同時多発撤退戦
氷晶回廊の機雷原は、予定より早く動いた。
同盟軍の機雷の一部が、自律移動型だったのだ。除去艇が開いた細い航路へ、機雷がゆっくりと寄ってくる。
護衛隊長が叫んだ。
「航路維持不能! 再計算が必要です!」
「時間は」
「二十分」
「船団は」
「第一群、航路進入済み。第二群、待機中。第三群、まだ後方です」
レオンは星図を見た。
第一群を戻せば、後続と衝突する。第二群を止めれば、粒子嵐に捕まる。第三群を置けば、遅い船ばかりが残る。
ノアから通信が入った。
『少佐、後方の遅い船をこっちに寄せろ。《リベルテ》で押す』
「機雷が動いています」
『見えている』
「危険です」
『危険でない場所を案内してくれ』
レオンは機雷の移動速度を見た。除去艇の残弾。曳航可能距離。《リベルテ》の船体強度。
「航路を二本に分けます」
護衛隊長が声を上げた。
「無理です! 一本でも維持できていない!」
「一本目は民間船団。二本目は機雷を流すための偽航路です」
「偽航路?」
「除去艇で空白を作り、無人標識艇を流します。機雷をそちらへ寄せます」
「標識艇が足りません」
「避難船団の空コンテナを使います」
ノアが通信で笑った。
『コンテナに灯りをつけて流せばいい。機雷に餌をやるわけだ』
「はい」
『船長たちには俺から言う。荷物を捨てろとな』
「荷物ではなく、空コンテナです」
『船乗りにとっては、空でも財産だ』
「記録します」
『補償してくれるのか』
「努力します」
『なら、期待しないでおく』
船団の貨物ハッチが開き、空コンテナが放出される。それらに簡易熱源と識別信号をつけ、機雷原の外側へ流す。
機雷がゆっくりとそちらへ寄っていく。完全ではない。何基かは本航路へ残る。それを除去艇が命がけで処理した。
船団が動く。一隻ずつ。細い航路を、白い霧の中へ。
レオンは船名を数え続けた。
通過。通過。軽微損傷。通過。推進不良、曳航。通過。
-
黒嶺補給基地では、第二補給便が出発した。
だが、その直後に貴族院から正式抗議が届いた。
『監察局による越権行為の疑いあり。補給便は目的地到着後、積荷を凍結し、配分には軍務委員会の再承認を要する』
若い監察官は青くなった。
「到着しても配れません」
「配る」
グライフは即答した。
「でも、再承認が」
「黒嶺基地に送れ」
『積荷到着後、凍結措置を実施せよ』
監察官が目を丸くする。
「大佐?」
「続けて送れ」
『ただし、医療物資、燃料、酸素ユニット、熱交換器、通信部品については凍結対象外とする』
「全部じゃないですか」
「嗜好品と式典用旗は凍結される」
「送っていたんですか、式典用旗」
「帝国はそういう国だ」
グライフは次の書類を開いた。
「さらに、貴族院へ返信」
『ご指示通り凍結措置を実施。生命維持関連物資は戦時例外規定により即時配分。詳細は後日報告』
監察官は呆れた顔をした。
「それ、怒られます」
「だから後日だ」
「後日ならいいんですか」
「前線では、後日まで生きていれば勝ちだ」
グライフは、ふと表情を変えた。
黒嶺基地から追加通信。
『補給便到着見込み。敵偵察部隊、外縁航路に接近。基地司令部、補給船の受け入れを優先するか、退避準備を優先するか指示を求む』
グライフは画面を見た。補給を受け入れれば基地に物資が入る。退避準備を優先すれば船は残せる。両方は難しい。
「まったく」
彼は低く言った。
「どいつもこいつも、指示を求めすぎだ」
少し考え、返信する。
『補給船は基地へ接岸させるな。外縁で積荷を小分けし、各艦へ直接配分。基地倉庫に入れるな。基地が落ちれば物資ごと失う』
監察官が言った。
「基地司令部が反発します。基地を信用していないと」
「信用していない」
「大佐」
「基地ではなく、状況をだ」
グライフは、コーヒーを飲もうとして、空になっていることに気づいた。
「誰かコーヒーを」
「今ですか」
「今だ。補給の話をしている」
-
アステルの退避は、静かに始まった。
ミリアはまず、観測データを三つに分けた。過去データ。現在観測値。予測モデル。
過去データは暗号化し、中立ステーションの記録庫へ送信。現在観測値は、北方各船団へ分散送信。予測モデルは、アステルの主装置から切り離し、民間船の航行計算機でも読める形式に変換した。
ユーン所長は、その作業を見て不満そうに言った。
「精度が落ちる」
「はい」
「美しくない」
「はい」
「観測とは、もっと厳密なものです」
「退避も、できれば厳密にしたいです」
ミリアは端末から顔を上げなかった。
「ですが、時間がありません」
所長はしばらく黙った。それから、観測員へ指示を出した。
「第三塔の補助センサーを切り離せ。民間規格へ変換する。美しくはないが、死ぬよりましだ」
