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銀河帝国の敗戦処理官、撤退命令だけで三万人を救う  作者: 鷹山
第一部 消えなかった名前たち
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雪線の撤退路

 ミリアは通信室にこもった。

 雪線要塞群の通信網は、見た目以上に悪かった。低温粒子の影響で中継ブイの出力が落ち、いくつかの回線は不安定になっている。さらに、同盟軍による微弱妨害が混じっていた。

 妨害そのものは小さい。通信を遮断するほどではない。だから厄介だった。

 遮断されれば、誰もが異常に気づく。遅れるだけなら、会議が遅れ、判断が遅れ、命令が遅れる。

 ミリアは通信履歴を重ねた。

 古い補給受領報告は、ほぼ遅延なく帝都へ届いている。最新の低温粒子嵐警報は、途中で十時間遅れている。民間船団の機関劣化報告は、優先度が下げられている。要塞外壁の亀裂報告は、帝都側の受信待ちに入ったまま止まっている。

「嘘は入っていません」

 ミリアは呟いた。

「ただ、遅い真実は嘘に似ます」

 通信兵が彼女を見た。

「中尉?」

「すみません。独り言です」

 彼女は通信経路を組み替えた。

 軍用主回線だけでは間に合わない。

 民間船団の短距離通信。要塞間整備用の旧回線。補給艇の航行ビーコン。低温観測衛星。

 カレリアで使った民間放送網ほど無秩序ではない。だが、雪線にもまだ使われていない細い道があった。

 彼女はレオンへ通信を入れた。

「少佐。帝都への最新報告は最短でも七時間かかります」

「撤退許可は」

「その後です。会議が挟まれば、さらに遅れます」

「現地で動かせるものは」

「医療搬送、民間船団移動、補給物資再配置、低温粒子嵐に伴う一時退避訓練」

「十分ですね」

「命令を変える権限はありません」

 ミリアは画面を見た。古い命令。新しい現実。その間に、人がいる。

「ですが、届かせる順番は変えられます」

 レオンは一拍置いて言った。

「任せます」

 それだけだった。十分だった。

 ミリアは雪線要塞群全域に通信を送った。

『低温粒子嵐接近に伴う一時再配置訓練を開始。

 医療搬送対象者は第一集合点へ。

 民間船団は機関温度維持のため、順次航路上へ移動。

 補給燃料は避難船および護衛艦に優先配分。

 各艦は訓練扱いで発進準備』

 撤退とは書いていない。だが、船は動く。

     -

 ベルン少将は、作戦室でその通信を見た。

「訓練?」

 彼はレオンを見た。

「これは撤退準備ではないのか」

「低温粒子嵐に伴う一時再配置訓練です」

「言い方を変えただけだ」

「はい」

 ベルンは苦い顔をした。

「クラウゼン少佐、私は撤退を拒んでいるわけではない」

「はい」

「撤退したいと言った瞬間、部下の心が折れるのが怖いのだ」

 それは初めて聞く本音だった。

 ベルンは立派な英雄ではない。逃げたいと思っている。だが、逃げたいと言えない。それが司令官だった。

 レオンは少しだけ沈黙し、それから言った。

「折れる前に、曲げます」

「何?」

「訓練で動かします。医療搬送で動かします。低温対策で動かします。部下が気づく頃には、もう船に乗っています」

「詐欺師だな」

「よく言われます」

「主に味方からか」

「最近は敵からも」

 ベルンは小さく笑った。すぐに真顔へ戻る。

「帝都が撤退を認めなかったら」

「一時再配置のままです」

「いつまで」

「戻れる場所がなくなるまで」

 ベルンは星図を見た。

 民間船団が少しずつ動き始めている。医療搬送船が要塞から離れ、護衛艦がその外側へ位置を変える。補給が届いたから、動ける。その事実だけが、今は救いだった。

「ベルン少将」

 レオンは言った。

「燃料が入った船は、前にも後ろにも進めます」

「帝都は前に進めと言っている」

「現地の司令官が舵を持っています」

 ベルンは長い沈黙の後、通信卓へ向かった。

「全要塞へ通達。低温粒子嵐対応訓練を実施する。各部隊は中尉の誘導に従え」

 通信兵が敬礼した。

「訓練ですか、閣下」

「訓練だ」

 ベルンは言った。

「本番より真面目にやれ」

     -

 最初に凍ったのは、民間船リベルテだった。

 ノア・カザンの船である。古い大型商船で、今は避難民七百名を乗せていた。子ども、高齢者、病人が多い。船体は古く、機関部の保温系統は何度も応急修理を受けている。

 発進準備中、主推進系統が低温固着を起こした。

 通信が入った時、ノアの声は荒れていた。

『こちら《リベルテ》。主機が凍った。補助推進だけでは航路に乗れない』

 ミリアが状態を確認する。

「修理には?」

『六時間』

「六時間後は粒子嵐の中です」

『知っている』

 ノアの背後で、子どもの泣き声が聞こえた。

 作戦室では、ベルン少将が星図を見ていた。

「軍用曳航船を出せば引ける」

 通信兵が言った。

「しかし、その曳航船は第三砲台群へ冷却材を運ぶ予定です」

 ベルンは目を閉じた。

 第三砲台群。雪線要塞群でまだ動く数少ない砲台群の一つ。冷却材がなければ、一門が撃てなくなる。その一門がなければ、護衛艦隊の退避時に穴が開く。

 すべてがつながっている。どこかを助ければ、どこかが薄くなる。

 ベルンは言った。

