第三話 暗闇の夢と雨
薄暗い部屋にオレは居た。
膝を抱き、より濃い闇を抱える部屋の隅を見つめる。
電気はつけず、カーテンを閉めて、意図的な暗闇にその身を委ねる。
光を今は見たくない。雲ひとつない青空は、世界が幸せに満ちているようで憎らしかった。
それでもカーテンの隙間から溢れてくる光。嫌だ。明るい世界は見たくない。きつく目を閉じ、視界を完全な暗闇に。
すると、今度は外から聞こえる声。視覚が閉じ、聴覚が鋭敏に音を拾う。話し声が、笑い声が、泣き声が、怒鳴り声が、人の息遣いを感じるものが、鋭利な刃となってオレの膿んだ心を傷つける。
泣きたくなった。
うるさい、うるさい、うるさい。
耳を手で覆う。今は何も聞きたくない。誰かが誰かと通じている。そんな世界に、身を置きたくない。
雨が降ればいいのだ。外に居る者全てに冷たい水を叩きつけて、今の自分の苦しさを少しでも味わえばいい。みんなが光のない世界へ帰ればいい。隔絶した個の世界へと。
そうすれば、今のオレもそう惨めじゃないのに。
「寂しいよね」
暗闇の一点を見つめるオレに背中から声が掛けられる。
それは聞き慣れた声のようで。
だけど、初めて聞く声だった。
「誰だ?」
目を閉じ、耳を塞ぎ、背中を丸め、だけど聞こえてくる声に、オレは尋ねた。
声の主はオレの肩に手を置いて、耳に囁く。
「寂しいよね。誰にも思われないことを知るよりも、誰かが通じ合っていることを知るほうが。自分だけが、いかに孤独かを知る」
「……」
幻聴、にしては生々しい声だった。そして、胸を抉る言葉だった。それは、どれも図星であったからに他ならない。
「寂しいね。ボクならとてもじゃないけど耐えられないよ。人は集団で生きる生物だ。そして生まれて初めて与えられるのが、家族という名の集団。無条件で与えられるそれが、誰にも与えられるはずのそれが、自分にだけはないと知るとき。友人? 恋人? そんな取替え可能な集団よりも、その心の喪失は大きいよ。それでも、家族の皆が皆バラバラであったなら、自分だけでないのなら、まだ救いようがあっただろうに」
「誰だよっ!」
怒りで沈鬱した気分が一時的に高揚した。
目を開き、手をどけて、振り返る。
誰もいないはずだった。
父はいない。母はいない。家には居ても、ここにはいない。部屋にいなくても、どこにもいない。いないのも同じだ。母はオレを見ない。父はオレの相手をしない。だから、ここはオレだけの世界。暗闇に満ちた陽の差さない世界。
そこに無遠慮に踏み込んでくるのは、誰だ。
と、あのとき思っていたけれど。
今になって、思う。
あのときオレは嬉しかったんだ。
怒りで誤魔化していたけれど、本当は嬉しかったんだ。
孤独な世界に声を掛けてくれた、一匹の悪魔にオレは感謝していた。
「寂しいね」
誰よりも寂しい笑顔で、アクマはそう言う。
白い髪に赤い瞳。
ウサギのようなその少女には、黒い翼が生えていた。
「あ、起きた」
ぼんやりと開く瞼。
頭に靄がかかっているようだった。
しかし、ここはどこ? 私はだぁれ? なんてお間抜けな言葉を言うつもりはない。不明瞭な意識でもここが学校で、俺はみんなのアイドル真城柊で、現在その視界に映るのが女子も真っ青な美貌を持つ二ヶ月ばかりの友人――長谷川一樹であることを俺は理解している。
「今何時?」
頭を乱雑にかいて上半身を起こす。垂れた涎を袖で拭いた。
「昼休み終了まで後十五分。疲れていたの、柊? 途中うなされていたけど……。大丈夫?」
にっこり微笑む一樹くん。ああ、天使スマイルが寝起きの目に痛い。男なのに、男なのに。禁断の領域に足を踏み入れてしまいそうだよ、お兄さんは。
だけど、一樹。苦しそうなこちらの態度を聞くのに笑顔ってどうよ。
「つーか、寝すぎだろ。こいつと同じクラスになってから柊が授業で起きているところを見たことがないな」
