第3話 颯太の正体
面接を終えてビルを出た瞬間、小春は大きく息を吐いた。
昼の光を反射するガラス張りの高層ビルを振り返ると、さっきまでいた26階が、ひどく遠い場所に見える。
「……最悪だ!!」
小さく吐き捨て、小春は足早に駅へ向かった。
面接の手応えなど、考えるまでもなかった。
採用権を持つ人間に真正面から意見し、最後には嫌味まで返してしまったのだ。
不合格は確実だろう。
でも後悔はない。
腹が立つのは神城颯太だ。
小春が面接を受けると知っていながら、何も知らないふりをしていたのだ。
しかも昨夜は一緒に酒を飲み、今朝は同じベッドで目覚めた。
その数時間後には何食わぬ顔で面接官席に座り、小春のブランクや離婚について容赦なく質問してきた。
思い出すだけで、頭の中が煮え立ってくる。
「もう、あのバーにも行かない! 神城颯太にも二度と会いたくない!! 大嫌い!」
声に出して決意しながら、目に入った立ち飲み屋で酒を飲む。
マスターに対しても、裏切られたような気持ちがあった。
ヴァーナレット・ラボは、マスターが紹介してくれた会社だ。
弟が経営に関わっている会社だから安心だと聞き、小春も応募を決めた。
それならば、颯太がその会社の人間だと知っていたはずだ。
なぜ教えてくれなかったのだろう。
気がつけば、もうすっかり外は暗くなっていた。
少しふらつく足取りで家に着くと、小春はパンプスを脱ぎ、バッグを床へ置いた。
乱暴にスーツを脱ぎ捨て、そのまま寝室へ向かう。
ベッドに倒れ込んだ瞬間、全身から力が抜けた。
怒っているはずだった。
颯太にも、マスターにも、言ってやりたいことが山ほどある。
それなのに、枕へ顔を埋めると、なぜか涙が滲んできた。
「……何なのよ、もう」
飲み友達だと思っていた。
自分の情けない話も、恥ずかしい話も、颯太なら聞き流してくれると思っていた。
遊び人でも定職に就いてなくても、いい人だと思っていたから。
けれど、その相手のことを自分は何も知らなかった。
普通の会社員でもなければ、気楽な飲み友達でもない。
颯太はあの会社の人間で、自分の採否を決められる立場にいた。
小春が必死に書類を作り、面接を怖がっていたことも、颯太は知っていた。
それでも何も言わなかった。
面接室で自分が驚くことまで分かっていたはずなのに、平然と座っていた。
――何も知らない私を、笑っていたの?
面白がっていたの?
そう思った途端、涙がこぼれた。
「馬鹿みたい……」
昨夜のことも、今朝のことも、面接でのやり取りも、全部ひっくるめて馬鹿にされているような気がした。
小春は枕に顔を押しつけたまま、しばらく泣いた。
やがて泣き疲れ、いつの間にか眠りに落ちていた。
◆◆◆
翌日土曜日の昼過ぎ。
スマホの通知音で、小春は目を覚ました。
重い身体を起こし、ぼんやりした目で画面を確認する。
届いていたのは、ヴァーナレット・ラボからのメールだった。
件名を見た瞬間、小春の眠気が吹き飛んだ。
『選考結果のご連絡』
どうせ不合格だろう。
そう思いながらメールを開き、本文へ目を走らせる。
『慎重に選考を重ねました結果、榎本小春様を採用内定とさせていただくこととなりました』
「……は?」
小春は画面を凝視した。
何度読み直しても、書かれている内容は変わらない。
採用内定。
つまり、合格したということだ。
「なんで!?」
思わず声が漏れる。
あれだけ面接官へ噛みつき、嫌味まで返したのだ。
落ちる覚悟はできていたし、むしろ不合格の方が納得できる。
それなのに合格。
意味が分からなかった。
「人を馬鹿にするのも、いい加減にしてよ……!」
小春はベッドから立ち上がった。
颯太の気まぐれや同情で採用されたのなら、こちらから辞退してやる。
そして、言いたいことを全部言う。
もう二度と行かないと決めたばかりのバーへ、小春はその日の夕方、迷うことなく向かった。
◆◆◆
『Blue Note』の扉を開くと、カラン、とベルが鳴った。
まだ開店して間もない時間だったため、店内にほかの客はいない。
落ち着いたジャズが流れるカウンターの奥で、マスターがグラスを磨いていた。
そして、いつもの席には颯太がいた。
小春の姿に気づくと、颯太は嬉しそうに笑う。
いつものようにラフな格好で、昨日の威圧感など微塵も感じさせない柔らかい雰囲気。
「小春さんだ。こんばんは」
