表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
十五従軍征  作者: 魂馬 一心
第一章 十五の春
3/6

第三幕 鐘が鳴る

峠の手前、崩れかけた土地廟の陰に、あの一団はまだ留まっていた。


粗末な筵を敷き、焚き火を囲む十数人。煙が細く立ち昇り、風に流されて山肌へと消えていく。李征が竹筒を差し出すと、水を扱っていた年配の男が、慣れた手つきで符を溶かし込んだ。灰色がかった水面に、文字の形が滲んで広がり、やがて消えていく。その隣に、あの人物がいた。


数日前、井戸端で微笑んだ、あの若い男。


「また会ったな、小僧」


声をかけられ、李征は身を硬くした。喉の奥がまた渇いていく。男は、やはりあの理由のない微笑みを浮かべていた。


「妹が、熱を出して……」


「そうか。それは大変だ」


男は李征の手から竹筒を受け取り、自分の手で丁寧に符水を注ぎ足した。指先の動きは滑らかで、迷いがない。その所作には、悪意も敵意も見当たらなかった。だからこそ、李征には余計に薄気味悪く感じられた。まるで、この男にとって、村の危機も、妹の熱も、すべてがすでに知っていたことのように振る舞われている気がした。


「なあ、小僧」


男は竹筒を返しながら、ふと呟くように言った。


「もうすぐ、この土地も変わる。お前くらいの年頃には、辛い時代になるかもしれん」


「……変わるって、何が?」


男は答えなかった。ただ、焚き火の向こうを見つめ、それきり口を閉ざした。炎の向こうの瞳が一瞬だけ、何かを見透かすように細くなった気がした。李征がそれ以上何を聞いても、あとは「気をつけて帰れ」としか言わなかった。


帰り道、李征は妙な胸騒ぎを覚えながら足を速めた。竹筒を握る手に無意識に力がこもる。途中、いつもは人けのない山道で、旅装を整えた男たちの一団とすれ違った。荷を背負い、足早に、どこかへ向かっている。誰も李征の方を見なかった。目を伏せ、口を固く結び、ただ前だけを見て歩いていく。まるで、村そのものが何かから逃げ出そうとしているかのようだった。



家に戻り、符水を飲ませるとその夜のうちに阿妍の熱は少しずつ引いていった。頬の赤みが薄れ、寝息も穏やかになる。母は安堵の息をつき、久しぶりに笑った。その笑顔を見て、李征の胸のつかえも少しだけ緩んだ。


「よかった。明日には起きられるかもしれないね」


李征も、その笑顔につられて肩の力を抜いた。峠での不穏な言葉も、旅装の男たちの姿も、この束の間の安堵の中では遠い出来事のように思えた。竈の火のそばで久しぶりに深く息を吸えた気がした。


その安堵は、しかし、一晩ももたなかった。





翌朝、村の鐘が鳴った。


普段は火事か獣害でもない限り鳴らされることのない鐘が、けたたましく打ち鳴らされる音に、李征は飛び起きた。心臓が、殴られたように跳ねる。母も、寝ぼけ眼の阿妍を抱きかかえるようにして戸口へ出た。外はまだ薄暗く、鐘の音だけが山にこだましていた。


村の広場には、すでに人が集まり始めていた。誰もが、寝間着のまま、あるいは食事の途中で箸を放り出したまま、不安げに顔を見合わせている。息を切らして駆けつける者、子供を抱えて震える者。広場の中央には、見慣れぬ馬と、郡から来たらしい役人の一行が立っていた。馬の鼻息と蹄の音だけが、やけに大きく響く。


役人は馬上から村人を見下ろし、手にした竹簡を広げた。抑揚のない、事務的な声だった。


「巨鹿にて賊徒蜂起。詔により各郡県は速やかに壮丁を徴し、討伐軍に加えるものとする。なお、逃亡した者は斬。その家族もまた、連座を免れぬものとする」


村中が水を打ったように静まり返った。誰も身動き一つしない。風だけが広場の土埃を薄く巻き上げていた。


役人は続けて名を読み上げ始めた。一人、また一人。名を呼ばれた家からは、押し殺したうめき声や、すすり泣きが漏れた。名を呼ばれなかった家は、あからさまに安堵の息をつく者もいれば、気まずそうに目を伏せる者もいた。誰かが、小声で囁くのが聞こえた。


「あそこの家は、県の役人に貢ぎ物をしたらしいよ……」


「しっ、聞こえるよ」


李征はその意味をまだよく理解しないまま、ただ役人の口元を見つめていた。自分には関係のないことだと、まだどこかで思っていた。竹簡をめくる乾いた音だけが、妙に耳につく。


「李征!」


名を呼ばれた瞬間、周囲の音が、すべて遠のいた。


自分の名前だと、一拍遅れて気づいた。体が動かない。足の裏から、地面の感触が消えていくような感覚があった。隣で、母が短く息を呑む音だけが、やけにはっきりと聞こえた。


役人は、次の名を読み上げていく。李征のことなど、すでに眼中にないかのように。淡々と、機械的に、名前だけが空へと消えていく。


李征はゆっくりと振り返った。


そこには、母の顔だけがあった。


何も言わない。泣いてもいない。ただ、あの夜、竈の火に照らされながら語ってくれた言葉が、李征の耳の奥で静かに響いた。


——征くことよりも、帰ってくることの方が、ずっと大事だから。


母の目はその言葉をもう一度、声には出さずに李征に向かって繰り返しているようだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