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十五従軍征  作者: 魂馬 一心
第一章 十五の春
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第四幕 名も知らぬ者たちと

出発は、三日後だった。


別れの朝のことを、李征はあとになっても断片的にしか思い出せなかった。阿妍が泣きながら袖にしがみついてきたこと。その小さな手の力の強さ。母が竹筒に符水を満たして持たせてくれたこと。竹筒を受け取った手のひらに残った母の指の温もり。そして、門を出るとき一度だけ振り返った母の顔が、あの夜と同じ、何も言わない表情だったこと。それだけが鮮明に体の奥に刻まれていた。


村を出てからは他の村々から集められた若者たちと合流しながら、隊列は南陽郡の郡治へと向かった。土埃の舞う道を、誰もが押し黙って歩いた。李征と同じように、竹籠一つ鍬一本さえ満足に持たされないまま駆り出された者ばかりだった。


「李征といったか」


隣を歩く男が、声をかけてきた。李征より五つほど年上に見える、日に焼けた大柄な男だった。がっしりとした肩に、道具を担いだ跡らしい厚い皮膚が見えた。


「張、という。隣の谷の生まれだ」


「……李征です」


「敬語なんぞいらん。同じ立場だ」


張はそう言って笑った。屈託のない、太い声だった。その笑い声が張り詰めた行軍の空気を少しだけ和らげた。彼もまた、後ろ盾のない家の生まれらしく、名指しで徴兵されたのだと、道すがら語った。


隊にはもう一人、李征よりもさらに幼く見える少年がいた。名を陳小六といい、まだ十三だと言う。実際の年齢を偽って届け出ていたのを、村の役人に見抜かれ、無理やり連れて来られたらしい。夜、焚き火のそばで膝を抱え、始終震えていた。細い肩が、寒さのせいだけではなく震えているのが、李征にはわかった。


「泣くな、小六。お前が泣くと、こっちまで泣きたくなる」


張がそう軽口を叩くと、小六は鼻をすすりながらも少しだけ笑った。その笑顔はまだ子供のものだった。焚き火の明かりに照らされた頬は、まだ丸みを残していた。


夜ごとの野営では、誰もが同じ話ばかりした。故郷の話、家族の話、そして「これが終わったら」というまだ形にならない未来の話。焚き火の爆ぜる音だけが、静かな夜に規則正しく響いていた。


「俺はこれが終わったら、隣村のあの娘に嫁に来てくれと言うんだ」張が言った。「もう三年も言い出せずにいた」


「言えばいいのに」


「今度こそ言う。帰ったら、な」


李征はその「帰ったら」という言葉に、母の顔を重ねずにはいられなかった。焚き火の火の粉が夜空へと立ち昇っては消えていくのを、いつまでも眺めていた。



装備はあってないようなものだった。渡されたのは、まともに研がれてもいない槍と粗末な布の鎧のみ。刃先には錆が浮き、柄には無数の傷がついていた。槍の構え方すら誰もまともに教えてくれなかった。


「こうやって持つんだ、こう」


見よう見まねで隊列の古参らしき兵が教えてくれるだけであとは各自、道中で覚えるしかなかった。李征は父から教わった山刀の扱いを思い出しながら、槍の重心を確かめた。手のひらに伝わる木の質感、微妙な重さの偏り。少なくとも、道具の重さと間合いを体で覚えることだけは初めてではなかった。


ある晩、野営地の外れで李征は妙な胸騒ぎを覚えて足を止めた。風の向きが微かに変わっていた。人の匂いではない。獣の匂いだった。腐った木々と乾いた土の匂いが混じったかすかな気配。


「何かいる」


小声で呟くと、近くにいた古参の兵が怪訝な顔をした。


「何もいねえだろう」


だが、李征が示した藪の方角からしばらくして痩せた野犬が数匹逃げるように走り去っていった。野営地の食料に密かに近づいていたらしい。藪の揺れが収まったあとも、李征はしばらく気配を探り続けていた。


「……お前、なんでわかった」


古参の兵は、少し驚いたように李征を見た。その目には、それまでにはなかった何かが宿っていた。


「風が、変わったから。獣の匂いも、ちょっとだけ」


「山育ちか」


「はい。父が、猟師だったので」


古参の兵は、それ以上何も言わなかったが、その日を境に、夜番の順番で李征が組み込まれることが増えた。張は、それを半分からかい、半分誇らしげに言った。


「お前、鼻がいいんだな。俺たちより長生きしそうだ」


その言葉に、深い意味はなかったはずだった。ただの軽口、焚き火のそばの何気ない一言。だが李征は、なぜかその一言だけ、妙にはっきりと記憶に刻み込まれることになる。



数日後、隊列の先に初めて煙が見えた。


一筋ではない。幾筋もの黒い煙が、地平線の向こうから立ち昇っていた。空の低いところに、煙はやがて溶けるように広がり、灰色の帯となって流れていく。誰かが震える声で呟いた。


「……もう、近いのか」


答える者は、誰もいなかった。隊列の足取りが、わずかに乱れた。ただ、隊列を率いる将の号令がいつもより張り詰めた声で響いた。


「隊列を整えよ。まもなく、戦場だ」


李征は槍を握る手に、初めて自分の汗を感じた。手のひらが湿って、木の柄に張り付くようだった。遠くの煙を見つめながら、喉の奥がまた渇いていくのを感じた。

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