラウゼン少佐。国家は死者数だけで測れません。領土、威信、抑止力、同盟国への信頼、敵国への圧力。あなたの記録には、それらがあまりにも軽く扱われている」
レオンは答えなかった。
伯爵は続けた。
「人が生きた。それは結構。ですが、その人々が帰る土地を失えば、いずれ帝国は何を守るのですか」
静かな問いだった。単なる悪意ではない。伯爵の言葉は、国家を語る者の言葉として一定の重みを持っていた。
レオンは少し間を置いて言った。
「失った土地を戻すには時間がかかります」
「分かっているなら、なぜ」
「人も、戻すには時間がかかります」
議場の端で、小さく息を呑む音がした。
伯爵は、目を細めた。
「うまい言葉ですな」
「うまくはありません。事実です」
「では、その事実とやらを聞きましょう」
伯爵は証言席の方へ視線を向けた。
「まず、グリムワルト回廊の件から」
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最初の証人は、ユリウス・ハルトマン大尉だった。
駆逐艦の艦長。グリムワルト回廊で、旗艦護衛を離れ、通信巡洋艦を護衛した男である。
彼の左腕はまだ完全には動かないらしく、敬礼は少しぎこちなかった。だが、声ははっきりしていた。
「私は当時、旗艦の護衛任務についていました」
ハルトマンは言った。
「敵の包囲が始まった時、旗艦からは護衛継続命令が出ていました。しかし、クラウゼン少佐の退避勧告を受け、私は通信巡洋艦の護衛へ移りました」
伯爵が静かに尋ねる。
「命令違反を認めるのですね」
「はい」
「軍人として、それを恥じませんか」
「恥じています」
ハルトマンは即答した。
「ですが、命令通り旗艦周囲に留まっていれば、《アルゲン》は沈んでいました。《アルゲン》が沈めば、第三駆逐隊、第二巡洋艦群、医療艦隊への通信は途絶していた可能性が高い」
彼は一度、言葉を切った。
「私の艦でも死者は出ました。全員を救えたわけではありません。ですが、通信が残ったことで、戻れた艦がありました。私の部下も、その中にいます」
伯爵は資料へ目を落とした。
「あなたは、クラウゼン少佐の判断が司令官命令より正しかったと?」
「戦場の結果としては、そうです」
「結果論ですな」
「はい」
ハルトマンは伯爵を見た。
「生き残った者の証言は、たいてい結果論です」
議場が少しざわついた。伯爵はそれ以上追及しなかった。
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次に映し出されたのは、オットー・フォン・ゼッケンドルフ大将の映像だった。
カレリア要塞群司令官。老将はまだ療養中だった。肩に包帯を巻き、椅子に座っている。だが、片目の義眼は相変わらず鋭かった。
『私は、カレリアを守るつもりだった』
映像の中で、ゼッケンドルフは言った。
『いや、正確に言うべきだな。私は、カレリアと共に死ぬつもりだった』
議場が静かになる。
『帝国北方の門を預かった司令官として、それが責任だと思っていた。部下にも、そう示すつもりだった』
伯爵が映像に向かって問いかける。
「ゼッケンドルフ大将。クラウゼン少佐は、その司令官としての覚悟を妨げた、ということですか」
『そうだ』
老将は即答した。
『あの男は、私から死に場所を奪った』
ミリアは思わず手元の資料を握った。
だが、ゼッケンドルフは続けた。
『そして私は、そのことを今も恥じている。死んでいれば、責任を取った顔ができた。だが、生き残った私は、燃料が足りなかったこと、避難民の数が隠されていたこと、兵站記録が歪んでいたことを報告しなければならなかった』
老将は、画面の向こうで背筋を伸ばした。
『生きて報告する恥は、死んで逃げる名誉より役に立った。私はそう記録する』
誰も、すぐには言葉を発しなかった。伯爵の微笑も、その時だけ消えていた。
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エリナ・ファルク医師は、直接議場に来ていた。
白衣ではなく、簡素な礼服を着ていたが、袖口にはまだ医療従事者の癖が残っている。手首には、搬送患者の識別タグを束ねた細い輪がつけられていた。
「カレリア撤収時、私は民間人と負傷兵の搬送に関わりました」
彼女は言った。
「最初、私はクラウゼン少佐を信用していませんでした。彼は誰を乗せ、誰を後回しにするかを数字で決めた。私には冷酷に見えました」
