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銀河帝国の敗戦処理官、撤退命令だけで三万人を救う  作者: 鷹山
第一部 消えなかった名前たち
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灰色の地図

 貴族院軍務委員会の大議場には、地図が掲げられていた。

 帝国北方戦線の星図である。青が帝国軍の支配宙域。赤が自由星系同盟軍の進出宙域。白は中立航路。そして灰色は、放棄された要塞、撤収済みの補給基地、帰属不明となった宙域だった。

 グリムワルト回廊。カレリア要塞群。アルム採掘衛星。雪線要塞群。氷晶回廊。サリカ補給基地。

 それらの名前が、星図上に静かに並んでいる。

 ルドルフ・フォン・エーベルハルト伯爵は、その地図の前に立っていた。

 彼はいつものように穏やかな顔をしていた。声も柔らかい。だが、その指先が示す星々は、どれも帝国が失った場所だった。

「クラウゼン少佐」

 伯爵は言った。

「あなたが関わった戦場を並べると、帝国の地図は見事に小さくなっている」

 議場は静まり返っていた。

 レオン・クラウゼン少佐は、証言席に立っていた。隣にはミリア・エーレンベルク中尉。少し離れた席に、マティアス・グライフ大佐とクラリッサ・フォン・ヴァイト参事官がいる。

 大議場には、貴族院の軍務委員、軍務省の高官、外務省の調停官、監察局の職員、そして証人として呼ばれた者たちが並んでいた。

 白い大理石の床。高い天井。磨き上げられた議席。

 ここには血の匂いも、焼けた装甲の匂いも、低温粒子に凍る船体の軋みもない。だが、戦場より冷たい場所だった。

「はい」

 レオンは答えた。

 短い肯定。

 伯爵の微笑がわずかに深くなる。

「では確認しましょう。グリムワルト回廊では、あなたは司令官命令に先んじて補給船団と医療艦を動かした。カレリアでは、帝国北方の盾と呼ばれた要塞群を放棄する計画を主導した。アルムでは、存在しないはずの捕虜を名簿に戻し、敵との交渉材料を増やした」

 伯爵は一歩、星図の前を歩いた。

「その後、あなたは北方補給線に介入し、雪線要塞群を撤収させ、氷晶回廊では敵機雷原の中を民間船団に通らせた。さらにサリカ補給基地では、敵が提示した白航路の使用を事実上認め、同基地の武装解除を促す補給評価を送った」

