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歌劇場が煙に包まれる夜(了)

「結局その葡萄の樹はどこにあるんだ?」

「町の酒場ですわ。中央広場から、市場方面に少し行ったところです」


娼館を出て階段を上がり、歌劇場の一室に出る。

フォルクハルトは大股でドアへ向かうと、警戒するように扉を少しだけ開けた。

理由はすぐに分かった。


「チッ、第一幕が終わったようだ。休憩に出てきた客の声がする」

「まぁ。では裏口からこっそり出るしかありませんわね」


フォルクハルトは外へは出ず、扉を閉めた。

呪文を呟くと、その手にはマントがあった。


「お前は帽子を取ってこれを羽織れ。女中だと周りに悟られないほうがいいだろう」

「承知致しました」


軽く変装をしたライナを連れてフォルクハルトは部屋を出た。

幸い休憩中の客達はホール周辺に集まっているらしく、宿泊施設などがあるこのエリアにはあまり人はいない。

足を急がせて、裏口へと向かう。


「何事もありませんように」

「おいやめろ。お前が何か祈ると逆のことが起こるだろうが」

「あんまりですわ、わたくしをなんだと…」

「シッ」

「わぷっ」


軽口を叩きながら角を曲がる瞬間、先に曲がったフォルクハルトが踵を返した。

一瞬何が起こったのかライナは分からなかった。

視界が黒く染まり、体が温もりに包まれたかと思うと、背中を壁に強く打ち付ける。

ぐっと肩に力を込められて、フォルクハルトに壁に押し付けられるようにして抱き締められたのだと知った。

心臓が甘く跳ねた。


「な…っ」


パニックになって身を捩ると、肩を抱く腕とは逆の手で口を塞がれた。

意外と筋肉のある胸元から顔を上げ、フォルクハルトの顔を見上げる。

彼は角の先を厳しい目で見据えていた。


「…前方にティルダ嬢がいる。こちらに向かっているようだ」

「……!」


その言葉に戦慄した。

それはまずい。

万が一言いつけを破って劇場内にいることやフォルクハルトと行動を共にしていることがバレたら、どう楽観的に見積もっても八つ裂きにされる未来しか思い浮かばない。


ライナは慌てて周りを見渡した。

しかし広い廊下はまっすぐ伸びるだけで、身を隠すような場所は見当たらない。


「王子…っ」

「大丈夫だ、黙っていろ」


口を塞ぐフォルクハルトの手を両手で剥がして喘ぐと、押し殺した声が返ってくる。

フォルクハルトはきつく力を込めていた腕をほどき、ライナを一度解放した。

そして頭からつま先まで見下ろし、マントでライナの頭から足先までをぐるぐる巻きに覆う。

急に視界が奪われライナは身を竦めるが、お構いなしだ。

そのままフワリと宙に浮いたような感覚がして、「しっかり捕まっていろよ」と耳のすぐ側でフォルクハルトが囁いた。

どうやら横抱きにされたらしい。


「まぁあ!フォルクハルト様!どこに行ってらしたのです?探しておりましたのよ!」

「ティルダ嬢、退席してしまい申し訳ない」


甘くて高いティルダの声がする。

フォルクハルトはライナを抱いたまま角を曲がり、堂々とティルダの前に姿を現したようだ。

ライナはきつく目を閉じて神に祈った。


「(神様、はっ倒すなんて言ってごめんなさい。どうかティルダ様をやり過ごせますように…!)」


そんなライナを知ってか知らずか、フォルクハルトは優しそうな声で続ける。


「この者が廊下に倒れていたので介抱していたのです。医務室へ連れて行かなければ」

「なんてお優しいの、フォルクハルト様。でもわたくしをほったらかしにしないでくださいませ。上演中ならともかく、休憩中は一緒にいてくださらなければ、わたくしが貴方の婚約者だと他のお客様に分からないでしょう?」

