雪線の撤退路
ミリアは通信室にこもった。
雪線要塞群の通信網は、見た目以上に悪かった。低温粒子の影響で中継ブイの出力が落ち、いくつかの回線は不安定になっている。さらに、同盟軍による微弱妨害が混じっていた。
妨害そのものは小さい。通信を遮断するほどではない。だから厄介だった。
遮断されれば、誰もが異常に気づく。遅れるだけなら、会議が遅れ、判断が遅れ、命令が遅れる。
ミリアは通信履歴を重ねた。
古い補給受領報告は、ほぼ遅延なく帝都へ届いている。最新の低温粒子嵐警報は、途中で十時間遅れている。民間船団の機関劣化報告は、優先度が下げられている。要塞外壁の亀裂報告は、帝都側の受信待ちに入ったまま止まっている。
「嘘は入っていません」
ミリアは呟いた。
「ただ、遅い真実は嘘に似ます」
通信兵が彼女を見た。
「中尉?」
「すみません。独り言です」
彼女は通信経路を組み替えた。
軍用主回線だけでは間に合わない。
民間船団の短距離通信。要塞間整備用の旧回線。補給艇の航行ビーコン。低温観測衛星。
カレリアで使った民間放送網ほど無秩序ではない。だが、雪線にもまだ使われていない細い道があった。
彼女はレオンへ通信を入れた。
「少佐。帝都への最新報告は最短でも七時間かかります」
「撤退許可は」
「その後です。会議が挟まれば、さらに遅れます」
「現地で動かせるものは」
「医療搬送、民間船団移動、補給物資再配置、低温粒子嵐に伴う一時退避訓練」
「十分ですね」
「命令を変える権限はありません」
ミリアは画面を見た。古い命令。新しい現実。その間に、人がいる。
「ですが、届かせる順番は変えられます」
レオンは一拍置いて言った。
「任せます」
それだけだった。十分だった。
ミリアは雪線要塞群全域に通信を送った。
『低温粒子嵐接近に伴う一時再配置訓練を開始。
医療搬送対象者は第一集合点へ。
民間船団は機関温度維持のため、順次航路上へ移動。
補給燃料は避難船および護衛艦に優先配分。
各艦は訓練扱いで発進準備』
撤退とは書いていない。だが、船は動く。
-
ベルン少将は、作戦室でその通信を見た。
「訓練?」
彼はレオンを見た。
「これは撤退準備ではないのか」
「低温粒子嵐に伴う一時再配置訓練です」
「言い方を変えただけだ」
「はい」
ベルンは苦い顔をした。
「クラウゼン少佐、私は撤退を拒んでいるわけではない」
「はい」
「撤退したいと言った瞬間、部下の心が折れるのが怖いのだ」
それは初めて聞く本音だった。
ベルンは立派な英雄ではない。逃げたいと思っている。だが、逃げたいと言えない。それが司令官だった。
レオンは少しだけ沈黙し、それから言った。
「折れる前に、曲げます」
「何?」
「訓練で動かします。医療搬送で動かします。低温対策で動かします。部下が気づく頃には、もう船に乗っています」
「詐欺師だな」
「よく言われます」
「主に味方からか」
「最近は敵からも」
ベルンは小さく笑った。すぐに真顔へ戻る。
「帝都が撤退を認めなかったら」
「一時再配置のままです」
「いつまで」
「戻れる場所がなくなるまで」
ベルンは星図を見た。
民間船団が少しずつ動き始めている。医療搬送船が要塞から離れ、護衛艦がその外側へ位置を変える。補給が届いたから、動ける。その事実だけが、今は救いだった。
「ベルン少将」
レオンは言った。
「燃料が入った船は、前にも後ろにも進めます」
「帝都は前に進めと言っている」
「現地の司令官が舵を持っています」
ベルンは長い沈黙の後、通信卓へ向かった。
「全要塞へ通達。低温粒子嵐対応訓練を実施する。各部隊は中尉の誘導に従え」
通信兵が敬礼した。
「訓練ですか、閣下」
「訓練だ」
ベルンは言った。
「本番より真面目にやれ」
-
最初に凍ったのは、民間船だった。
ノア・カザンの船である。古い大型商船で、今は避難民七百名を乗せていた。子ども、高齢者、病人が多い。船体は古く、機関部の保温系統は何度も応急修理を受けている。
発進準備中、主推進系統が低温固着を起こした。
通信が入った時、ノアの声は荒れていた。
『こちら《リベルテ》。主機が凍った。補助推進だけでは航路に乗れない』
ミリアが状態を確認する。
「修理には?」
『六時間』
「六時間後は粒子嵐の中です」
『知っている』
ノアの背後で、子どもの泣き声が聞こえた。
作戦室では、ベルン少将が星図を見ていた。
「軍用曳航船を出せば引ける」
通信兵が言った。
「しかし、その曳航船は第三砲台群へ冷却材を運ぶ予定です」
ベルンは目を閉じた。
第三砲台群。雪線要塞群でまだ動く数少ない砲台群の一つ。冷却材がなければ、一門が撃てなくなる。その一門がなければ、護衛艦隊の退避時に穴が開く。
すべてがつながっている。どこかを助ければ、どこかが薄くなる。
ベルンは言った。
「冷却材輸送を優先する」
ノアの通信が一瞬途切れた。そして、低い声が入る。
『それが軍の判断か』
ベルンは答えなかった。
レオンが口を開いた。
