失踪(中編)
フォルクハルトの目に写ったのは、心霊映像としか思えないゾッとする光景だった。
煙の中の小さな手達に引っ張られてライナが木板から足を踏み外し空中へ投げ出される。
フォルクハルトは確かに聞いた。
煙の中から、小さな子供のようなクスクスというたくさんの笑い声を。
必死で手を伸ばすが間に合わない。
ライナを追って飛び降りようとしたその時、煙に包まれたライナはフッとその姿を消したのだった。
思わず名を叫んだ声は、その瞬間に起きた大きな拍手と歓声にかき消された。
舞台ではティターニアが姿を消し、舞台が終幕した所だった。
唖然とするフォルクハルトの目の前でカーテンコールが始まり、役者たちが次々に現れて客席に向かって頭を下げている。
そのどこにも、落ちたはずのライナの姿が見当たらない。
フォルクハルトは未だ煙を燻ぶらせる煙管を呆然と見つめた。
「いっ…たぁい…!」
一方ライナは何か柔らかい物に体を叩きつけられて、悲鳴を上げていた。
言葉にするほど痛くはなかったがその衝撃は凄まじく、暫く起き上がることができない。
「ライナ!あなたライナね!」
「おいおい、こっちの子じゃないだろう。アルベリッヒラントの扉を叩いたのはもう片方の雄の人間だ!」
「いいじゃないのよ!だってライナよ。あたし達の可愛い天使、ライナ。あなたがここに来てくれるのをずっと待ってたわ!」
にわかに周りが騒がしくなり、ライナはそっと目を開ける。
確かに歌劇場の足場から舞台に向かって落ちたのだが、ライナがいたのは全く別の場所だった。
体の下には黒々とした土があり、遠くにフクロウの鳴く声がする。
明らかに野外だが、何故か寒くなかった。
吟遊詩人の路地のときのように別の世界へ飛ばされたのだろうかと考えながら、顔を上げる。
「きゃあ!」
「怖がらないでライナ、大丈夫だから!」
「ここはアルベリッヒラント。ここに来たいとあなたが望んだのでしょう?」
ライナの目に飛び込んできたのは異形の生物達だった。
肌も髪も真緑の人間や、木の実に顔がついたような見た目の生き物、二足歩行するトカゲに、とんがりボウシのおじさん、羽根や触覚の生えた美女。
それらはライナと同じ程の背丈で、心配そうにライナを取り囲んでいる。
書物などで目にする妖精達は皆掌に乗るようなサイズだった為ライナはまずその大きさに驚いた。
「アルベリッヒラント、ですって?」
「そう、妖精の国じゃ。我々の声が聞こえるのじゃな?」
「それじゃあ…あなた達は、妖精さんなのね!?」
「お話もできるなんて!天界の物を持っているんだね!」
恐る恐る起き上がって辺りを見渡す。
辺りは暗いのでよく見えないが、ライナは見たこともないような巨大な植物に囲まれていた。
先程落ちてきた時にクッションになったのも何かの葉だったらしい。
周りにはたくさんの花が咲いているがどれも巨大だ。
紫色をした美しい鐘形の花は一見サフランのようだが、ライナが一人花の中に隠れられる程の大きさがある。
その花はそこら中に咲いていて、一面蜂蜜のような甘い香りが漂っていた。
「無事に来られたのですわね…占い師様に感謝致しませんと」
「ここに人間が来るなんて久々なのよ。ねぇお話致しましょ!こっちへ来て!」
「あっちょっと」
ライナは妖精達に引っ張られながら花畑の奥へ進んだ。
何か忘れている気がするが、新しい体験に心は弾んでいた。
何しろ目の前では宙を舞う美女が手を引き、後ろからは岩のように丸い体の男が背中を押している。
現実とは思えない光景にライナは舞い上がっていた。
やがて巨大なゴムの木の前に辿り着いた。
先端の方は霞んで見えないほど大きい。
根本には梯子がかかっていて、その先は木のウロに繋がっている。
「あたしはニンフのヴィヴィアン。ここはあたしのおうちよ!」
「ヴィヴィアン、わたくしはライナ・バルヒェットと申します。素敵なおうちね。あなた達は木の中に住んでいるの?」
「ふふ、アルベリッヒラントは年中春のような気温だから、住む所はどこでも平気なの!岩の隙間に住んだり、木の上の葉を編んで家にしたり、家を持たずにそのへんで寝てる子もいるわ」
先にゴムの木に着いていた妖精がウロの中から木の椅子を次々に取り出して外にいる妖精に放り投げている。
