第三十一話 新しい上履き
上履きの箱を開けると、白いゴムの匂いがした。
「今の、もうきついでしょ」
母さんが棚の前で言った。
「まだ履ける」
「履けるのと、ちょうどいいのは違うよ」
「ちょっとだけだし」
「ちょっとだけ痛いなら、もう小さいの」
言い返そうとして、やめた。
たしかに、終業式の日も少し当たっていた。つま先の方だけ、ぎゅっと押される感じがあった。
母さんが一つ大きい箱を取って、俺に渡す。
「履いてみて」
店のすみの小さい椅子に座って、片方だけ履いた。
かかとが少し余る。
「大きい」
「歩いてみなさい」
言われた通り、通路を二、三歩だけ歩いた。
靴底が床にこすれて、きゅっと鳴った。
「どう?」
「ちょっと大きい」
「でも痛くないでしょ」
「痛くはない」
「じゃあ、それにしよう」
母さんは値札を一回見て、そのまま箱をかごに入れた。
「俺、すぐ大きくなるかな」
「なるんじゃない?」
「適当」
「適当じゃないよ。去年より大きくなってるんだから」
母さんは笑って、今までの上履きを入れてきた袋を俺に持たせた。
古い方は、つま先が少し黒くなっていた。
洗っても、もう真っ白にはならない。
「私のも見るって言った」
後ろから姉ちゃんの声がした。
いつの間にか、文房具売り場の方から戻ってきていた。
「言ったよ」
母さんが答えると、姉ちゃんは少し得意そうな顔をした。
「シャーペン見に行く」
「一本だけね」
「分かってる」
「本当に?」
「二本もいらないし」
姉ちゃんは返事を待たずに、文房具売り場へ戻った。
母さんと俺もその後についていく。
文房具の棚には、シャーペンや消しゴムやノートがぎっしり並んでいた。
姉ちゃんは太いグリップのついたシャーペンを一本持って、試し書きの紙に線を引いた。
「これが、いい」
「もう決めたの?」
「持ったら分かる」
「そんなに違う?」
「違うよ。こういうのは大事」
姉ちゃんはもう一度、紙の端に丸を書いた。
「こういちも書いてみる?」
「いい」
「なんで」
「買うの姉ちゃんだろ」
「書くだけ」
「あとで欲しくなったら困る」
「欲しくなるんだ」
「だから書かない」
姉ちゃんが笑って、シャーペンを母さんの買い物かごに入れた。
その中には上履きの箱と、国語のノートと、算数のノートが入っている。
「連絡帳は?」
母さんに聞かれて、俺は少し迷った。
「まだある」
「何ページくらい?」
「たぶん、半分より少し少ないくらい」
「じゃあ買っておこうか」
「いいの?」
「どうせ使うでしょ」
母さんは連絡帳も一冊入れた。
俺はかごの中を見た。
上履きの箱の横に、ノートと連絡帳と、姉ちゃんのシャーペンが入っている。
母さんは少しだけかごを持ち直して、そのまま消しゴムの棚を見た。
「こういち、消しゴムは?」
「まだある」
「小さくなってない?」
「なってるけど、まだ使える」
母さんは少し考えて、二個入りの消しゴムを取った。
「これは買っておく」
「二個も?」
「なくすでしょ」
「なくさない」
「この前、学校でなくしかけたって言ってたでしょ」
「次の日に見つけたって言ったじゃん」
「見つかったからいい、じゃないの」
姉ちゃんがすぐ横から言った。
「消しゴムってすぐどっか行くよね」
「姉ちゃんもなくしてるだろ」
「たまにね」
母さんが笑って、消しゴムもかごに入れた。
レジの近くに、ゲームの棚が少しだけ見えた。
ゲームボーイカラーのソフトの箱が、何本か並んでいる。
一瞬だけ目が行った。
「今日は学校で使うものだけね」
母さんに言われて、俺はすぐ前を向いた。
「分かってる」
「見るのはいいけど」
「今日は見ない」
姉ちゃんがシャーペンを持ったまま、にやっとした。
「こういちも欲しいものあるんじゃん」
「あるけど、今日は違う」
「なんかえらそう」
「えらそうにしてないだろ」
「えらそうだった」
レジで母さんが財布を出した。
レジの音が何回か鳴って、最後に姉ちゃんのシャーペンが袋に入った。
姉ちゃんは、自分のシャーペンだけを目で追っていた。
袋を持つと、上履きの箱の角が腕に当たった。
店の外は、思ったより明るかった。
風はまだ冷たいけど、冬の冷たさとは少し違う。
「帰ったら名前書かないとね」
母さんが言った。
「上履きに?」
「そう。あとノートも」
「今日書く?」
「今日書かないと忘れるよ」
それは少し想像できた。
家に帰ると、玄関で母さんが上履きの箱を開けた。
「先に名前を書こうか」
俺はランドセルから油性ペンを出した。
新しい上履きのかかとの内側に、藤宮、と書く。
線が少し太くなった。
「名前、大きくない?」
姉ちゃんが横からのぞく。
「見える方がいいだろ」
「大きすぎ」
「姉ちゃんのシャーペンにも書く?」
「書かない」
「なくすぞ」
「なくさないって」
姉ちゃんは買ったばかりのシャーペンを出して、ノートの端に何か書いた。
カチカチ、と芯を出す音がする。
「見て。線きれいじゃない?」
「そうか?」
「そうだよ」
俺には、前の鉛筆とそこまで違うようには見えなかった。
でも姉ちゃんは満足そうだった。
夕方、父さんが帰ってきて、玄関の上履きに気づいた。
「新しいのか」
「うん」
「足、大きくなったな」
「たぶん」
「たぶんじゃないだろ」
父さんは少し笑って、靴を脱いだ。
食卓では、姉ちゃんがまたシャーペンを出していた。
「ご飯の時はしまいなさい」
母さんに言われて、姉ちゃんは名残惜しそうに筆箱へ戻した。
「明日も使う」
「宿題ないだろ」
「何か書けばいいじゃん」
「何かって何」
「名前とか」
父さんが新聞を広げながら、少しだけ笑った。
夜、玄関には、新しい上履きの箱がまだ出たままだった。
古い方は、洗面所の新聞紙の上に置かれている。
つま先の黒い線は、たぶんもう落ちない。
居間の方から、姉ちゃんのシャーペンの音がまた聞こえた。
カチカチ。
それから、母さんの声。
「芯、出しすぎ」
姉ちゃんが何か言い返している。
俺は玄関の上履きをもう一回見てから、部屋に戻った。




