失踪(前編)
歌劇場に戻るとフォルクハルトはドアマンに従業員入り口を開けさせた。
視察の際に楽屋や舞台裏を見学しているらしく、慣れた様子で細い通路を歩き始めた。
たくさんのバレリーナ達が出番を待って柔軟体操をしている中を奥へ進むとやがて舞台の声が聞こえてくる。
舞台ではリードソプラノが歌声を響かせているようだ。
ライナはしてはいけないことをしている気分でヒヤヒヤしながらその後ろをついて行った。
「あの、どちらへ?」
「イーシャは舞台の煙に煙草の煙を混ぜろと言っただろう。であれば客席にいてはできない」
「そういえば」
木で簡素に組まれた螺旋階段を上がる。
木枠で出来た中二階のような通路には舞台で使う小道具や仮面や衣装がズラリと並んでいた。
歩みを進めるとギシリギシリと足場が音を立てる。
フォルクハルトは更に奥へ進み、梯子を上がって細い板が渡してあるだけのスペースに出た。
もう灯りもほとんどなく、何枚もの緞帳が太いロープで釣り上げられているだけの場所だ。
「ここは舞台の丁度真上だ。緞帳を上げ下げする為に足場が組まれている」
声を潜めたフォルクハルトに言われ、下を覗き込む。
下では数人の役者が今まさに歌劇を上演している真っ最中だった。
真ん中には一際美しい女性が魔法で宙に浮いている。
くすんだ水色のドレスは光の加減でピンクにも見える幻想的な作りで、背中に生えた蝶のような大きな羽根が、彼女が主役のティタ―ニアであることを示していた。
「わたくし初めて歌劇を観るのがまさか舞台の真上からだとは夢にも思いませんでした」
「お前ではもう一生観れないかもしれないな。今のうちに楽しんでおけ」
かなり高い所にいると自覚したライナは、立っている事が怖くなり足場に手膝を付いた。
後ろのほうから木が軋む音が近付いてくる。
振り返ると驚いた表情のヒゲだらけの男が足場を伝ってこちらへやってくる。
「舞台装置のマネージャーだな?」
「お、王子殿下!?何故こんな所に…」
「突然ですまないが、暫くここを貸して頂きたい。其方は気にせず自分の仕事をこなせば良い」
どうやら緞帳の上げ下げをする為に上がってきたスタッフだったらしい。
フォルクハルトが銀貨を彼に握らせて強引に追い返す。
ライナは自分の出る幕ではないと知って、舞台を見下ろす。
物語は既に終盤で、ティターニアが天使として天界へ帰るかこのまま妖精として生きていくか悩むシーンだった。
主役の女性が独唱でその葛藤を歌っている。
凄まじい声量でビブラートを効かせて歌い上げるその姿は、堂々としていて鳥肌が立つほど美しい。
この姿に憧れて、娼館の女性達は日々辛い下積みに耐えているのだ。
ふと視線を逸らすと、客席も多少見える位置であることが分かった。
歌劇場は上流階級の社交場でもある。
皆ライナには手も届かないような豪奢なドレスやタキシードで正装していて、客席までも華やかだ。
二階のボックス席にはティルダの姿があった。
本人が望んだ通り、客席で一番目立っている。
隣国の最新の流行を取り入れた型の真っ白なドレスは暗闇の客席でまるで浮き上がるように存在を主張し、髪や耳や首を彩る真っ赤な宝石がそこに華を添える。
目鼻立ちの良いティルダは派手な衣装を完璧に着こなし、歌劇場の主役であるように凛として客席を見下ろしていた。
「美しいわ…」
「そうだろう。だからお前にも観せようと思ったのに、断るだなんて失礼なヤツだ」
いつの間にかスタッフを追い返したフォルクハルトが隣に座っていた。
羨望の籠もった独り言はティルダへ向けられたものだったのだが、フォルクハルトは舞台のことだと思ったらしい。
どうやらライナがティルダと共に歌劇場へ行かなかったことをまだ根に持っているようだ。
財力や地位や顔の造りなどどうにもならないことを羨んだのが恥ずかしく、訂正はしないでおく。
「煙草を貸せ、そろそろ準備したほうがいい」
フォルクハルトに言われて、イーシャから預かっていた動物の角とトカイアスの皮を渡す。