 彼は振り返った。

「これらは事実ですね」

「はい」

「では、あなたの任務は帝国を後退させることですか」

「いいえ」

「では、なぜ常に後退する」

 議場の空気が少し動いた。誰もがその問いを待っていたようだった。

 レオンは、正面の地図を見た。青が減り、灰色が増えている。それは事実だった。

「前に進める状態ではありませんでした」

「状態が悪ければ、下がるのですか」

「下がれなければ、崩れます」

「あなたは崩壊を避けたと言いたい?」

「はい」

 伯爵は卓上の資料を一枚持ち上げた。

「クラウゼン少佐。国家は死者数だけで測れません。領土、威信、抑止力、同盟国への信頼、敵国への圧力。あなたの記録には、それらがあまりにも軽く扱われている」

 レオンは答えなかった。

 伯爵は続けた。

「人が生きた。それは結構。ですが、その人々が帰る土地を失えば、いずれ帝国は何を守るのですか」

 静かな問いだった。単なる悪意ではない。伯爵の言葉は、国家を語る者の言葉として一定の重みを持っていた。

 レオンは少し間を置いて言った。

「失った土地を戻すには時間がかかります」

「分かっているなら、なぜ」

「人も、戻すには時間がかかります」

 議場の端で、小さく息を呑む音がした。

 伯爵は、目を細めた。

「うまい言葉ですな」

「うまくはありません。事実です」

「では、その事実とやらを聞きましょう」

 伯爵は証言席の方へ視線を向けた。

「まず、グリムワルト回廊の件から」

     -

 最初の証人は、ユリウス・ハルトマン大尉だった。

 駆逐艦ヴァイスの艦長。グリムワルト回廊で、旗艦護衛を離れ、通信巡洋艦アルゲンを護衛した男である。

 彼の左腕はまだ完全には動かないらしく、敬礼は少しぎこちなかった。だが、声ははっきりしていた。

「私は当時、旗艦グローリアの護衛任務についていました」

 ハルトマンは言った。

「敵の包囲が始まった時、旗艦からは護衛継続命令が出ていました。しかし、クラウゼン少佐の退避勧告を受け、私は通信巡洋艦アルゲンの護衛へ移りました」

 伯爵が静かに尋ねる。

「命令違反を認めるのですね」

「はい」

「軍人として、それを恥じませんか」

「恥じています」

 ハルトマンは即答した。

「ですが、命令通り旗艦周囲に留まっていれば、《アルゲン》は沈んでいました。《アルゲン》が沈めば、第三駆逐隊、第二巡洋艦群、医療艦隊への通信は途絶していた可能性が高い」

 彼は一度、言葉を切った。

「私の艦でも死者は出ました。全員を救えたわけではありません。ですが、通信が残ったことで、戻れた艦がありました。私の部下も、その中にいます」

 伯爵は資料へ目を落とした。

「あなたは、クラウゼン少佐の判断が司令官命令より正しかったと?」

「戦場の結果としては、そうです」

「結果論ですな」

「はい」

 ハルトマンは伯爵を見た。

「生き残った者の証言は、たいてい結果論です」

 議場が少しざわついた。伯爵はそれ以上追及しなかった。

     -

 次に映し出されたのは、オットー・フォン・ゼッケンドルフ大将の映像だった。

 カレリア要塞群司令官。老将はまだ療養中だった。肩に包帯を巻き、椅子に座っている。だが、片目の義眼は相変わらず鋭かった。

『私は、カレリアを守るつもりだった』

 映像の中で、ゼッケンドルフは言った。

『いや、正確に言うべきだな。私は、カレリアと共に死ぬつもりだった』

 議場が静かになる。

『帝国北方の門を預かった司令官として、それが責任だと思っていた。部下にも、そう示すつもりだった』

 伯爵が映像に向かって問いかける。

「ゼッケンドルフ大将。クラウゼン少佐は、その司令官としての覚悟を妨げた、ということですか」

『そうだ』

 老将は即答した。

『あの男は、私から死に場所を奪った』

 ミリアは思わず手元の資料を握った。

 だが、ゼッケンドルフは続けた。

『そして私は、そのことを今も恥じている。死んでいれば、責任を取った顔ができた。だが、生き残った私は、燃料が足りなかったこと、避難民の数が隠されていたこと、兵站記録が歪んでいたことを報告しなければならなかった』

 老将は、画面の向こうで背筋を伸ばした。

『生きて報告する恥は、死んで逃げる名誉より役に立った。私はそう記録する』

 誰も、すぐには言葉を発しなかった。伯爵の微笑も、その時だけ消えていた。

     -

 エリナ・ファルク医師は、直接議場に来ていた。

 白衣ではなく、簡素な礼服を着ていたが、袖口にはまだ医療従事者の癖が残っている。手首には、搬送患者の識別タグを束ねた細い輪がつけられていた。

「カレリア撤収時、私は民間人と負傷兵の搬送に関わりました」

 彼女は言った。

「最初、私はクラウゼン少佐を信用していませんでした。彼は誰を乗せ、誰を後回しにするかを数字で決めた。私には冷酷に見えました」

 伯爵が言う。

「今は違うと?」

「今も、冷酷だと思っています」

 エリナの答えに、議場がかすかに揺れた。

「ただし、恣意ではありませんでした。階級、家柄、軍人か民間人かではなく、生命維持装置の必要性、搬送可能時間、次便の見込みで順番が決まりました。私は、それに従って患者を乗せました」