あっという間にゴムの木の前にはカフェのテラス席のようなテーブルセットが出来上がった。
ライナは促されて席につく。
正面にはヴィヴィアンと名乗った羽根の生えた美女が座った。
好奇心でいっぱいの目をしている。
別の妖精が、お茶を持ってきた。
気が付けば、テーブルの周りには人だかり…いや妖精だかりができていた。
その人混みをかき分けるようにしてお茶が運ばれてくる。
「レッドクローバーの葉で淹れたお茶だよ。ホワイトクローバーの花の蜜を入れて飲んでごらん」
「こっちは菫の花を砂糖漬けにしたお菓子よ。食べてみて」
「今トチの実で作ったパンを焼いているからちょっと待っててちょうだいね」
妖精達は口々にそう言っていろんなものをテーブルに持ってきた。
どれも人間の世界では馴染みのない物だが、全て美味しい。
思わぬ大歓迎にライナは戸惑った。
神話や物語で妖精はいつも悪役だ。
神話ではその昔人間は魔力を持っておらず、地上は魔力を持つ妖精に支配されていた。
妖精は人間を奴隷にして悪行三昧、戦争ではたくさんの人間が犠牲になり、あまりの傍若無人な振る舞いに怒った女神が妖精達の姿を小さく変えてアルベリッヒラントに閉じ込めた、とされている。
しかしこの歓待はどうだ。
ライナは妖精達が神話で語られるような悪者には全く見えなかった。
「ライナ、夢みたいだわ。あなたとこうしてお茶を飲める日が来るなんて」
「そういえば、どうして皆さんわたくしのことを知っていらっしゃるの?」
「あたし達はずぅっとあなたのことを見てきたのよ。子供の頃の天使のような笑顔も、大学で虐められて一人泣いていた夜も、それでも長期休暇が終わると戦いに挑むように大学へ戻る強い横顔も」
本当に知っていないと分からない情報がヴィヴィアンの口からうっとりと語られ、ライナは混乱しつつ赤面した。
ヴィヴィアンは続けた。
「あなたが雄の人間の召使いになると聞いた時には手籠めにされちゃうんじゃないかって心配したし、雌の人間の召使いになると知ってまた虐められないか心配したわ」
その瞬間、ライナは思い出した。
「ああっ王子!?」
ティーカップを置いて、ガタンと椅子を蹴倒し立ち上がる。
ライナはフォルクハルトと共にアルベリッヒラントへ来たはずだったのだ。
初めて見る光景に驚き過ぎて完璧に存在を忘れていた。
今更周りを見渡すがフォルクハルトの姿はない。
「あのっ、王子はどうなりましたか?まさか、別の場所に飛ばされてしまったのでは…」
「もしかして、一緒にいた雄のこと?」
「そうです、わたくしったらすっかり忘れていて…」
ここへ来るときのことを思い返してみる。
確か、たくさんの小さい手に引っ張られるという心霊体験をして来たのだ。
ライナはフォルクハルトに手を伸ばしたことを思い出す。
そしてその手は虚しく宙を撫でただけだったことも。
「ごめんなさいね、あたし達ライナとお喋りしたかったものだから、雄のことは外に置いてきちゃったわ」
「ええ!?」
「だってぇ、外の世界から二人も連れて来るのは魔力をたくさん消費するし疲れちゃうんだもの。本当はあたし達を呼んだ雄のほうを優先して連れて来るべきだったんだけど、隣にライナがいたから嬉しくなっちゃって」
煙の中から聞こえたクスクスという不気味な笑い声は、ライナがアルベリッヒラントへ来るのが嬉しくて喜ぶ妖精達の声だったようだ。
ライナはひとまず安心した。
フォルクハルトがライナとはぐれて別の場所に一人で落ちた、ということはなさそうだ。
あの歌劇場に残っているのであれば、フォルクハルトはティルダ達と合流して無事に王宮へ帰ることができるだろう。
しかし、ライナは続けて青ざめる。
「……あの、ここから人間の世界に帰るにはどうしたら宜しいのかしら?」
「行きと同じように煙草の煙を使って人間の世界への道を繋ぐのよ」
「……今、煙管を持っているのはわたくしではなく王子ですけれど、こちらの世界にも煙管があるのかしら?」
「あたし達はここに閉じ込められているから、外の世界と繋がる為の道具はないわね」
「えぇと、それでは、つまり……」
ライナは確信を得るのが怖くて言葉を濁す。
妖精達は満面の笑みでライナに応えた。
「ここから帰る方法はないわね!」
「いやー!やっぱり!」
爽やかな夜の空にライナの絶叫がこだました。




