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九十八 私心いっぱい

***


酒屋の前で、珊瑚は幸一と修良を見送った。


「それがしはしばらくこの町に泊まる。近いうちに仙縷閣のお芝居を拝見しに行くよ」


修良は珊瑚の行動に興味がなく、先に帰り道に歩き出した。


幸一は一旦止まって珊瑚と別れの挨拶をした。


「俺たちはしばらく仙縷閣にいる。また一緒にご飯を食べよう」


「修良さんが許可してくれたらね」


珊瑚はにっこりと修良の背中を覗いた。


この賢い狐は修良の雰囲気がいつもと違うことにすでに気付いた。


幸一が還初太子の意識に呑み込まれた頃、珊瑚は重くなった修良を見たことがある。


あの時の修良から感じたのは、絶対に手放さない執着だった。


でも今の修良は、まるで何処かをさまよっているような雰囲気だ。


「そうだ、幸一」


幸一が離れる前に、珊瑚はさきから浮かんできた考えを口にした。


「あの太陽太歳のことだけど、よく考えてみれば――修良さんを標的にしたのなら、ある意味、確かに救世主じゃない?」


「!」


幸一の瞳が一瞬に拡張した。


「ごめん、冗談だ」


珊瑚は笑ってごまかそうとしたが、幸一は真剣な目で話を返した。


「そんな冗談、珊瑚でも許さないぞ。伝説はどうであれ、先輩は世界を滅んでいない」


「……なるほど。大変失礼いたしました」


珊瑚は真面目に謝った。


今は確信した。


表では分かりにくかったけど、幸一も、今までとちょっと変わった。




「余計なことを喋ったかな。でも、幸一の反応を見ると、彼も気づいたのだろう――」


珊瑚は独り言を喋りながら、酒屋の曲がり角に視線を送った。


「あなたはどう思う?于右さん」


「にゃっ!!」


木箱が崩れた音と共に、一匹の灰色の猫が転がり落ちた。


床についた瞬間、猫は人間の姿に変わった。


その人はほかでもなく、この前に、珊瑚が御霊堂の前で捕まった参謀の于右(うゆ)だった。


「もう言っただろ?于右さんが素直に白状してくれれば、噂の件を許してもらうように幸一を説得してあげる。それがしを信じていないの?」


珊瑚はニコニコしていて、于右の前まで来た。


「そ、そんな、珊瑚様を信じていないなんて、めっそうもございません!」


于右は身なりを整えながら急いで立ち上がった。


「じゃあ、誰かさんに頼まれて、それがしの行動を監視しに来たのか?」


「そう……じゃないです!」


于右は頷きしそうとした瞬間、ガラッと話を変えた。


「確かに、珊瑚様の動きを把握するように啸風(しょうふう)様に言われたけど、別に、監視する意味じゃないです。今回は、啸風様のご命令で珊瑚様に重要なことを知らせに来ました!」


「重要なこと?」


珊瑚は不思議で瞬きをした。


彼の仕事を禁じたのは啸風本人じゃないか。


「救世主が……見つかりました」


「!」




幸一と珊瑚が別れの挨拶をしている間に、修良はずっと歩き続けていた。


幸一は小走りで修良を追った。


「先輩、待ってください!先輩!」


「……」


幸一の呼び声を聞いて、修良はやっと足を止めた。


「俺たちはしばらくこの町に泊まっていいよな」


「いいんじゃない。幸一はまだ鏡花さんのことが気になるだろ」


「鏡花さんのことだけじゃないけど……」


「鏡花さんについて何か分かったのか?」


幸一の話がまだ終わっていないのに、修良は幸一に振り向いて、微笑みながら質問を出した。


「いいえ……何も……」


なぜか、幸一はその笑顔が遠いと感じた。


「幸一は相変わらず人の見分けが苦手だね。法術で試さなかったの?」


「しなかった。彼は人間か妖怪か神か、別に構わない。種族が変わったところで鏡花さんは鏡花さんだ」


「……幸一は相変わらずみんなを公平に見ているのね」


修良は淡々な微笑みを維持した。


「全然、俺は私心いっぱいだ」


幸一は修良に一歩近づき、彼の目をまっすぐ見る。


「鏡花さんが気になったのは、鏡花さん自身のためじゃなく、彼の顔が天良鬼――昔の先輩にそっくりだから。一時的に戸惑ったけど、今はすっきりした。顔なんてどうでもいい。顔や種族で人のことを言うのは最低じゃないか――


 顔が変わったところで、先輩は先輩だ。俺は、目の前にいる先輩だけを見る」


「!」


修良の心臓の鼓動はまた制御を聞かずに早くなった。


この子は、いつこんな人の心に直撃する話術を覚えたのか……


いいえ、昔からそうだったのかもしれない。


遠い昔の前世から、彼は自分の心を貫く力を持っていた。




「だから、これから鏡花さんのところに行くのは、顔のためじゃない。別のお願いがあるからだ」


「……」


(いい話と思ったら、続きはそれ……?こいつ、やっぱり無意識に喋っているな。)


修良は心の中でやれやれと嘆いた。


「幸一、今、とんでもないクズ発言をしたよ。分かってる?」


冗談交じりで修良は幸一に気づかせようとした。


「クズ発言!?」


幸一は目を大きく張って、明らかに修良の意味を悟らなかった。


「俺、何かおかしいことでも言った?いけないことを言った!?」


慌てて問い詰める幸一を見て、修良は思わず笑い声を吹き出した。


「フっ、フフフフ」


「鏡花さんに頼んだことだったら、先輩にも鏡花さんにも失礼なことじゃないんだ。そのうち、先輩に事情を明かす、保証する!」


「いいよ」


修良は幸一の頭をなでなでして、月光のような静かな眼差しで幸一を見つめる。


「幸一は、私に何をしてもいい」




***


深夜、柳蓮県(りゅうれんけん)の大道路、一片の白い影が閃いた。


夜番の老人は目を擦って、はっきり見ようとしたが、その影はも何処にもない。


まもなく、世界の縫い目と呼ばれた峡谷の一番深いところに、その影が現れた


――白い衣裳の鏡花だった。


鏡花の手には大きな白い花の束、目の前には深く、漆黒な深淵。


深淵の底から、微かな喚き声が響いている。


鏡花は白い花を夜風に乗せて、深淵に投げ出した。


白い花から清らかな光が浮かんできて、深淵の暗闇に溶けていく。


徐々に、喚き声が聞こえなくなった。


鏡花は深淵に向けて合掌した。


「あなたたちはそこから出てはいけません。天地に帰るまでに、静かに眠り続けてください」


そう言って、鏡花は懐から洞簫(どうしょう)を取り出して、一曲を捧げようと構えた。


その時、後ろから他人の気配がした。


鏡花は驚きもせずに、ゆっくりとその人に振り向いた。


銀色の長い髪と氷のような瞳を持つ、たくましい武人の青年だ。


青年の目から狼の目のような燐光が放った。


彼は人間ではない。妖怪でありながら、人間の朝廷で粛衛(しゅくえい)将軍を務める擎啸風(けいしょうふう)だ。


啸風は冷徹な声で、鏡花に話をかけた。


「貴殿は、救世主ですか?」


「……」


「俺は御霊堂(ごれいどう)粛衛将軍の擎啸風。皇帝陛下の直の命令を受け、『天命の星』に示された救世主を尋ねに来た」


啸風は単刀直入に目的を告げた。


「……」


「違います」


静寂がしばらく続いてから、鏡花から返事があった。


「私は救世主などではありません。どちらと言うと、かつて世界を滅ぼした、『天良鬼』というものです」


「!」

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