フォルクハルトは皮を柔らかくする為に軽く揉み、角の中に詰めた。
「煙を出すには火をつけて吸わなくてはならないのですよね?わたくし、したことがありませんけれど…」
「私がやろう。煙草の煙というのは初めて吸う者には苦しいものらしい」
「王子は吸ったことがあるんですの?」
「…ないが、苦しいと言われることを女のお前にさせるわけにはいかない。私だって男だ」
「まぁ、小生意気な」
うっかり本音が漏れるとフォルクハルトは過敏に反応してライナを睨んだ。
ライナは口を押さえて笑いをこらえる。
「お前はどんだけ私をナメてるんだ!」
「だって王子、ベリーの棘で指を突いてベソかいてた子が「私は男だ」って、そんなの笑うに決まっていますでしょう」
「いつの話をしている!?言っとくが二歳しか離れていないんだからな。あとお前はそろそろ不敬罪という言葉を覚えろ!」
小声でヒソヒソと口論していると、オーケストラの音が一層盛り上がってきた。
どうやらそろそろ歌劇も終わりを迎えるらしい。
舞台の向こう側には女神が登場し大勢の天使が彼女を取り囲んでいる。
一方でライナの真下にはティターニアが妖精達を大勢従えて女神と対峙している。
いよいよラストシーンだ。
「王子が吸ったとしてもわたくしも共に妖精の楽園へ行けるのでしょうか?」
「イーシャは煙を混ぜれば道が開くと言っただけだ。心配なら私にしがみついていればいい」
「そうですわね」
ライナはおずおずとフォルクハルトの袖を掴んだ。
フォルクハルトが手に持った蝋燭の火で動物の角に火をつける。
魔法でつけることもできるのだが、魔力の制御が効かないフォルクハルトでは角ごと燃やし尽くす可能性があるのだった。
「…そういえば行きは煙草で行くとして、帰りはどうするんだ?」
あとは口をつけるだけ、という所でフォルクハルトが不意に思い出したように呟いた。
ライナも「あ」と間抜けな声を出す。
妖精の楽園へ行くことばかり考えていて、帰りのことは全く考えていない。
「よく分かりませんが、行きが煙草なら帰りも煙草の煙で帰れるのでは?」
「ふむ、とりあえずもう時間がない。ひとまず行くだけ行ってみよう」
舞台の上ではティターニア役の女性が高らかに妖精の女王となることを宣言していた。
女神に別れを告げる。
涙をこぼしながら「もう二度と天界へ帰ることが叶わなくても、いつでも女神様の為に生きていくことを誓います」と歌う。
そして煙が充満し始める。
ティターニアが妖精達を連れて楽園へ帰るのだ。
「今だ。準備はいいか?」
「はい王子。お願いいたします」
舞台の上で発生した煙が空気に乗って、上にいる二人のもとへ届く。
フォルクハルトは意を決して煙管に口をつけた。
感動的な音楽で満たされた劇場内に、ゲッホとフォルクハルトがむせ返る音が響いた。
「シーッ」
「なんだこれは、マズすぎる…!」
むせた勢いで煙草の煙が舞い上がった。
うまく吸えなかったが、どうやら当初の目的は達成したようだ。
舞台の煙に煙草の煙がフワフワと近づき、紅茶にミルクを注いだようにゆっくりと混ざりあった。
その瞬間、濃さを増した煙が意思を持ったように何本も細い線になってライナ達のほうへ伸びてくる。
よく見ると線の先はまるで小さな子供の手のように五つに分かれている。
たくさんの細い小さな手がライナ達を手招いているように見えて、背筋がゾッとした。
思わずフォルクハルトの袖を掴む指に力が入った。
小さな手は徐々に近付いてきて、やがてライナの服や髪に触れる。
あ、と思う間もなく、ライナはその手に引っ張られた。
それは思いがけず強い力だった。
「お、王子…っ」
気付けばライナの手はフォルクハルトの袖から引き剥がされていて、引っ張られるままに空中に体が傾く。
「おい…!」
フォルクハルトが慌ててライナに手を伸ばした。
ライナも手を伸ばしかけた。
しかし、それよりも早く凄まじい浮遊感と共にライナは舞台に向かって落ちていった。
「ライナ!!」




