第5話 颯太の初恋
バーを出たあと、颯太は小春を自宅まで送ってくれた。
当然のように玄関までついてくるのではないかと警戒していたが、颯太は小春のアパートの前で足を止めた。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「……え」
あまりにもあっさり帰ろうとする颯太に、思わず驚いてしまう。
その様子を見て、颯太が少しだけ悪戯っぽく笑う。
「……泊まっていって、ほしいんですか?」
「ち、違う!」
「身体の関係もキスも禁止って、さっき約束しましたから。今日は大人しく帰りますよ」
「当たり前でしょ!」
「はい」
からかうように笑った後、颯太は小春の顔を覗き込んだ。
「また連絡します」
颯太は嬉しそうに言い残し、小春が何か返す前に背を向けた。
遠ざかる背中を見送りながら、小春は長いため息を吐いた。
「……本当に付き合うことになっちゃった。いや、丸め込まれた?」
部屋へ入り、鍵をかける。
靴を脱いだ途端、身体の力が抜けた。
昨日は面接で颯太と険悪になり、今日は採用通知が届き、そのまま勢いに任せて、なぜか三ヶ月限定の交際まで承諾してしまった。
なぜ、こんなことに……。
いろいろありすぎて、頭が追いついていかない。
小春はソファーへ倒れ込み、クッションへ顔を埋めた。
何も言わずに面接官として座っていた颯太が許せなかった。
でも、今日、颯太は採用の理由をきちんと説明してくれた。
小春が納得できるまで話し、仕事と個人的な関係は別だと言い切ってくれた。
それだけは、少しありがたいと思う。
しかし、だからといって、颯太という男を信用したわけではない。
「どう考えても、信用できないでしょ……」
小春は仰向けになり、天井を見上げた。
昔から、人との関係に自信がなかった。
十二歳で父を亡くしてから、母との二人暮らしが始まった。
母は小春を心配するよりも、失敗しないように、間違えないようにと、何かにつけて小春の選択を否定した。
何かに挑戦しようとすれば、どうせ無理だと言われた。
自分の意見を口にすれば、生意気だと叱られた。
『あんたは本当に可愛げのない女だ』
何度もそう言われるうちに、本当にそう思い込むようになった。
そして、自分の気持ちよりも、誰かに嫌われないことを優先するようになった。
だから涼介に強く求められた時、嬉しかった。
この人だけは、自分を必要としてくれる。
そう思った。
結婚を決めた時、母には言われた。
『あんたみたいな女、すぐに飽きられる』
その言葉を、笑って聞き流せたのは、涼介を信じていたからだ。
けれど結局、母の言葉は現実になった。
涼介は小春に飽き、別の女を選んだ。
だから、颯太の好意も信じられない。
好きだと言われても、どうせ一時の気の迷いだと思ってしまう。
優しくされても、からかわれているように感じる。
「……信じられるわけないじゃん」
小春はクッションへ顔を埋めた。
三ヶ月後ではなく、もっと早く終わらせた方がいいかもしれない。
そう思いながら、小春は目を閉じた。
◆◆◆
颯太はタワマンへ戻ると、大きな伸びをしながらリビングへ入った。
窓の外には、無数の明かりに彩られた東京の夜景が広がっている。
けれど颯太は景色へ目を向けず、ソファーへ腰掛けた。
頭にあるのは、小春のことだけ。
「三ヶ月もあるんだ。……計画とは、随分違ったけど」
颯太は小さく笑った。
小春はきっと、自分のことを信用していない。
軽い男だと思っているのだろう。
からかって、飽きたら捨てるような男だと。
それでも構わなかった。
今はそう思われていても、三ヶ月ある。
誤解を解く時間も。
本気だと伝える時間も。
小春が怖がらずにこちらを見てくれるようになるまで、待つ時間もある。
颯太にとって、これは一時の気まぐれではない。
ずっと胸の奥に抱えてきた初恋だった。
少しひどいことを言われて諦められる程度なら、とっくに忘れている。
「逃がすわけないだろ。“小春ちゃん”」
懐かしい呼び名を口にして、颯太は幸せそうに目を細めた。
◆◆◆
翌日、日曜日の朝。
正確には、もう昼近くだった。
小春はカーテンも開けず、薄暗い部屋の中で布団にくるまっていた。
目はとっくに覚めている。
それでも起き上がる気になれず、スマホを眺めたり、意味もなく寝返りを打ったりしながら、だらだらと時間だけを過ごしていた。
