九十八 私心いっぱい
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酒屋の前で、珊瑚は幸一と修良を見送った。
「それがしはしばらくこの町に泊まる。近いうちに仙縷閣のお芝居を拝見しに行くよ」
修良は珊瑚の行動に興味がなく、先に帰り道に歩き出した。
幸一は一旦止まって珊瑚と別れの挨拶をした。
「俺たちはしばらく仙縷閣にいる。また一緒にご飯を食べよう」
「修良さんが許可してくれたらね」
珊瑚はにっこりと修良の背中を覗いた。
この賢い狐は修良の雰囲気がいつもと違うことにすでに気付いた。
幸一が還初太子の意識に呑み込まれた頃、珊瑚は重くなった修良を見たことがある。
あの時の修良から感じたのは、絶対に手放さない執着だった。
でも今の修良は、まるで何処かをさまよっているような雰囲気だ。
「そうだ、幸一」
幸一が離れる前に、珊瑚はさきから浮かんできた考えを口にした。
「あの太陽太歳のことだけど、よく考えてみれば――修良さんを標的にしたのなら、ある意味、確かに救世主じゃない?」
「!」
幸一の瞳が一瞬に拡張した。
「ごめん、冗談だ」
珊瑚は笑ってごまかそうとしたが、幸一は真剣な目で話を返した。
「そんな冗談、珊瑚でも許さないぞ。伝説はどうであれ、先輩は世界を滅んでいない」
「……なるほど。大変失礼いたしました」
珊瑚は真面目に謝った。
今は確信した。
表では分かりにくかったけど、幸一も、今までとちょっと変わった。
「余計なことを喋ったかな。でも、幸一の反応を見ると、彼も気づいたのだろう――」
珊瑚は独り言を喋りながら、酒屋の曲がり角に視線を送った。
「あなたはどう思う?于右さん」
「にゃっ!!」
木箱が崩れた音と共に、一匹の灰色の猫が転がり落ちた。
床についた瞬間、猫は人間の姿に変わった。
その人はほかでもなく、この前に、珊瑚が御霊堂の前で捕まった参謀の于右だった。
「もう言っただろ?于右さんが素直に白状してくれれば、噂の件を許してもらうように幸一を説得してあげる。それがしを信じていないの?」
珊瑚はニコニコしていて、于右の前まで来た。
「そ、そんな、珊瑚様を信じていないなんて、めっそうもございません!」
于右は身なりを整えながら急いで立ち上がった。
「じゃあ、誰かさんに頼まれて、それがしの行動を監視しに来たのか?」
「そう……じゃないです!」
于右は頷きしそうとした瞬間、ガラッと話を変えた。
「確かに、珊瑚様の動きを把握するように啸風様に言われたけど、別に、監視する意味じゃないです。今回は、啸風様のご命令で珊瑚様に重要なことを知らせに来ました!」
「重要なこと?」
珊瑚は不思議で瞬きをした。
彼の仕事を禁じたのは啸風本人じゃないか。
「救世主が……見つかりました」
「!」
幸一と珊瑚が別れの挨拶をしている間に、修良はずっと歩き続けていた。
幸一は小走りで修良を追った。
「先輩、待ってください!先輩!」
「……」
幸一の呼び声を聞いて、修良はやっと足を止めた。
「俺たちはしばらくこの町に泊まっていいよな」
「いいんじゃない。幸一はまだ鏡花さんのことが気になるだろ」
「鏡花さんのことだけじゃないけど……」
「鏡花さんについて何か分かったのか?」
幸一の話がまだ終わっていないのに、修良は幸一に振り向いて、微笑みながら質問を出した。
「いいえ……何も……」
なぜか、幸一はその笑顔が遠いと感じた。
「幸一は相変わらず人の見分けが苦手だね。法術で試さなかったの?」
「しなかった。彼は人間か妖怪か神か、別に構わない。種族が変わったところで鏡花さんは鏡花さんだ」
「……幸一は相変わらずみんなを公平に見ているのね」
修良は淡々な微笑みを維持した。
「全然、俺は私心いっぱいだ」
幸一は修良に一歩近づき、彼の目をまっすぐ見る。
「鏡花さんが気になったのは、鏡花さん自身のためじゃなく、彼の顔が天良鬼――昔の先輩にそっくりだから。一時的に戸惑ったけど、今はすっきりした。顔なんてどうでもいい。顔や種族で人のことを言うのは最低じゃないか――
顔が変わったところで、先輩は先輩だ。俺は、目の前にいる先輩だけを見る」
「!」
修良の心臓の鼓動はまた制御を聞かずに早くなった。
この子は、いつこんな人の心に直撃する話術を覚えたのか……
いいえ、昔からそうだったのかもしれない。
遠い昔の前世から、彼は自分の心を貫く力を持っていた。
「だから、これから鏡花さんのところに行くのは、顔のためじゃない。別のお願いがあるからだ」
「……」
(いい話と思ったら、続きはそれ……?こいつ、やっぱり無意識に喋っているな。)
修良は心の中でやれやれと嘆いた。
「幸一、今、とんでもないクズ発言をしたよ。分かってる?」
冗談交じりで修良は幸一に気づかせようとした。
「クズ発言!?」
幸一は目を大きく張って、明らかに修良の意味を悟らなかった。
「俺、何かおかしいことでも言った?いけないことを言った!?」
慌てて問い詰める幸一を見て、修良は思わず笑い声を吹き出した。
「フっ、フフフフ」
「鏡花さんに頼んだことだったら、先輩にも鏡花さんにも失礼なことじゃないんだ。そのうち、先輩に事情を明かす、保証する!」
「いいよ」
修良は幸一の頭をなでなでして、月光のような静かな眼差しで幸一を見つめる。
「幸一は、私に何をしてもいい」
***
深夜、柳蓮県の大道路、一片の白い影が閃いた。
夜番の老人は目を擦って、はっきり見ようとしたが、その影はも何処にもない。
まもなく、世界の縫い目と呼ばれた峡谷の一番深いところに、その影が現れた
――白い衣裳の鏡花だった。
鏡花の手には大きな白い花の束、目の前には深く、漆黒な深淵。
深淵の底から、微かな喚き声が響いている。
鏡花は白い花を夜風に乗せて、深淵に投げ出した。
白い花から清らかな光が浮かんできて、深淵の暗闇に溶けていく。
徐々に、喚き声が聞こえなくなった。
鏡花は深淵に向けて合掌した。
「あなたたちはそこから出てはいけません。天地に帰るまでに、静かに眠り続けてください」
そう言って、鏡花は懐から洞簫を取り出して、一曲を捧げようと構えた。
その時、後ろから他人の気配がした。
鏡花は驚きもせずに、ゆっくりとその人に振り向いた。
銀色の長い髪と氷のような瞳を持つ、たくましい武人の青年だ。
青年の目から狼の目のような燐光が放った。
彼は人間ではない。妖怪でありながら、人間の朝廷で粛衛将軍を務める擎啸風だ。
啸風は冷徹な声で、鏡花に話をかけた。
「貴殿は、救世主ですか?」
「……」
「俺は御霊堂粛衛将軍の擎啸風。皇帝陛下の直の命令を受け、『天命の星』に示された救世主を尋ねに来た」
啸風は単刀直入に目的を告げた。
「……」
「違います」
静寂がしばらく続いてから、鏡花から返事があった。
「私は救世主などではありません。どちらと言うと、かつて世界を滅ぼした、『天良鬼』というものです」
「!」