にこやかに笑うその顔を睨みつけて無視。
まず向かったのは、颯太ではなくマスターの前だった。
「マスター。私、ものすごく裏切られた気分なんだけど!」
カウンターへ両手をつき、低い声で詰め寄る。
マスターは目を瞬かせた。
マスターの相沢は、マッチョな癖にすぐに怖がる。
「い、いきなりどうしたの!?」
「どうしたの、じゃない! どうしてこの人が、私の受けた会社の人間だって教えてくれなかったの?」
小春は颯太を指さした。
「それも、面接官ってことは上層部の人間なんでしょ!? マスター、知ってたんだよね……?」
「ああ、そのことか……」
マスターは困ったように頬をかいた。
「颯太に口止めされてたからなぁ。ごめんな、小春ちゃん」
「口止め!?」
「いや、でも俺も、まさか颯太が面接に出るとは思ってなかったんだよ。こいつ、普通は中途採用の面接にまで出てくるような立場じゃないし」
マスターは颯太へ視線を向ける。
少なくとも、マスターまで小春を騙して面白がっていたわけではないらしい。
けれど、それで怒りが収まるはずもない。
小春はゆっくり颯太へ顔を向けた。
当の本人は、悪びれる様子もなく穏やかに笑っている。
「合格おめでとうございます」
その一言に、小春はカウンターを思い切り叩いた。
乾いた音が店内に響く。
「ふざけないで!」
颯太が少しだけ目を見開く。
「私はあの会社に入るつもりないから! 採用は辞退します!」
しばらく、小春と颯太の視線がぶつかった。
颯太は笑みを消し、わずかに考えるような間を置いたあと、静かに答えた。
「今はプライベートなので、受け付けません」
「……は?」
「採用辞退の申し出は、営業時間内に人事部へ正式にお願いします。ここは会社ではありませんから」
「何それ!?」
「当然の手続きです」
淡々と言う颯太に、小春の怒りはさらに膨らんだ。
マスターは何も言わず、小春の前へジントニックを置いた。
「とりあえず……飲んだら? これ、お詫びでご馳走する」
「……飲む!!」
怒りの勢いのままグラスを受け取り、小春は颯太から遠く離れた席に座った。
ところが颯太は、自分のグラスを持って当然のように隣へ移動してくる。
「来るな!」
「話をするなら、近くの方がいいです」
「聞きたくない!」
小春は颯太に背を向けるように座り、ジントニックを一口飲んだ。
冷たい液体が喉を通っても、頭の中の熱は少しも下がらない。
颯太は横から小春の顔を覗き込んだ。
「どうして、そんなに怒ってるんですか?」
「わからないの?」
「合格したんですよ。普通は喜ぶところじゃないですか?」
小春は顔を向けないまま、グラスを強く握った。
「人を馬鹿にするのも大概にして……」
「馬鹿になんてしてません」
「してたでしょ。私が面接を受けるって知ってて、黙ってた。面接室で驚くところを見て、面白がってたんじゃないの?」
「そんなつもりはありません」
「それに、何なの、あの質問!」
小春は一気にジントニックをあおり、グラスをカウンターへ置いた。
ガン、と大きな音が鳴る。
「私の離婚のことも、仕事を辞めた理由も知ってるくせに、わざわざトラウマを抉るような言い方をして。それに最後の『少し誤解していたようです』って何?」
颯太は少し黙った。
しかし、やがて口元にかすかな笑みを浮かべる。
「それを言うなら、小春さんの返しも、なかなかパンチが効いてましたけどね」
「私の?」
「『私のことをそんなにご存じでしたっけ』って、嫌味」
颯太はグラスへ口をつけながら、小春を見る。
「あんな言い方をしたら、俺と小春さんが以前から親密な関係だと思われても仕方ないですよ」
「……」
小春は言葉を詰まらせた。
確かに、あの返しはただの応募者が面接官へ向ける言葉ではなかった。
颯太のことを個人的に知っているからこそ出た嫌味だ。
その時、マスターのスマホが鳴った。
画面を確認したマスターは、二人を交互に見たあと、カウンターの奥から出てくる。
「悪い。仕入れ先からだ。ちょっと電話してくるから、二人で飲んでて」
「え、ちょっと、マスター!」
引き止める間もなく、マスターは店の奥へ姿を消した。
静かな店内に、小春と颯太だけが残される。
それまで穏やかにグラスを傾けていた颯太が、小春へ身体を向けた。
「小春さん。俺と付き合いません?」
「……は?」