伯爵が言う。
「今は違うと?」
「今も、冷酷だと思っています」
エリナの答えに、議場がかすかに揺れた。
「ただし、恣意ではありませんでした。階級、家柄、軍人か民間人かではなく、生命維持装置の必要性、搬送可能時間、次便の見込みで順番が決まりました。私は、それに従って患者を乗せました」
「全員を救えたのですか」
「いいえ」
彼女の声は硬かった。
「救えなかった患者もいます。搬送船に乗せられなかった人もいます。途中で亡くなった子どももいました」
エリナはレオンを見なかった。
「それでも、あの時、撤収を始めなければ、医療区画は七日で崩壊していました。私は医師です。死者の数を少なくしたことを、勝利とは呼びません。ですが、治療を続ける時間を作ったことは事実です」
伯爵は静かに頷いた。
「ありがとうございます、ファルク医師」
次に呼ばれたのは、ハンナ・リート技師だった。彼女は、アルム採掘衛星から帰還した民間技師である。
議場に入った時、少し足が震えていた。彼女は貴族院の大理石の床に慣れていない。軍人でもない。だが、手に持った小さな端末だけはしっかり握っていた。
「私は、アルム採掘衛星にいました」
ハンナは言った。
「カレリア撤収時、退避船は来ませんでした。私たちは同盟軍に投降しました」
彼女は端末を開いた。
「帰還後、自分の名前を探しました。公式記録では、私は戦闘前に退避済みでした」
議場が少しざわつく。
「退避していないのに、退避したことになっていました」
伯爵は、穏やかに口を挟んだ。
「戦時下の混乱により、記録の遅延や錯誤は避けられません。あなたが帰還し、訂正されたのであれば、それは制度が機能した証とも言えます」
ハンナは少し俯いた。だが、次に顔を上げた時、その目は揺れていなかった。
「錯誤なら、直せます」
彼女は言った。
「でも、私たちは、直されるまで帰っていないのと同じでした」
伯爵は答えなかった。
ハンナは続けた。
「クラウゼン少佐が私を助けたのかどうか、私は分かりません。同盟軍の収容所から帰したのは交換交渉ですし、交渉には多くの人が関わっています。ただ、私の名前が名簿に戻った。そのことは、覚えています」
-
証言は続いた。
雪線要塞群のイザーク・ベルン少将は、録画ではなく直接出席した。彼は、帝都の議場で少し居心地悪そうに立っていた。
「雪線要塞群は、補給が届いた時点で防衛可能と報告されました」
ベルンは言った。
「しかし、実際には補給が届いたことで可能になったのは、防衛ではなく撤収でした。燃料が入り、医療物資が届き、避難船が動かせるようになった」
伯爵が問う。
「それは、あなた自身の判断ですか」
「はい」
「クラウゼン少佐に誘導されたのでは」
「誘導はされました」
ベルンは正直に言った。議場がざわめく。
「ですが、命令したのは私です。低温粒子嵐対応訓練として船団を動かし、最後に雪線要塞群を放棄する判断をしたのも私です」
「帝都の保持命令に反したと」
「はい」
「なぜ」
ベルンは少しだけ言葉を探した。
「帝都の命令は、現地より三十二時間遅れていました。私はその三十二時間を、部下と民間人の命で支払う気になれませんでした」
伯爵の視線が冷えた。
「軍人として、危険な考えです」
「承知しています」
「後悔は?」
「あります」
ベルンは、まっすぐ答えた。
「要塞を捨てたことではありません。もっと早く、自分でその判断を口にできなかったことです」
その言葉は、議場の軍人たちに重く落ちた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
これにて第一部「消えなかった名前たち」は一区切りとなります。
敗戦処理官として各地の戦場に送られてきたレオンですが、次からは北方戦線全域を見なければならない立場になります。
これまでのように、ひとつの要塞、ひとつの船団、ひとつの名簿だけを相手にしていればよい状況ではありません。
第二部では、レオンに小規模ながら実働部隊が与えられます。
逃がすための艦隊。
救うための艦隊。
そして必要なら、敵と正面から渡り合う艦隊です。
彼が本来、勝つ戦場でも前線に立てた人物だったのか。
それとも、やはり負け戦でしか力を発揮できない男なのか。
第二部では、そのあたりも少しずつ描いていければと思います。
引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。