昨日だけでも十分疲れたというのに、この数日はあまりにも多くのことが起こりすぎている。
考えれば考えるほど、また眠くなってくる。
「今日はもう、何もしない……」
小春が布団へ顔を半分埋めた時、枕元に置いたスマホが震えた。
画面に表示された名前を見て、小春は眉を寄せる。
神城颯太。
出るべきか。
出たくない。
けど、無視をしたら何度もかけてくる気もする。
小春はしばらく画面を睨んだ末、諦めて通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『おはようございます、小春さん』
耳元に、明るく爽やかな声が響いた。
朝からどうしてそんなに元気なんだろう……。
小春は眩しいものから逃げるように、もう一度布団の中へ潜り込んだ。
『小春さん、まだ寝てるんですか?』
「起きてるけど、また寝るところ」
『もうすぐお昼ですよ』
「昨日、いろいろありすぎて疲れたの。今日は一日寝るって決めたから」
『そんなこと決めなくても……』
電話の向こうで、颯太が小さく笑っている。
その声を聞くだけで、昨日の嬉しそうな顔まで思い出してしまい、小春は落ち着かない気持ちになった。
『何か食べたいものはありませんか?』
「別にない」
『何も食べてないでしょう?』
「お腹が空いたら適当に食べるから」
『冷蔵庫に何か入ってます?』
「……たぶん」
『この前もほとんど何も入っていませんでしたよ』
また笑われた。
小春は少しむっとして、布団の中で背中を丸める。
「何なの? 関係ないじゃん」
『彼氏として心配してるんです』
「その言い方、慣れないからやめて!」
『そのうち慣れますよ』
何の根拠があるのか、颯太は妙に自信満々だった。
少しの沈黙のあと、颯太が何気ない口調で続ける。
『俺、今ちょうど近くにいるんですけど、行ってもいいですか?』
「駄目」
『ええー……即答?』
「今日は人に会いたくないの。本当に疲れてるから、ほっといて」
『少しだけは?』
「嫌。今日は無理」
小春はそう言い切ると、颯太が何か返す前に続けた。
「じゃあ、もう寝るから」
『小春さん――』
「おやすみ」
一方的に通話を切り、スマホを枕元へ放り投げる。
部屋の中に、再び静けさが戻った。
小春は天井を見つめながら、長く息を吐いた。
これから、どうすればいいのだろう。
勢いで、三ヶ月だけ付き合うと言ってしまった。
けれど小春は、颯太を信用したわけではない。
むしろ逆だ。
余裕のある笑顔で距離を詰めてきて、こちらが動揺するのを楽しんでいるように見える。
そして、完全に手に入ったと思ったら、急に興味をなくすのだ。
涼介の時だって、最初はあんなに求められていた。
だから小春は知っている。
必要とされることと、大切にされ続けることは、同じではない。
颯太の言葉に騙されてはいけない……。
あの笑顔を、本気だと思ってはいけない……。
「……信じちゃだめ」
小春はクッションへ顔を埋め、そう自分に言い聞かせた。
「……そうだ」
ふと、小春は目を瞬いた。
颯太から離れていくのを待つ必要などない。
こちらから、嫌われるように仕向ければいいのだ。
わがままで、図々しくて、付き合いきれない女だと思わせれば、三ヶ月を待たずに颯太の方から離れてくれるかもしれない。
「最低な彼女になればいいんだ……」
小春はむくりと起き上がった。
そうだよ。
どうせあの男は、今だけ楽しいだけなのだ。
手に入れるまでの過程を楽しんでいるだけ。
だったら、面倒くさい女になればいい。
お金のかかる女になればいい。
付き合った途端に要求ばかりしてくる女だと思わせればいい。
そしたら、呆れて手放してくれるはずだ……!
「よし……!」
小春は先ほど放り投げたスマホを手に取った。
ほんの少しだけ迷ったあと、颯太の名前を押す。
一度目の呼び出し音が鳴り終わるより早く、通話がつながった。
『小春さん、どうしました?』
待っていたような声だった。
さっき一方的に電話を切ったのに、颯太は少しも怒っていない。
けれど、ここで怯んではいけない。
小春はわざと冷たい声を作った。
「颯太くん。私、ヴァーナレットに入るにしても、他の会社に入るにしても、スーツが何着か必要なの」
『はい』
「だから……買ってよ!」
電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。




