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銀河帝国の敗戦処理官、撤退命令だけで三万人を救う  作者: 鷹山
第一部 消えなかった名前たち
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軽い勝利

 雪線要塞群は放棄された。

 帝国北方の防衛線は、また一つ下がった。

 同盟軍は雪線要塞を占領した。破壊された砲台。空になった医療区画。凍りついた通路。残された備品。そして、無人の放送が流れていた。

『低温粒子嵐対応訓練は終了しました。係員の指示に従い、帰投してください』

 ヴェガは占領報告を受け取った。

「要塞は確保しました」

 副官が言った。

「帝国軍の人的損害は軽微。民間船団の大半が離脱。負傷者搬送も成功した模様です」

「そうか」

「戦術的には勝利です」

「そうだな」

 ヴェガは雪線要塞の映像を見た。空の通路。消えた船団。動かない砲台。

「軽いな」

「不満ですか」

「いや」

 ヴェガは目を閉じた。

「軽い勝利で済んだことを、喜ぶべきなのだろう」

 副官は何も言わなかった。

 ヴェガは星図を切り替えた。帝国北方戦線。補給線は細いが、生きている。撤退路も、予想より早く開かれた。

 帝国は負けている。だが、崩れ方が少し変わっている。

「次は、同時に押す」

 ヴェガは言った。

「一か所なら、彼は間に合う」

「複数なら?」

「誰が間に合うかを見る」

     -

 雪線要塞群撤収後、ベルン少将は帝都へ報告書を送った。

 その内容は簡潔だった。

 補給は到着した。だが、保持可能期間は帝都の判断より短かった。民間船団の低温劣化は限界に近かった。通信遅延により、現地状況は中央判断へ正確に反映されていなかった。

 監察局派遣のクラウゼン少佐およびエーレンベルク中尉による通信再編と補給再配分により、民間人および負傷者の搬出が可能になった。

 雪線要塞群の放棄は、現地状況に照らして妥当であった。

 ミリアは、その報告書を読んで少し驚いた。

「少佐」

「何ですか」

「ベルン少将が、かなりはっきり書いています」

 レオンは端末を受け取って読み、頷いた。

「生きて報告する司令官が増えましたね」

「良いことですか」

「嫌がる人は多いでしょう」

「少佐は?」

「報告書が増えます」

 ミリアは小さく笑った。

「それは良いことですか」

「必要なことです」

 帝都へ戻ったレオンたちを待っていたのは、当然、エーベルハルト伯爵だった。

 貴族院軍務委員会の会議室。前と同じ白大理石。前と同じ微笑。ただし、その微笑は少し薄くなっていた。

「クラウゼン少佐」

 伯爵は言った。

「また、防衛線が下がりました」

「はい」

「あなたが関わると、帝国の地図が小さくなる」

「人の数は、思ったほど減りませんでした」

 伯爵は沈黙した。会議室の誰かが資料をめくる音だけがした。

「帝国は、土地でできています」

 伯爵は静かに言った。

「人も住んでいます」

「土地を失えば、人もいずれ失う」

「人を失えば、土地を取り返す者もいません」

 伯爵の微笑が消えた。

「あなたの理屈は、軍人にしては危うい」

「伯爵の理屈は、地図に向きすぎています」

「地図を軽んじる軍人は、国を失う」

「地図だけを見る軍人は、国民を失います」

 空気が張りつめた。

 ミリアは背筋を伸ばした。

 伯爵は、やがて資料を閉じた。

「雪線要塞群の件は、現地司令官の報告もあります。今回のところは、正式な処分は見送られるでしょう」

「ありがとうございます」

「礼を言う場面ではありません」

「では、記録しておきます」

「そういうところです、少佐」

 伯爵は目を細めた。

「あなたは、ますます面倒になっている」

 レオンは答えなかった。

     -

 監察局へ戻ると、グライフ大佐がベルン少将の報告書を読んでいた。

「現場が、お前を庇い始めたな」

 彼は言った。

「迷惑ですね」

「そうだ。人望は監察局の敵だ」

 ミリアは思わず笑いそうになった。

 グライフは彼女を見た。

「中尉もだ。通信屋が前線で顔を売ると、次から全員が直接頼ってくる」

「困りますか」

「非常に困る。仕事が増える」

「それは困りますね」

「分かっていない顔だな」

 グライフは机の上に新しい資料を置いた。