「全員を救えたのですか」

「いいえ」

 彼女の声は硬かった。

「救えなかった患者もいます。搬送船に乗せられなかった人もいます。途中で亡くなった子どももいました」

 エリナはレオンを見なかった。

「それでも、あの時、撤収を始めなければ、医療区画は七日で崩壊していました。私は医師です。死者の数を少なくしたことを、勝利とは呼びません。ですが、治療を続ける時間を作ったことは事実です」

 伯爵は静かに頷いた。

「ありがとうございます、ファルク医師」

 次に呼ばれたのは、ハンナ・リート技師だった。彼女は、アルム採掘衛星から帰還した民間技師である。

 議場に入った時、少し足が震えていた。彼女は貴族院の大理石の床に慣れていない。軍人でもない。だが、手に持った小さな端末だけはしっかり握っていた。

「私は、アルム採掘衛星にいました」

 ハンナは言った。

「カレリア撤収時、退避船は来ませんでした。私たちは同盟軍に投降しました」

 彼女は端末を開いた。

「帰還後、自分の名前を探しました。公式記録では、私は戦闘前に退避済みでした」

 議場が少しざわつく。

「退避していないのに、退避したことになっていました」

 伯爵は、穏やかに口を挟んだ。

「戦時下の混乱により、記録の遅延や錯誤は避けられません。あなたが帰還し、訂正されたのであれば、それは制度が機能した証とも言えます」

 ハンナは少し俯いた。だが、次に顔を上げた時、その目は揺れていなかった。

「錯誤なら、直せます」

 彼女は言った。

「でも、私たちは、直されるまで帰っていないのと同じでした」

 伯爵は答えなかった。

 ハンナは続けた。

「クラウゼン少佐が私を助けたのかどうか、私は分かりません。同盟軍の収容所から帰したのは交換交渉ですし、交渉には多くの人が関わっています。ただ、私の名前が名簿に戻った。そのことは、覚えています」

     -

 証言は続いた。

 雪線要塞群のイザーク・ベルン少将は、録画ではなく直接出席した。彼は、帝都の議場で少し居心地悪そうに立っていた。

「雪線要塞群は、補給が届いた時点で防衛可能と報告されました」

 ベルンは言った。

「しかし、実際には補給が届いたことで可能になったのは、防衛ではなく撤収でした。燃料が入り、医療物資が届き、避難船が動かせるようになった」

 伯爵が問う。

「それは、あなた自身の判断ですか」

「はい」

「クラウゼン少佐に誘導されたのでは」

「誘導はされました」

 ベルンは正直に言った。議場がざわめく。

「ですが、命令したのは私です。低温粒子嵐対応訓練として船団を動かし、最後に雪線要塞群を放棄する判断をしたのも私です」

「帝都の保持命令に反したと」

「はい」

「なぜ」

 ベルンは少しだけ言葉を探した。

「帝都の命令は、現地より三十二時間遅れていました。私はその三十二時間を、部下と民間人の命で支払う気になれませんでした」

 伯爵の視線が冷えた。

「軍人として、危険な考えです」

「承知しています」

「後悔は?」

「あります」

 ベルンは、まっすぐ答えた。

「要塞を捨てたことではありません。もっと早く、自分でその判断を口にできなかったことです」

 その言葉は、議場の軍人たちに重く落ちた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


これにて第一部「消えなかった名前たち」は一区切りとなります。


敗戦処理官として各地の戦場に送られてきたレオンですが、次からは北方戦線全域を見なければならない立場になります。

これまでのように、ひとつの要塞、ひとつの船団、ひとつの名簿だけを相手にしていればよい状況ではありません。


第二部では、レオンに小規模ながら実働部隊が与えられます。


逃がすための艦隊。

救うための艦隊。

そして必要なら、敵と正面から渡り合う艦隊です。


彼が本来、勝つ戦場でも前線に立てた人物だったのか。

それとも、やはり負け戦でしか力を発揮できない男なのか。


第二部では、そのあたりも少しずつ描いていければと思います。


引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。

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