ひどい網
アステル観測ステーションの最後の退避船が離れたのは、同盟軍小部隊が外壁へ取りつく十三分前だった。
ミリアは退避船の窓から、白い観測塔を見ていた。
三本のうち一本は沈黙している。一本は自動送信を続けている。最後の一本は、同盟軍の妨害波に揺れながら、断続的にデータを吐き出している。
ステーション本体は失われる。だが、観測は完全には止まっていない。
民間船団のセンサーが、補給艇の外部計測器が、雪線要塞に残された気象装置が、小さな観測点として動き始めている。
精度は六割。美しくない。けれど、生きている。
ユーン所長は、窓のそばで無言だった。
ミリアは彼に端末を渡した。
「分散観測網、稼働しています。調整をお願いします」
所長は端末を受け取った。しばらく画面を見つめ、それから小さく言った。
「ひどい網だ」
「はい」
「誤差が大きい」
「はい」
「だが、目が多い」
「はい」
ユーンは、ようやく椅子に座った。
「アステルは失われた」
「はい」
「人員は」
「全員退避しました」
「観測網は」
「六割維持」
「六割か」
彼は疲れた顔で笑った。
「研究報告なら落第だな」
「撤退報告なら」
「どうなる」
ミリアは少し考えた。
「再提出可、でしょうか」
所長は声を出して笑った。
それは、退避船の中で初めて聞こえた笑いだった。
-
三つの報告が、同じ夜に監察局へ戻った。
氷晶回廊。避難船団通過率、八割超。犠牲者、四十名以上。船体喪失、四隻。民間船、中破。
黒嶺補給基地。第二補給便到着。積荷、基地倉庫を経由せず各艦へ直接配分。貴族院から抗議、十二件。補給線、暫定維持。
アステル観測ステーション。人員全員退避。ステーション本体、同盟軍占拠。観測網、分散稼働。予測精度、六割前後。
レオンが監察局へ戻った時、ミリアはすでに帰還していた。
彼女は疲れた顔で端末を抱えていた。髪は少し乱れ、軍服の袖にはステーションの油汚れがついている。
「アステル本体は失いました」
ミリアは報告した。
「人員は全員退避。観測網は六割維持。残したデータは暗号化済み。同盟軍が取得できるのは、古い観測記録だけです」
レオンは頷いた。
「十分です」
ミリアは、少しだけ唇を噛んだ。
「少佐なら、もっと残せたかもしれません」
「私は、そこにいませんでした」
それだけだった。褒め言葉でも、慰めでもない。ただの事実。
なのに、ミリアはそれで息がしやすくなった。
そこにいたのは自分だった。判断したのも自分だった。失ったものも、自分の記録に残る。残せたものも。
グライフ大佐が、三つの報告を並べて見ていた。
「全体としては、負けだな」
「はい」
レオンが答える。
「だが、全滅ではない」
「はい」
「この言い方にも慣れてきた。嫌だな」
グライフは机に背を預けた。
「氷晶回廊は民間船団の八割。黒嶺は補給維持。アステルは人員全員退避、観測六割。悪くない」
「悪くない、で済むんですか」
ミリアが聞いた。
「済まない」
グライフは即答した。
「だから報告書を書く」
ミリアは小さく笑った。
その時、監察局の端末に新しい通信が入った。
差出人は、民間船。ノア・カザン船長。
本文は短かった。
『船はまだ浮いている。借りはまた返さない。次に会うまでに修理代を用意しておけ』
グライフが笑った。
「いい船長だ」
レオンは真面目に言った。
「修理代の申請を」
「本当に出すのか」
「船団救助に必要な損耗です」
「貴族院が泣くぞ」
「船の方が先に泣いています」
グライフは少しだけ目を丸くし、それから深く笑った。
「少佐、冗談がうまくなってきたな」
「今のは事実です」
「なお悪い」
-
同じ頃、自由星系同盟軍旗艦では、三方面作戦の結果が報告されていた。
アレクサンドル・ヴェガは、星図上の三点を見ていた。