 雪線要塞撤収後の損耗記録。民間人搬出、八千四百十二名。負傷兵搬出、六百三名。戦死者、百二十六名。行方不明、四十一名。要塞放棄、七基。防衛線後退。

 勝利ではない。だが、予測された死者数よりはるかに少なかった。

「少佐」

 ミリアは言った。

「《リベルテ》から受領報告が来ています」

「ノア船長ですか」

「はい。本文は短いです」

「読み上げてください」

 ミリアは少しだけ口元を緩めた。

「『船は凍らなかった。借りは返さない。返す前にまた頼まれそうだから』」

 グライフ大佐が笑った。

「良い船長だ」

 レオンは端末を見た。

「記録に残します」

「そこまで真面目に?」

 ミリアが聞く。

「船が凍らなかったことは重要です」

「借りの部分は?」

「備考欄へ」

 ミリアは今度こそ笑った。

 その時、監察局の主端末が警告音を鳴らした。

 新しい前線報告。北方の三つの小戦線から、ほぼ同時に緊急通信が入っていた。

 第一、氷晶回廊の避難民集積地。

 第二、黒嶺補給基地。

 第三、アステル観測ステーション。

 いずれも同盟軍の圧力を受けている。いずれも撤退判断が必要。いずれも、通信遅延または指揮系統の混乱を抱えている。

 ミリアは画面を見つめた。

「三か所……」

 グライフ大佐の表情から笑みが消えた。

「偶然ではないな」

 レオンは星図を表示した。三つの光点が、北方戦線に赤く点滅している。

 一人では、全部に行けない。時間も足りない。帝都の会議を待っていれば、さらに遅れる。

「少佐」

 ミリアは言った。

「どこへ行きますか」

 レオンはすぐには答えなかった。星図を見ている。数字を見ている。距離を見ている。死者数の予測を見ている。

 やがて、彼は言った。

「私が行く場所を決めます」

「はい」

「中尉が行く場所も決めます」

 ミリアは一瞬、息を止めた。

「私が?」

「通信網を作れます。記録も守れます。現地の数字も読めます」

「ですが、私は」

 レオンは彼女を見た。

「雪線で、命令より先に船を動かしました」

 ミリアは言葉を失った。

 グライフ大佐が、冷めたコーヒーを持ち上げた。

「よかったな、中尉。監察局では、できると判断された者から順に不幸になる」

「それは励ましですか」

「警告だ」

 レオンは星図上の三点を指した。

「氷晶回廊は私が行きます。民間人が最も多い。黒嶺補給基地はグライフ大佐に帝都側から押さえていただきます。アステル観測ステーションは、中尉」

「私が現地へ?」

「はい」

 ミリアはアステルの報告を見た。

 観測ステーション。人員は少ない。だが、北方全域の低温粒子流を予測する観測拠点であり、そこが落ちれば撤退航路の予測精度が下がる。

 つまり、少人数だが、失えば多くの撤退路が暗くなる。

「指揮権はありません」

 彼女は言った。

「私も、たいていありません」

「少佐」

「必要なのは、まず現地の通信です」

 レオンは静かに言った。

「届くようにしてください」

 ミリアは端末を握った。

 怖くないと言えば嘘になる。自分はレオンではない。敗戦処理官でもない。ただの通信参謀だ。

 だが、カレリアで通信網を作った。アルムで名を戻した。雪線で命令の順番を変えた。その全てが、今ここへつながっている。

「了解しました」

 ミリアは敬礼した。

 グライフ大佐がぼそりと言った。

「おい、誰か私の分身を申請してくれ」

「却下されるでしょう」

 レオンが言う。

「その場合は意見書を――」

 ミリアは言いかけて、やめた。同じ冗談を繰り返す気にはならなかった。

 代わりに、彼女は端末を開き、三つの現地通信経路を表示した。

「意見書より先に、回線を開けます」

 レオンがわずかに頷いた。グライフ大佐は、少しだけ満足そうに笑った。

 帝都の窓の外では、昼の光が白く広がっている。だが、星図の上では三つの前線が赤く点滅していた。

 補給は届いた。撤退路も、一度は開いた。それでも、戦場は一つではなかった。

 ミリアはアステル観測ステーションへの通信要求を送った。数秒遅れて、応答が返る。

『こちらアステル。通信状態不安定。指示を求む』

 彼女は深く息を吸った。そして、返した。

『こちら帝国軍務省監察局、エーレンベルク中尉。状況を送ってください。まず、聞きます』


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