「すぐ戻ります。すまないが」


フォルクハルトが足早に歩き出す。

ティルダの横を通り抜けようとしているらしい。

真横でティルダの息遣いまでが聞こえてきて、ライナは震える体をなんとか抑え付けた。


「お待ちになって」


すぐ後ろで、機嫌の悪そうなティルダの声がした。

ライナはもう心臓が口から飛び出しそうだった。

全身が冷や汗でだくだくになっている。

フォルクハルトの手にも一層力がこもり、ライナは強く抱き寄せられた。


「……何か?」


フォルクハルトが振り返る。

マントが少しずれて、緊張したように笑顔を作るフォルクハルトの顔がライナにも見えた。


「わたくしの今日の装いはいかがかしら?他の貴族には真似できないくらい豪華なものを用意致しましたのよ」

「いつも通りお美しいですよティルダ嬢」

「ストールも見てくださらない?この国の風習に従ってわたくしが刺繍しましたの」


ライナのことがバレたわけではないと安心していると、フォルクハルトが硬直したのに気付く。

どうやら彼は、アンダーソン家にティルダを迎えに来てから歌劇場へ入るまで相当な時間があったにも関わらず、ティルダの服装を一切気にしていなかったようだ。

今初めて見ましたと言わんばかりにティルダを上から下までまじまじと見ている。


そして、ライナも見たことがない心の底からの眩しい笑みを浮かべた。

それはいつものような演技の表情とはまるで違った。

どんな女性でも一発で恋に落ちそうな、極上に甘い微笑みだった。


ライナには見えないが、まともにその笑顔を食らったティルダは息を呑んでたじろいだようだ。

とんでもない破壊力だ。

ライナでさえもときめきそうになった。


と同時にそれが向けられているのがティルダであることに胸がチクリと痛んだ気がして、ライナは自分自身に驚いていた。

ティルダはフォルクハルトの婚約者なのだから、愛されて当たり前であるというのに。


「さすがティルダ嬢だ。手先まで器用だなんて恐れ入る」

「まぁ…」

「悪いが失礼する。あとでゆっくり話しましょう」


ティルダがひるんでいる隙に、フォルクハルトはその横を通り過ぎた。

今度こそティルダに呼び止められないよう、早足で立ち去る。

やがて誰もいない裏口の側まで来ると、ライナをおろした。


「もう大丈夫だろう」

「…………」

「ライナ?」

「…あっ、いえ、そうですわね…」


マントのフードを剥ぎ取られて、正気に返る。

何故だかまともにフォルクハルトの顔が見られなかった。



そこからは早かった。

フォルクハルトは裏口を魔法でこじ開けると、べアテを呼んで酒場まで一気に飛んだ。

パトリシウスは客におこぼれをねだりに行ったらしく不在だったが、トカイアスはいつも通りそこにいた。


トカイアスは「あんなにお酒を持ってきてくれたんだもの、あーたには借りがあるわ」と言って快く皮を差し出してくれた。

樹と喋る様子をフォルクハルトには死ぬほど冷たい目で見られながら、外側のめくれかけた皮を数枚剥がせて貰う。

「次に来る時はワインをお持ちしますわ」と頭を下げたライナに彼女は「お酒は来年の秋までお預けなのよ」と苦笑した。

どうやら実を育てる時にだけお酒が必要なようだ。


あっさりと皮を手に入れることができた二人は、目立つのを避ける為、歩いて歌劇場へ戻ることにした。

酒場には平民達が集まっているようで賑やかな声が漏れ聞こえていたが、そこを離れればすぐに夜の静けさが二人を包む。

中央広場に近付くにつれて、噴水から水のささらぐ音が聞こえてきた。


歌劇場での一件で無性に気まずいライナはフォルクハルトの三歩後ろを歩いていた。

フォルクハルトも特に振り返ることなく黙ったままだ。

噴水の前に着いた頃、フォルクハルトの後頭部がポツリと切り出した。