氷晶回廊、帝国避難船団の大半が通過。黒嶺補給基地、補給線維持。アステル観測ステーション、施設占拠。ただし人員なし。観測網は分散継続。
副官が言った。
「戦術的には、アステルを占拠しました。氷晶回廊でも一部損害を与えています。黒嶺の補給も遅延させました」
「だが、崩れていない」
ヴェガは言った。
「はい」
「一か所では足りなかったか」
副官は少し眉をひそめた。
「三か所でした」
「それでも足りなかった」
ヴェガは、帝国側の反応記録を見た。
氷晶回廊にはクラウゼン。黒嶺には監察局のグライフ。アステルにはエーレンベルク中尉。それぞれ、別の判断があった。同じではない。だが、似た方向を向いている。
「クラウゼンを追うだけでは遅い」
ヴェガは言った。
「次は、彼が追わずにいられないものを動かす」
「民間船団ですか」
「それも一つ」
「捕虜?」
「それも一つ」
ヴェガは星図を切り替えた。
帝国北方に残る民間避難航路。同盟軍の進路。中立ステーション。補給基地。そして、帝国の古い安全航路図。
「彼らは、撃てないものをよく知っている」
ヴェガは静かに言った。
「ならば、こちらは撃たずに取れるものを探す」
-
帝都の夜は、相変わらず静かだった。
監察局では、三方面の報告書作成が始まっている。氷晶回廊の死者名簿。黒嶺補給基地の配分記録。アステル分散観測網の精度報告。
どれも、勝利報告ではない。どれも、敗北報告だけでもない。
ミリアは自分の机で、アステルの退避者名簿を確認していた。
百二十三名。全員退避。
その文字を見て、ようやく少しだけ肩の力が抜けた。
隣の机で、レオンが氷晶回廊の行方不明者欄を埋めている。四名。まだ確認が取れていない。
部屋の奥では、グライフ大佐が貴族院からの抗議文を開封もせずに積み上げている。
「大佐、読まないんですか」
ミリアが聞くと、彼は答えた。
「表題は読んだ」
「何と」
「『監察局による重大な越権行為について』」
「中身は」
「だいたい同じだ」
レオンが言った。
「返信は」
「書いた」
グライフは一枚の紙を掲げた。
『ご指摘感謝。人員救助および補給維持を優先した。詳細は添付の一二七項目を参照』
ミリアは思わず笑った。
「嫌がらせですか」
「報告だ」
「一二七項目も?」
「少なくないか」
レオンは真面目に言った。
「氷晶回廊分を足せば、二百を超えます」
「よし、厚くしろ。紙は盾になる」
監察局に、少しだけ笑いが落ちた。
その直後、端末が短く鳴った。
外務省戦時調停局からだった。差出人は、クラリッサ・フォン・ヴァイト。
件名。
『同盟軍より、民間避難航路に関する通告』
ミリアは笑みを消した。レオンが端末を開く。
内容は短い。
自由星系同盟軍は、帝国北方宙域の一部民間船団に対し、安全通行可能な航路を提示した。同航路を通行する民間船には攻撃を加えない。軍艦の随伴は認めない。通行期限は四十八時間。
通告者。アレクサンドル・ヴェガ。
グライフが低く唸った。
「敵が避難路を出してきたか」
ミリアは画面を見つめた。
「罠でしょうか」
レオンはすぐには答えなかった。
星図上に、同盟軍が提示した白い航路が表示される。それは、帝国の補給基地を迂回していた。
民間船は逃げられる。だが、その航路を使えば、周辺の補給基地は民間人の支援を失い、軍事拠点として孤立する。撃たずに、剥がす。
ヴェガの考えが、静かに見えた。
「少佐」
ミリアが言った。
「どう見ますか」
レオンは白い航路を見ていた。
「撃たない理由が、向こうにもあるのでしょう」
「信じるのですか」
「信じるわけではありません」
彼は、通行期限の数字を見た。四十八時間。短い。だが、間に合う。
「使えるかどうかを見ます」
ミリアは頷いた。
窓の外で、帝都の夜が静かに光っている。その静けさの向こうで、敵が白い道を差し出していた。
白い停戦旗に似た道。
だが、その先に何があるのかは、まだ誰も知らなかった。