「冷却材輸送を優先する」

 ノアの通信が一瞬途切れた。そして、低い声が入る。

『それが軍の判断か』

 ベルンは答えなかった。

 レオンが口を開いた。

「第三砲台の射界は」

 ミリアが表示する。

「民間船団外縁の護衛用です」

「護衛対象は」

「《リベルテ》を含む第二船団です」

 レオンはベルンを見た。

「その砲台は、誰を守る予定でしたか」

 ベルンの顔が歪んだ。

「分かっている」

「では、曳航船を」

「分かっている!」

 怒号ではなかった。むしろ、自分に向けた声だった。

 ベルンは通信卓を叩いた。

軍用曳航船アイゼンを《リベルテ》へ向かわせろ。第三砲台群には、冷却材の半量を小型艇で分割輸送。時間はかかっても構わん」

「砲台稼働率が落ちます」

「落とせ。守る相手を失った砲台など、ただの高価な棺桶だ」

 作戦室が静まった。

 ミリアは通信を送った。曳航船アイゼンが進路を変える。低温粒子の霧の中、灰色の曳航船が古い民間船へ接近していく。

 ノアの声が入った。

『ベルン少将』

「何だ」

『借りができた』

「返すな。早く出ろ」

『そちらもな』

 通信が切れた。

 レオンはベルンを見た。

「良い判断です」

「褒めるな」

「はい」

「腹が立つ」

「よく言われます」

     -

 ヴェガは、帝国民間船団が動き始めたことに気づいた。

「早いな」

 彼は星図を見つめた。

 保持命令に縛られた帝国軍なら、もっと遅れるはずだった。帝都の許可を待ち、現地司令部が迷い、民間船団の移動は粒子嵐に阻まれる。そういう流れを想定していた。

 だが、民間船団は訓練名目で航路へ出始めている。医療搬送船も動いている。補給燃料は戦闘艦だけでなく、避難船へ流れている。

「クラウゼンか」

 ヴェガは呟いた。

 副官が尋ねる。

「追撃しますか」

「護衛艦隊へ圧力をかける。民間船には撃つな」

「またですか」

「不満か」

「いえ。ただ、帝国軍はこちらの方針を読み始めているのでは」

「読ませておけ」

 ヴェガは星図上の帝国護衛艦隊を指した。

「民間船を撃たないと知れば、彼らは民間船を盾にするかもしれない」

「それは危険です」

「だから見る」

「何を」

「クラウゼンが、そこまでする男かどうか」

 副官は黙った。

 ヴェガは命令を下した。同盟軍の軽巡部隊が雪線外縁へ展開する。砲撃圏には入らない。だが、護衛艦隊が無視できない距離へ迫る。

 帝国軍に選択を迫る距離。守るか。逃がすか。残るか。捨てるか。

「提督」

 副官が言った。

「帝国護衛艦が民間船団から離れません」

「離れない?」

「はい。民間船団の速度が上がっています。護衛艦は戦闘位置ではなく、航路外縁の誘導位置へ」

 ヴェガは目を細めた。

 民間船団そのものが加速している。護衛艦が敵を止めるのではなく、船団を逃がす時間を短くしている。補給で届いた燃料を、戦うためではなく、逃げるために燃やしている。

「そう来るか」

 ヴェガは、わずかに笑った。

「軽巡部隊、追撃距離を維持。撃つな。帝国護衛艦が反転した場合のみ応射」

「攻撃機は」

「出すな」

「なぜです」

「雪線の霧で識別が乱れる。民間船を誤射すれば、こちらの負けだ」

 副官は少し驚いた顔をした。

「こちらが、ですか」

「戦場の勝敗ではない」

 ヴェガは星図を見た。

「別の帳簿の話だ」

     -

 撤退許可が届いたのは、民間船団の半数が雪線宙域を離脱した後だった。

 帝都標準時で、保持命令発出から二十九時間後。

『雪線要塞群、現地状況悪化により、段階的後退を許可。

 民間船団および負傷者搬出を優先。

 要塞設備は可能な限り破壊。

 防衛線を第二雪線へ再編』

 ベルン少将はその命令書を読み、しばらく黙っていた。それから、椅子に座り込むように腰を下ろした。

「ようやく許可が来た」

 彼は言った。

「我々は、許可される前に助かり始めていたらしい」

 ミリアは画面から顔を上げた。疲労で目が重かったが、少しだけ笑った。

「正式には、低温粒子嵐対応訓練です」

「長い訓練だ」

「まだ終わっていません」

 レオンは星図を見ていた。

 残っているのは、第三船団、最後の負傷者搬送船、要塞司令部要員、砲台自動化班。

 同盟軍の軽巡部隊は外縁にいる。攻めてこない。だが、見ている。それだけで圧力になる。

「ベルン少将」

 レオンは言った。

「最後の要塞砲台は、自動化できますか」

「できる。命中率は落ちるが、牽制にはなる」

「砲台要員は」

「乗せる」

 ベルンは即答した。

 その言葉に、作戦室の何人かが彼を見た。

 ベルンは苦い顔をした。

「何だ。私が残れと言うと思ったか」

 副官が言葉に詰まる。

「少し前なら、そう言っていたかもしれん」

 ベルンは立ち上がった。

「だが、砲台は死ぬために撃つものではない。逃げる時間を作るために撃つ」

 レオンは何も言わなかった。ただ、星図上の撤退路を更新した。

 第三船団が動き出す。民間船。医療船。護衛艦。曳航船アイゼンに引かれる《リベルテ》。

 その最後尾で、雪線要塞群の砲台が自動照準に切り替わった。低温粒子の霧の中、砲火が青白く走る。

 敵を倒すためではない。追わせすぎないための線を引くために。


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