「第三砲台の射界は」
ミリアが表示する。
「民間船団外縁の護衛用です」
「護衛対象は」
「《リベルテ》を含む第二船団です」
レオンはベルンを見た。
「その砲台は、誰を守る予定でしたか」
ベルンの顔が歪んだ。
「分かっている」
「では、曳航船を」
「分かっている!」
怒号ではなかった。むしろ、自分に向けた声だった。
ベルンは通信卓を叩いた。
「軍用曳航船を《リベルテ》へ向かわせろ。第三砲台群には、冷却材の半量を小型艇で分割輸送。時間はかかっても構わん」
「砲台稼働率が落ちます」
「落とせ。守る相手を失った砲台など、ただの高価な棺桶だ」
作戦室が静まった。
ミリアは通信を送った。曳航船が進路を変える。低温粒子の霧の中、灰色の曳航船が古い民間船へ接近していく。
ノアの声が入った。
『ベルン少将』
「何だ」
『借りができた』
「返すな。早く出ろ」
『そちらもな』
通信が切れた。
レオンはベルンを見た。
「良い判断です」
「褒めるな」
「はい」
「腹が立つ」
「よく言われます」
-
ヴェガは、帝国民間船団が動き始めたことに気づいた。
「早いな」
彼は星図を見つめた。
保持命令に縛られた帝国軍なら、もっと遅れるはずだった。帝都の許可を待ち、現地司令部が迷い、民間船団の移動は粒子嵐に阻まれる。そういう流れを想定していた。
だが、民間船団は訓練名目で航路へ出始めている。医療搬送船も動いている。補給燃料は戦闘艦だけでなく、避難船へ流れている。
「クラウゼンか」
ヴェガは呟いた。
副官が尋ねる。
「追撃しますか」
「護衛艦隊へ圧力をかける。民間船には撃つな」
「またですか」
「不満か」
「いえ。ただ、帝国軍はこちらの方針を読み始めているのでは」
「読ませておけ」
ヴェガは星図上の帝国護衛艦隊を指した。
「民間船を撃たないと知れば、彼らは民間船を盾にするかもしれない」
「それは危険です」
「だから見る」
「何を」
「クラウゼンが、そこまでする男かどうか」
副官は黙った。
ヴェガは命令を下した。同盟軍の軽巡部隊が雪線外縁へ展開する。砲撃圏には入らない。だが、護衛艦隊が無視できない距離へ迫る。
帝国軍に選択を迫る距離。守るか。逃がすか。残るか。捨てるか。
「提督」
副官が言った。
「帝国護衛艦が民間船団から離れません」
「離れない?」
「はい。民間船団の速度が上がっています。護衛艦は戦闘位置ではなく、航路外縁の誘導位置へ」
ヴェガは目を細めた。
民間船団そのものが加速している。護衛艦が敵を止めるのではなく、船団を逃がす時間を短くしている。補給で届いた燃料を、戦うためではなく、逃げるために燃やしている。
「そう来るか」
ヴェガは、わずかに笑った。
「軽巡部隊、追撃距離を維持。撃つな。帝国護衛艦が反転した場合のみ応射」
「攻撃機は」
「出すな」
「なぜです」
「雪線の霧で識別が乱れる。民間船を誤射すれば、こちらの負けだ」
副官は少し驚いた顔をした。
「こちらが、ですか」
「戦場の勝敗ではない」
ヴェガは星図を見た。
「別の帳簿の話だ」
-
撤退許可が届いたのは、民間船団の半数が雪線宙域を離脱した後だった。
帝都標準時で、保持命令発出から二十九時間後。
『雪線要塞群、現地状況悪化により、段階的後退を許可。
民間船団および負傷者搬出を優先。
要塞設備は可能な限り破壊。
防衛線を第二雪線へ再編』
ベルン少将はその命令書を読み、しばらく黙っていた。それから、椅子に座り込むように腰を下ろした。
「ようやく許可が来た」
彼は言った。
「我々は、許可される前に助かり始めていたらしい」
ミリアは画面から顔を上げた。疲労で目が重かったが、少しだけ笑った。
「正式には、低温粒子嵐対応訓練です」
「長い訓練だ」
「まだ終わっていません」
レオンは星図を見ていた。
残っているのは、第三船団、最後の負傷者搬送船、要塞司令部要員、砲台自動化班。
同盟軍の軽巡部隊は外縁にいる。攻めてこない。だが、見ている。それだけで圧力になる。
「ベルン少将」
レオンは言った。
「最後の要塞砲台は、自動化できますか」
「できる。命中率は落ちるが、牽制にはなる」
「砲台要員は」
「乗せる」
ベルンは即答した。
その言葉に、作戦室の何人かが彼を見た。
ベルンは苦い顔をした。
「何だ。私が残れと言うと思ったか」
副官が言葉に詰まる。
「少し前なら、そう言っていたかもしれん」
ベルンは立ち上がった。
「だが、砲台は死ぬために撃つものではない。逃げる時間を作るために撃つ」
レオンは何も言わなかった。ただ、星図上の撤退路を更新した。
第三船団が動き出す。民間船。医療船。護衛艦。曳航船に引かれる《リベルテ》。
その最後尾で、雪線要塞群の砲台が自動照準に切り替わった。低温粒子の霧の中、砲火が青白く走る。
敵を倒すためではない。追わせすぎないための線を引くために。
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