観測員たちが動き始める。
同盟軍の小型艇は、すでに外縁まで接近していた。攻撃はまだない。だが、通信妨害は強くなっている。
ミリアは要員退避の進捗を確認した。
第一便、発進。第二便、搭乗中。第三便、機関暖機中。残り、三十四名。
そこに、通信兵が叫んだ。
「中尉! 主観測塔から自動送信が止まりました!」
「原因は」
「妨害ではありません。内部制御系の凍結です」
ユーン所長の顔色が変わった。
「主塔が止まれば、予測精度は三割を切る」
「復旧には」
「手動再起動が必要だ。塔の基部へ行く」
所長は防寒服を手に取った。
ミリアは彼の前に立った。
「退避準備を」
「聞こえなかったのですか。主塔が止まる」
「聞こえました」
「私は所長だ」
「はい」
「なら、行く」
ミリアは、一瞬だけ目を閉じた。
レオンなら、何を問うだろう。必要か。代替はあるか。生還率は。失敗した時、何が残るか。
「所長」
「何です」
「手動再起動に必要な操作は、あなたでなければできませんか」
「訓練された者ならできる」
「何人いますか」
「……六人」
「そのうち、退避船に乗っていない人は」
「二人」
「生還率は」
所長は答えなかった。
ミリアが代わりに計算した。塔基部までの移動。低温粒子被曝。同盟軍接近。帰還時間。
「三九パーセント」
所長は言った。
「なら、行く価値はある」
「帰れなかった場合、操作結果は維持されますか」
「数時間は」
「その後は」
「また落ちる」
ミリアは端末を操作した。
「主塔は捨てます」
「何だと」
「補助センサーを優先。民間船団の航行センサーを追加。雪線要塞の残存気象装置を引き込みます。主塔復旧より精度は落ちますが、退避は続けられます」
「君は、アステルを何だと思っている」
所長の声が震えた。
「三十年、ここで観測してきた。北方航路は、この塔で読んできた。この塔を捨てるということが、君に分かるのか」
「分かりません」
ミリアは答えた。
所長が息を呑む。
「私は、ここで三十年働いていません」
ミリアは続けた。
「だから、所長ほど失うものを分かっていません。ですが、退避船に乗る人の数は分かります」
彼女は画面を見せた。残り三十四名。その中に、所長の名前もある。
「所長がいなければ、散らした観測網を誰も調整できません。塔より、あなたの方が持ち出せるものが多い」
ユーン所長は、長い間、何も言わなかった。やがて、手にしていた防寒服を机に置いた。
「美しくない」
「はい」
「だが、観測者は生きていればまた観測できる」
「はい」
「その言葉は、君の少佐の受け売りか」
ミリアは少しだけ考えた。
「たぶん、少し違います」
所長は、疲れたように笑った。
「なら、君の言葉だ」
-
氷晶回廊の避難船団は、八割が機雷原を抜けた。
だが、全てではない。最後尾の五隻が遅れた。粒子嵐が近づき、機雷の偽航路も崩れ始めている。
ノアの《リベルテ》は、すでに二隻を曳いていた。
『少佐、もう一隻ならいける』
「船体負荷が限界です」
『船体に聞いたのか』
「数値に出ています」
『船は数値より少しだけ無理がきく』
「壊れたら」
『叱ってくれ』
レオンは星図を見た。
残る船は五隻。うち三隻は自力で低速航行可能。一隻は曳航が必要。最後の一隻、貨物船は推進器損傷。乗員と避難民、百九十名。
救助艇を送れば、他船団の通過が遅れる。見捨てれば、百九十名。
護衛隊長が言った。
「救助艇を出しますか」
レオンは数値を見た。
救助成功率、四二パーセント。救助に伴う船団全体の遅延、二十三分。その二十三分で、機雷群がどれだけ移動するか。粒子嵐がどれだけ近づくか。
「救助艇を出します」
レオンは言った。
護衛隊長が驚いた。
「船団全体が危険に」
「《ミルカ》の乗員を救助した後、船体を偽航路へ流します」
「船体を?」
「熱源として使えます」
ノアが通信越しに低く言った。
『嫌な使い方だ』
「はい」
『だが、船なら最後に航路を開けるのも仕事だ』
《ミルカ》から救助艇が人を拾った。全員ではない。百九十名のうち、百七十二名。十八名は、爆発で確認不能となった。
空になった貨物船は、遠隔操作で機雷群の外縁へ流された。古い船体が、最後の熱を放つ。機雷が寄る。爆発が起きる。
氷晶の霧の中に、青白い火球が広がった。その間に、最後尾の船団が航路を抜けた。
レオンは記録した。
船団通過、五十二隻。大破放棄、三隻。行方不明、二十二名。死亡確認、十八名。避難民搬出、九千六百。
成功ではない。失敗でもない。
いつものように、名前を書く余地が残った。
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