ニヤニヤとこちらは別の意味で女子も真っ青な笑みを浮かべる如月俊哉。セクハラ大王、歩く公害という二つ名と共に二ヶ月の間で培われたキャラクターは、こいつを視界から意図的に外すべき存在という認識を俺に植え付けた。
「俺もお前の顔は見たことがない」
ということで記憶からも強制排除。
「ちょ、二ヶ月の間に育んだ友情はどこへ!?」
「夢と消えた」
欠伸をしてから、薄情な奴め、と拗ねる俊哉に割りと本気の拳を振る。これは男が口を尖らせるなどという許されざる行為への、正当な攻撃である。しかし相変わらず運動神経だけは良い俊哉は翻るようにその拳を避け、キラン、と光らない歯を見せる。やめれ。イタイから。
「そうだね。そういえば、ずっと寝ているよね柊って。夜に寝てないの?」
小首を可愛らしく傾げる一樹に、俺は、ああ、と曖昧な返事が口に出る。
「まあ、忙しいのさ。俺もね。もてるから」
「あははははは。面白い冗談だ、柊」
「冗談だろう。お前の場合は」
あはははははは、と笑いあう俺たち。傍目から見ても和やかではないだろう。
俺の視線は今にも動かんばかりの俊哉の箸を持った右手に釘付けで、俊也の視線は筆箱からシャーペンを取り出した俺の右手に移っている。
やれやれ、またか。みたいな空気を醸し出すクラスの連中。そしてやはり『また』その間を取り持つのが美少女と形容すべき美少年、長谷川一樹なのである。
「止めなよ、二人とも。食事中だよ。それに、底辺のせめぎ合いは見ていて切ないよ」
「……」
「……」
美貌の少年、長谷川一樹。欠点、稀に毒を吐く。そしてナルシスト。
ここは俺と俊哉の二人で一樹の顔面にナックルを入れるべきだとわかっているが、一樹の顔を見るとその気分も萎えてしまう。女子の顔面に拳を入れられないのと同じ理由だ。俊哉のほうもため息を吐いて肩を落としている。
「ほら、急ぎなよ。もう時間ないよ。早くご飯食べないと」
「別に時間がかかるものでもねぇよ」
机に掛けてあった鞄から取り出すコンビニ袋。そこに入っているのはお茶とオニギリ。オニギリはツナマヨと鮭だ。ツナマヨはオニギリの頂点に立つオニギリだね。
「またコンビニかよ。いい加減自炊でもしろよな?」
呆れた俊也の声。この二人は俺が一人暮らし(アクマがいるからそうとも言えないが)であることを知っている。高校生の身分で一人暮らしという理由に、どうも複雑な事情があるらしいと思っているようで、今まで深く追求はされていない。
まあ、そこまで深い仲になってない、というのも側面としてあると思うが。
「うっせぇな。面倒なんだよ。料理本を買った熱意も三日で尽きる」
「燃費悪いなぁ。もうちょっと燃やせよ。そんなんじゃあ、いつか身体壊すぞ」
「……お前いつから俺のお袋になったよ」
「いやん、せめてパパと呼んで」
クネクネと身体を揺する俊哉から目を逸らす。目の端に映った女子が露骨に眉を顰めているのが辛い。やめろ、俊哉。それ以上自分を傷つけるな。
「じゃあ、僕がママだね」
にこやかに物凄ぇ発言をする一樹。
そのとき俺は、空気が凍る音は実際に聞こえるものだと確信した。
一樹の発言は見事に会話と会話の空隙に入り、クラスの全員の耳に入ったようだ。残念ながら。
一瞬の間。この沈黙。お願いだ、みんな喋ろう。
その心の中の懇願が効いたのか。それから妙な視線とざわめきが俺たちを取り巻く。俺が願ったのはざわめきではなかったが。
しかし、こんなのももう慣れたものだ。そうとも。慣れたのさ。だから、顔を赤らめるのは止めろ俊哉。
「どうしたの?」
「ど、どうもしないさ!」
裏返った声で返事をする俊哉のフォローをする気にもならず、視線を窓に移す。六月にもなり、ここのところ雨ばかりだ。今日もその例外ではない。
「ああ、雨やまないよなぁ」
「おう。なかなかな話の逸らし具合だ」
「うっせぇ。お前もこの絶対零度に下がった空気を暖めろ」
どつく俊哉を華麗に無視しつつ、視線は曇った窓ガラスの向こうの空。どんよりと厚い雲が覆う空へ。
雨でも、蛍光灯が灯る教室は明るい。




