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十五従軍征  作者: 魂馬 一心
第一章 十五の春
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第二幕 まだ何も知らない食卓

数日後、市に出た李征は、大人たちの間に混じって、初めてその言葉を耳にした。


「巨鹿で賊が立ったらしい」


「巨鹿? どこだいそりゃ」


「知らんが、何百里も北の方らしい」


声を潜めているのに、なぜか誰もが同じ話をしていた。米屋の主人が布売りの女に囁く。布売りの女が水汲みの老人に囁く。誰もその場所を正確には知らない。ただ、遠く、ただ事ではないという気配だけが井戸の水よりも早く村中を巡っていった。李征は麻袋を抱えたまま、聞くともなしにその輪の端に立ち尽くしていた。


「賊というても太平道の連中だろう」


その一言で李征の中で何かが繋がった。太平道――数日前、村に粥を恵んでもらいに来た、あの一団。茶碗の底の印。樹に刻まれた文字。すべてが急に一本の線になった。胸の底に沈んでいた不安が、輪郭を持ち始める。


だが、大人たちの口ぶりは、まだどこか他人事だった。


「巨鹿なんぞここから幾日かかると思ってる。関係ない話さ」


そう言って誰かが笑い、話はそこで散らばっていった。李征もそう思おうとした。山向こうのさらにその先の話だ。自分の暮らしとは関わりのないところで起きていることだ。そう自分に言い聞かせながら、竹籠いっぱいの豆を背負って家路をたどった。足取りは来たときより少しだけ重かった。


家に帰ると、竈からはいつもと変わらぬ匂いが漂っていた。薪の煙と山菜を炒める油の匂い。その匂いを嗅いだ瞬間、市で聞いた不穏な話が少しだけ遠のいた気がした。母がその日採ってきた山菜を刻んでいる。妹の阿妍あけんは、土間の隅で木の枝を振り回し、何かごっこ遊びをしていた。


「兄さん、見て。これ、剣」


「それ、剣じゃなくてただの枝だろう」


「剣だもん」


李征は思わず笑って、妹の頭を軽く小突いた。阿妍は不満げに頬を膨らませたが、すぐにまた枝を振り回して駆け回った。その姿を見ていると市で聞いた不穏な噂も遠い夢のことのように思えてくる。竈の火の音、妹の笑い声、母が包丁を使う規則正しい音――それらすべてがいつもと同じ夕暮れを作っていた。


夕餉は粟の粥と母が刻んだ山菜の炒め物だった。質素な食事だが、湯気の立つ椀を三人で囲む時間は李征にとって一日で一番安らぐひとときだった。


「お母さん」


粥をすすりながら、李征はふと聞いた。


「おれの名前、どうして征なの」


母は箸を止め、少し驚いたような顔をした。それから、柔らかく笑った。


「前から聞きたかったの?」


「うん。征くって、遠くへ行くって意味でしょう。おれ、この村から出たことないのに」


母は椀を置いた。竈の火がその横顔をゆらゆらと照らしていた。炎の光が瞬くたびに母の表情が少しずつ違う陰影を帯びる。


「お前が生まれた日、お父さんがね、言ったの。この子はきっと、いつか遠くまで征くことになるだろうって。だったら、征くという字をそのまま名にしよう、って」


「なんで、そんな……」


「でもね」母は李征の目をまっすぐ見た。その瞳の奥に、火影が小さく揺れていた。


「お父さんは、こうも言った。遠くまで征っても、ちゃんと帰ってこられるように。だから征という字には、そういう願いも一緒に込めたの。征くことよりも、帰ってくることの方が、ずっと大事だからって」


李征はその言葉の意味をまだ本当には理解していなかった。ただ、母の声の柔らかさと、竈の火のあたたかさだけを体で覚えた。


「おれ、どこにも征かないよ。ずっとここにいる」


母は何も答えず、ただ李征の頭を撫でた。その手のひらがいつもより少しだけ長く、頭の上に留まっていた気がしたが李征はそれに気づかなかった。


食事のあと、阿妍が李征のそばに擦り寄ってきた。


「兄さん、鳥の鳴き真似、教えて」


「また今度な」


「今日がいい」


しつこくねだる妹に根負けして、李征は山鳩の鳴き真似をしてみせた。喉を鳴らし、息を細く吐く。不格好な音に阿妍はけらけらと笑った。


「へたっぴ」


「うるさいな。じゃあお前がやってみろよ」


阿妍が真似をすると、それはもっと不格好な音になり二人でひとしきり笑い合った。土間の隅で母がその様子を黙って見つめていた。その眼差しに李征はまだ気づいていなかった。



その夜遅く、李征は水を飲みに土間へ降りた。すると、閉め切ったはずの戸の隙間から母の話し声が漏れているのに気づいた。相手は隣家のおばさんらしかった。李征は水瓶に伸ばしかけた手を止め、闇の中でじっと耳を澄ませた。


「……役人が、近々このあたりにも来るって話だよ」


「まさか。こんな山奥まで」


「巨鹿の一件でどの郡もぴりぴりしてるらしい。若い男を見境なく駆り出してるって噂だ」


「うちには……」


母の声がそこで途切れた。李征は戸の陰で息を潜めた。心臓の音がやけに大きく聞こえた。自分の鼓動が戸の向こうにまで聞こえてしまうのではないかと思うほどだった。


「まあ、この村までは来ないだろうさ。こんな辺鄙な場所、都の連中は忘れてるくらいだからね」


隣家のおばさんは、そう笑って話を締めくくった。母もつられたように小さく笑った。だがその笑い声は、李征の耳にはどこか乾いて聞こえた。乾いた笑い声の後ろに何か別のものが隠れているような、そんな響きだった。


李征は水も飲まずに寝床へ戻った。目を閉じても母の途切れた声だけが頭の中で何度も繰り返された。


うちには——


その先に、母が何を言おうとしたのか、李征にはわからなかった。わからないまま、いつのまにか眠りに落ちていた。夢の中でもあの途切れた声だけがずっと耳の奥で響いていた。





翌朝、妹の阿妍が熱を出した。三日前からの微熱がぶり返し、今度は顔が真っ赤になるほどだった。額に触れると、火のように熱い。母は薬草を煎じてやったが、熱は下がらなかった。阿妍は浅い息を繰り返しながら、時折うわ言のように何かを呟いた。


昼過ぎ、母は李征に村外れまで使いを頼んだ。その声には、いつもの落ち着きよりも、切迫したものが滲んでいた。


「太平道の人たちが、まだ近くにいるらしいの。符水をもらってきてくれる?」


李征は一瞬躊躇った。あの、理由のない微笑み。茶碗の底の印。胸の奥に沈んでいた不安がまた頭をもたげる。だが、阿妍の赤い顔と浅い息遣いを見ると、それ以上何も言えなかった。


「……わかった」


李征は竹筒を手に、村外れへと向かった。峠に近づくにつれ、あの朝感じた沈黙がまた肌にまとわりついてくるようだった。一歩ごとに、足の裏から冷たさが伝ってくる気がした。

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