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そして、別れの夜が訪れた。
昭和の初め、春の嵐が吹き荒れ、咲き誇っていた桜の花びらが激しく舞い散る、冷たい宵の口だった。
屋敷を抜け出してあばら家に駆け込んだ時、若葉の父はただ涙を流して立ち尽くしていた。
もはや誰も、俺を止める者はいなかった。
土足のまま病室へと駆け上がると、薄い布団の上に横たわる若葉は、今にも消え入りそうな蝋燭の炎のようになっていた。
「若葉……! 若葉!」
「あ……れん……いち、ろう……さま……」
焦点の合わない瞳が、微かに揺れて俺を捉えた。
俺はもう、感染など微塵も恐れず、彼女のやせ細った右手を両手で強く、痛いほどに握りしめた。
氷のように冷たかった。
あんなにしなやかに、大地を蹴って宙を舞っていた彼女の身体から、生命の熱が容赦なく奪い去られていく。
「ごめん……ごめんな、若葉! 俺が……俺が無力なばかりに、お前をこんな目に遭わせて……! 手も握ってやれず、抱きしめてもやれず……!」
「いいえ……いいえ、蓮一郎さま……。私は……幸せでした……」
若葉の唇が、微かに震えた。
彼女は最後の力を振り絞るように、握りしめられた俺の手のひらを、ぎゅっと握り返してきた。
その細い指先から、途切れ途切れの、魂を削るような辞世の短歌がこぼれ落ちる。
『散る桜 契りも遂げぬ 宵なれど 来世の春に 君を待つらし』
(手も握れず、契りを遂げることも叶わずに散っていく桜のような私ですが……来世の春、必ず貴方を待っています)
「若葉……っ、行くな! 置いていかないでくれ!」
「蓮一郎さま……悔しい、です……。私、貴方の……本当のお嫁さんに、なりたかった……。貴方の腕に抱かれて……そのお胸に、飛び込みたかった……」
大粒の涙が、若葉の青白い頬を伝って枕へと落ちる。
彼女は最後の最後、震える唇を俺の耳元へと寄せ、熱い息とともに、呪いのように甘く切ない遺言を遺したのだった。
『来世では……今度こそ、貴方のすべてをちょうだいね……』
カクン、と彼女の首が傾いだ。
握りしめていた右手が、ふわりと力を失い、シーツの上に滑り落ちた。
「若葉ぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
春の嵐の咆哮を切り裂くように、俺の慟哭が夜の帳へと木霊した。
結局、俺たちは最後まで、唇を重ねることすら叶わなかった。
処女のまま散っていった若葉の冷たい額に、俺は初めて、そして最後の口づけを落とした。
涙で滲む視界の中、散りゆく夜桜だけが、狂ったように美しく舞い散っていた。