「あの刺繍はお前のものだろう」

「え?」

「オリーブの葉にリコリスの花。お前ん家の庭の草花だな。ティルダ嬢の趣味ではない」


ライナは目を見開いた。

絶世の美女たるティルダの渾身のお洒落にも無頓着な彼が、まさか気付くとは思わなかった。

街灯に照らされたフォルクハルトの横顔は、冷ややかに噴水を見つめていた。

その何もかも見透かしそうな瞳がライナのほうへ向けられて、反射的にライナは顔をそむける。


「そんな訳ございませんでしょう。偶然ですわ」

「お前は何も言わないが、本当はティルダ嬢に虐められているのではないのか?」

「わたくしの主をお疑いなのですか?王子も仰ったではありませんか、ティルダ様は穏やかで気立ての良い素晴らしい方です」

「彼女が完璧な王妃候補であることは確かだがな。その一方で今は一貴族に過ぎないにも関わらず人前で自分を姫と呼ばせたり、王妃気取りのティアラをして見せたり、世間の評価とは異なる人格があることは、私だって気付いている」


フォルクハルトは足をとめて振り返った。

鋭い眼差しに貫かれて、ライナは数歩後ろへ下がる。


つい先日まで秋の虫が空を震わさんと鳴き声を響かせていた広場は、気温が下がり今はもう噴水と木々の揺れる音がするばかりだった。

ライナはアンダーソン家で受けたこれまでの仕打ちを思い出していた。

いつだってその優しい笑顔で巧妙に隠されてきたが、ライナを常に虐げてきたのはティルダだった。


明らかに侍女のものではない辛い仕事も、指示をするのは侍女だがその上にいるのはティルダだ。

初日に泥だらけで帰れないと訴えたライナをそのまま帰るように突き放したのもそうだ。

紛失したヘアブラシをライナが盗んだことになったのも、ティルダの誘導があったからだ。

最近では涙を流して不本意を装いライナを罰しているが、初めて反抗し頬を打たれた時に垣間見た激しい憎悪の表情をライナは忘れていない。


ティルダが決して穏やかで気立てが良い素晴らしい主などでないことは、今回嘘を吐かれなくてもとっくに知っていた。


「…ティルダ様は王子を一途に想っておられるだけです。仮にあの方の裏の人格に問題があったとしても、王妃になるのに問題などございませんでしょう?人間誰しも、裏の顔はあるものですわよ」

「それはそうだが…。私はお前を死の直前まで痛め付けた張本人が彼女なのだとしたら、そんな女を愛するのはごめんだ」


ライナはうつむいた。

あの家で起きたことを洗いざらい吐き出して、フォルクハルトの胸に飛び込み泣きわめくのは簡単だ。

か弱く可憐で庇護欲をそそる温室の花のように振る舞う、それが正しい貴族女性としての在り方だ。

しかしライナにはそれができない。


フォルクハルトに泣き付けば、正義感の強い彼はきっとティルダを侮蔑し、ライナはあの辛い日常から解放される。

しかしそれだけなのだ。

たかが下級貴族の侍女を虐めたくらいで、王命により婚約したティルダが王妃候補から転落することはない。

フォルクハルトは侮蔑した女と嫌々愛を育むか、王命に盾付き王子の座から廃される。

そんな結末の為に真実を口にするなど馬鹿げていた。

ライナは顔を上げ、クスリと笑ってみせた。


「わたくしが死にかけたのはわたくしの不運のせいですわ。こんなことのせいでティルダ様がお疑われになるなんて、一層神様に文句が言いたくございます。早く召喚しないといけませんわね」


フォルクハルトは傷付いたような複雑な表情を浮かべ、視線をさまよわせた。

そして頭をガリガリと搔く。


「お前は本当に可愛くないな」

「可愛くなくて結構です。もう行きましょう、劇の終盤に間に合いませんわ」


歌劇場が煙に包まれませんでした…

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