軽い勝利
雪線要塞群は放棄された。
帝国北方の防衛線は、また一つ下がった。
同盟軍は雪線要塞を占領した。破壊された砲台。空になった医療区画。凍りついた通路。残された備品。そして、無人の放送が流れていた。
『低温粒子嵐対応訓練は終了しました。係員の指示に従い、帰投してください』
ヴェガは占領報告を受け取った。
「要塞は確保しました」
副官が言った。
「帝国軍の人的損害は軽微。民間船団の大半が離脱。負傷者搬送も成功した模様です」
「そうか」
「戦術的には勝利です」
「そうだな」
ヴェガは雪線要塞の映像を見た。空の通路。消えた船団。動かない砲台。
「軽いな」
「不満ですか」
「いや」
ヴェガは目を閉じた。
「軽い勝利で済んだことを、喜ぶべきなのだろう」
副官は何も言わなかった。
ヴェガは星図を切り替えた。帝国北方戦線。補給線は細いが、生きている。撤退路も、予想より早く開かれた。
帝国は負けている。だが、崩れ方が少し変わっている。
「次は、同時に押す」
ヴェガは言った。
「一か所なら、彼は間に合う」
「複数なら?」
「誰が間に合うかを見る」
-
雪線要塞群撤収後、ベルン少将は帝都へ報告書を送った。
その内容は簡潔だった。
補給は到着した。だが、保持可能期間は帝都の判断より短かった。民間船団の低温劣化は限界に近かった。通信遅延により、現地状況は中央判断へ正確に反映されていなかった。
監察局派遣のクラウゼン少佐およびエーレンベルク中尉による通信再編と補給再配分により、民間人および負傷者の搬出が可能になった。
雪線要塞群の放棄は、現地状況に照らして妥当であった。
ミリアは、その報告書を読んで少し驚いた。
「少佐」
「何ですか」
「ベルン少将が、かなりはっきり書いています」
レオンは端末を受け取って読み、頷いた。
「生きて報告する司令官が増えましたね」
「良いことですか」
「嫌がる人は多いでしょう」
「少佐は?」
「報告書が増えます」
ミリアは小さく笑った。
「それは良いことですか」
「必要なことです」
帝都へ戻ったレオンたちを待っていたのは、当然、エーベルハルト伯爵だった。
貴族院軍務委員会の会議室。前と同じ白大理石。前と同じ微笑。ただし、その微笑は少し薄くなっていた。
「クラウゼン少佐」
伯爵は言った。
「また、防衛線が下がりました」
「はい」
「あなたが関わると、帝国の地図が小さくなる」
「人の数は、思ったほど減りませんでした」
伯爵は沈黙した。会議室の誰かが資料をめくる音だけがした。
「帝国は、土地でできています」
伯爵は静かに言った。
「人も住んでいます」
「土地を失えば、人もいずれ失う」
「人を失えば、土地を取り返す者もいません」
伯爵の微笑が消えた。
「あなたの理屈は、軍人にしては危うい」
「伯爵の理屈は、地図に向きすぎています」
「地図を軽んじる軍人は、国を失う」
「地図だけを見る軍人は、国民を失います」
空気が張りつめた。
ミリアは背筋を伸ばした。
伯爵は、やがて資料を閉じた。
「雪線要塞群の件は、現地司令官の報告もあります。今回のところは、正式な処分は見送られるでしょう」
「ありがとうございます」
「礼を言う場面ではありません」
「では、記録しておきます」
「そういうところです、少佐」
伯爵は目を細めた。
「あなたは、ますます面倒になっている」
レオンは答えなかった。
-
監察局へ戻ると、グライフ大佐がベルン少将の報告書を読んでいた。
「現場が、お前を庇い始めたな」
彼は言った。
「迷惑ですね」
「そうだ。人望は監察局の敵だ」
ミリアは思わず笑いそうになった。
グライフは彼女を見た。
「中尉もだ。通信屋が前線で顔を売ると、次から全員が直接頼ってくる」
「困りますか」
「非常に困る。仕事が増える」
「それは困りますね」
「分かっていない顔だな」
グライフは机の上に新しい資料を置いた。
雪線要塞撤収後の損耗記録。民間人搬出、八千四百十二名。負傷兵搬出、六百三名。戦死者、百二十六名。行方不明、四十一名。要塞放棄、七基。防衛線後退。
