第一話 平成十二年の朝
「一等、かもしれん」
父さんの声が、少し低かった。
テーブルの上にはメモ用紙が置かれ、父さんはロト6の券を手に持っていた。
六つの数字。
俺が書いた数字だった。
誕生日でも、適当に選んだ数字でもない。一周目の人生で、三等に当たった父さんが「あと一つで一等だった」と話すたびに読み上げていた当選番号だ。
その数字で、俺は平成十二年の売り場でロト6を買った。
全部、あの朝から始まった。
* * *
目を開けると、白い天井が見えた。
細い木のふち。壁に貼られた時間割。机の横にかかった給食袋。
見覚えのあるものばかりなのに、寝ぼけた頭が追いつかない。
会社。
遅刻。
そう思って起き上がろうとして、布団の中で手が止まった。
布団を押したつもりなのに、力がうまく入らない。
袖の先から出た指が、思ったより小さかった。
「……は?」
声も高かった。
寝起きだからとか、風邪とか、そういう感じじゃない。急いでスマホを探したけれど、枕元で手に触れたのは布団の端だけだった。
代わりに、机の上に目覚まし時計が置いてあった。
七時十二分。
その横のカレンダーを見て、手が止まった。
平成十二年。四月。
見間違いだと思って、もう一回見た。
平成十二年。
「……なんで」
俺は布団から出て、立とうとして、少しふらついた。床との距離感がうまくつかめない。
青い半透明の筆箱。
棚に並んだ漫画。
小さい頃に使っていたはずの、傷だらけのランドセル。
見覚えはある。でも、昨日ここで寝た記憶はない。
戻ってる。
昨日までの俺は、三十六歳だった。
会社に行って、帰って、コンビニで適当に飯を買って、スマホを見ながら寝る。そんな毎日を、何年も続けていた。
朝ごはんは、だいたいコンビニのおにぎりか、会社の机で飲む缶コーヒーだった。
誰かに呼ばれて食卓に行くことなんて、もうずっとなかった。
なのに今、俺は小学生の時の部屋にいる。
理由なんて分からない。
「こういちー、朝ごはん冷めるよー」
下から母さんの声がした。
その声を聞いた瞬間、息がうまく出なかった。
俺はドアを開けて、廊下に出た。
階段の一段が高い。手すりを持つと、手のひらが小さくて変な感じがした。
洗面所に行くと、姉ちゃんが先にいた。
「遅い」
藤宮真鈴。俺より二つ上の姉は、髪を結びながら鏡越しにこっちを見ている。顔も雰囲気も、記憶にある姉ちゃんよりずっと幼い。まだ俺と同じ小学生だった。
「なに、ぼーっとしてんの」
「いや……」
「寝ぼけすぎ。今日から四年でしょ」
四年、と言われて、また少し息が詰まった。
「うるさいな」
「なにも言ってないし」
歯ブラシを取ろうとして、鏡の中の自分が見えた。
丸い頬に、寝ぐせ。まだ子供の目。何度見ても、一周目で小学四年生だった頃の俺と同じ顔だった。
台所から味噌汁の匂いがした。
母さんが茶碗を並べていて、父さんは新聞を広げている。テレビでは朝の番組が流れていた。姉ちゃんは食卓であくびをしている。
俺の席に、茶碗が置いてあった。
「どうしたの?」
母さんがこっちを見る。
「別に」
椅子に座って、箸を持った。
「……いただきます」
味噌汁を飲んだ。
豆腐とわかめ。特別でもなんでもない味。
熱くて、舌をやけどしそうになった。
「ゆっくり飲みなさいよ」
母さんが言う。
「うん」
父さんが新聞を見ながら言った。
「今日、始業式だろ」
「うん」
「何組になるか、今日分かるのか」
「たぶん」
「……四年って、勉強ちょっと難しくなる?」
言ってから、少し変な聞き方だったかもしれないと思った。
父さんが新聞を少し下げる。
「そりゃ、三年よりはな」
「そっか」
「分からないところがあったら、早めに聞け。あとで一気に聞かれると大変だからな」
「うん」
姉ちゃんが横から言った。
「朝からまじめ」
「聞いただけだって」
「ふーん」
姉ちゃんから目をそらし、茶碗の中を見た。
豆腐を一つ、箸の先で崩した。
そのまま黙っていると、姉ちゃんがこっちを見た。
「こういち、今日なんか静か」
「寝起き」
「ふーん、まだ眠そう」
「うるさい」
食べ終わってランドセルを背負うと、思っていたより重かった。
玄関で靴を履いていると、母さんが言った。
「忘れ物ない?」
「……たぶん」
「たぶんじゃ困るでしょ」
俺はランドセルを開けて、連絡帳と筆箱を見た。
入っている。
校門へ向かう道は、春の匂いがした。
スマホはない。
会社もない。
通学路は、思っていたより狭かった。
でも今の身長だと、ちゃんと広い。電柱も、ブロック塀も、横断歩道の白線も、大きく見える。ランドセルの横で給食袋が揺れて、そのたびに紐が手に当たった。
遠くで誰かが「おはよー」と叫んでいる。体操服袋を振り回す子、ランドセルを背負った子、黄色い帽子をかぶった下級生。みんな道いっぱいに広がって、だらだら歩いていた。
「藤宮!」
後ろから声がして振り返ると、田辺悠斗が走ってきた。頬が丸くて、ランドセルが上下に跳ねている。
「お前、今日早くね?」
「そう?」
「いつももっとぎりぎりじゃん」
そうだったかもしれない。
「なんか、早く起きた」
「えら。熱でもあんの?」
「ない」
悠斗が笑う。
「何組になるんだろ。遼太と一緒がいいな」
「三浦?」
「そう。あいつ、昨日新しいゲーム買ったって言ってた」
ゲームと聞いて、テレビの前に何人かで座って、順番にコントローラーを回していた部屋の感じがふっと戻ってきた。
「放課後、行く?」
悠斗が何気なく言った。
俺は返事に迷った。
断る理由を探しかけて、やめた。
「行く」
「即答じゃん。いつもそんな早く返事しないのに」
「たまにはいいだろ」
「じゃあ遼太んち行こうぜ。たぶんいるし」
「いなかったら?」
「公園行けばいいし、誰かいるだろ」
「適当だな、それ」
「だいたいそれで会えるし」
校門が見えてきた。白い校舎と、昇降口のざわめき。子供たちがもう集まり始めている。
ランドセルが肩に食い込む。さっきした放課後の約束も、頭の隅に残っていた。
悠斗が先に走っていく。
「藤宮、早く!」
「分かってる」
俺はランドセルの肩紐を握り直して、校門の中へ入った。
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