勝利ではない。だが、予測された死者数よりはるかに少なかった。
「少佐」
ミリアは言った。
「《リベルテ》から受領報告が来ています」
「ノア船長ですか」
「はい。本文は短いです」
「読み上げてください」
ミリアは少しだけ口元を緩めた。
「『船は凍らなかった。借りは返さない。返す前にまた頼まれそうだから』」
グライフ大佐が笑った。
「良い船長だ」
レオンは端末を見た。
「記録に残します」
「そこまで真面目に?」
ミリアが聞く。
「船が凍らなかったことは重要です」
「借りの部分は?」
「備考欄へ」
ミリアは今度こそ笑った。
その時、監察局の主端末が警告音を鳴らした。
新しい前線報告。北方の三つの小戦線から、ほぼ同時に緊急通信が入っていた。
第一、氷晶回廊の避難民集積地。
第二、黒嶺補給基地。
第三、アステル観測ステーション。
いずれも同盟軍の圧力を受けている。いずれも撤退判断が必要。いずれも、通信遅延または指揮系統の混乱を抱えている。
ミリアは画面を見つめた。
「三か所……」
グライフ大佐の表情から笑みが消えた。
「偶然ではないな」
レオンは星図を表示した。三つの光点が、北方戦線に赤く点滅している。
一人では、全部に行けない。時間も足りない。帝都の会議を待っていれば、さらに遅れる。
「少佐」
ミリアは言った。
「どこへ行きますか」
レオンはすぐには答えなかった。星図を見ている。数字を見ている。距離を見ている。死者数の予測を見ている。
やがて、彼は言った。
「私が行く場所を決めます」
「はい」
「中尉が行く場所も決めます」
ミリアは一瞬、息を止めた。
「私が?」
「通信網を作れます。記録も守れます。現地の数字も読めます」
「ですが、私は」
レオンは彼女を見た。
「雪線で、命令より先に船を動かしました」
ミリアは言葉を失った。
グライフ大佐が、冷めたコーヒーを持ち上げた。
「よかったな、中尉。監察局では、できると判断された者から順に不幸になる」
「それは励ましですか」
「警告だ」
レオンは星図上の三点を指した。
「氷晶回廊は私が行きます。民間人が最も多い。黒嶺補給基地はグライフ大佐に帝都側から押さえていただきます。アステル観測ステーションは、中尉」
「私が現地へ?」
「はい」
ミリアはアステルの報告を見た。
観測ステーション。人員は少ない。だが、北方全域の低温粒子流を予測する観測拠点であり、そこが落ちれば撤退航路の予測精度が下がる。
つまり、少人数だが、失えば多くの撤退路が暗くなる。
「指揮権はありません」
彼女は言った。
「私も、たいていありません」
「少佐」
「必要なのは、まず現地の通信です」
レオンは静かに言った。
「届くようにしてください」
ミリアは端末を握った。
怖くないと言えば嘘になる。自分はレオンではない。敗戦処理官でもない。ただの通信参謀だ。
だが、カレリアで通信網を作った。アルムで名を戻した。雪線で命令の順番を変えた。その全てが、今ここへつながっている。
「了解しました」
ミリアは敬礼した。
グライフ大佐がぼそりと言った。
「おい、誰か私の分身を申請してくれ」
「却下されるでしょう」
レオンが言う。
「その場合は意見書を――」
ミリアは言いかけて、やめた。同じ冗談を繰り返す気にはならなかった。
代わりに、彼女は端末を開き、三つの現地通信経路を表示した。
「意見書より先に、回線を開けます」
レオンがわずかに頷いた。グライフ大佐は、少しだけ満足そうに笑った。
帝都の窓の外では、昼の光が白く広がっている。だが、星図の上では三つの前線が赤く点滅していた。
補給は届いた。撤退路も、一度は開いた。それでも、戦場は一つではなかった。
ミリアはアステル観測ステーションへの通信要求を送った。数秒遅れて、応答が返る。
『こちらアステル。通信状態不安定。指示を求む』
彼女は深く息を吸った。そして、返した。
『こちら帝国軍務省監察局、エーレンベルク中尉。状況を送ってください。まず、聞きます』
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