009
事件から数日後、学校は拍子抜けするくらい静かだった。
御堂は二週間の停学になった。学校が表向きに出した理由は「備品管理記録の改ざんと運用上の不正」まで。恋文ポストで誰に何が届いたかは、生徒の名前も手紙の中身もそのまま傷になるから、関係者への個別対応で処理された。退学相当だと騒ぐ声もあったらしいが、学校は被害者の手紙をこれ以上表に出さないことを優先した。停学明けには生徒会も辞めると聞いた。
表に出てきたのは「恋文ポストの運用に問題があった」という一文だけだ。全部を晒せば真実は広まる。でも同時に、被害者の手紙まで見世物になる。学校はそこを切り離したらしい。恋文ポストの企画は今年で終了。文化祭終了後に生徒向けの告知が出る予定だと聞いた。
「こんなものか」
俺が言うと、真白は首を横に振る。
「こんなものにしないために、まだやることがある」
真白の言う「まだやること」は二つあった。一つはあかりへの説明。もう一つは夏目先輩への手紙だった。
事件の翌日の放課後、俺たちはあかりに声をかけた。いつもなら購買でジュースを買って帰るルーティンを、あかりはその日だけ変えた。「なんか話あるんでしょ、さっきからそういう顔してるから」と言って、中庭のベンチへ先に向かった。真白が一瞬だけ俺を見た。俺は「分かる人には分かる」と小声で言った。
全部じゃないが、大筋は伝えた。偽ラブレターのこと。御堂のこと。一年前の夏目先輩のこと。あかりがフレームアップに使われたこと。
あかりは最後まで黙って聞いていた。風が吹いて、明るい茶色の髪が揺れた。
「……そっか」
空を見上げてから、あかりは言う。
「私、何もできなかったな」
「できることなんかなかった。私が言わなかったから」
真白がすぐに返す。
「うん。……教えてくれてありがとう」
いつもより少しだけ大人びた笑い方だった。
俺は少し後ろへ引いて、話を二人に渡した。ここから先は、聞き役でいたほうがよさそうだった。
「あかり、ごめん。巻き込みたくなかった」
あかりは笑って言った。
「ましろん、そこは頼ってほしかったって言う場面でしょ。むしろ言ってくれてよかった」
あかりはすぐに少しだけ真顔になった。
「次は一人で抱えないで。何があったら相談して」
真白は短くうなずいた。そのうなずき方が、前より少しだけ素直だった。
あかりは次の日から、いつも通りだった。教室の空気を和ませるのも、真白の隣に座るのも、変わらなかった。ただ、ときどき真白のほうをちらりと見て、目が合うと笑うようになった。その笑い方が、少し前と違っていた。安心したような、あるいは見直したような、そういう笑い方だった。
二つ目のやること。夏目蒼真への手紙だった。
学校の決着がどうつこうと、夏目先輩の冤罪は夏目先輩には届いていない。誰かが本人に伝えなければ、先輩はこの先もずっと「一ノ瀬に付きまとって転校させられた人間」のままだ。
放課後の朝倉文具は、夕方の光が棚のあいだを通り抜けて、紙の白がほんのり橙に染まる時間帯だった。客が途切れた時間に、俺は店の奥に折り畳みのテーブルを出した。真白がいつもよりゆっくり歩いて来た。入口でいったん止まって、店内をゆっくり見た。
「いつ来ても、ここは落ち着く」
「狭いからだろ」
「そういう意味じゃない」
真白は棚の前でいくつかの便箋を手に取った。うちの便箋コーナーは父さんの趣味が強く出ていて、紙質の違うものが三十種類くらい並んでいる。その前で真白が止まるのを見ていると、夏目先輩のことを思い出した。あの人も、ここで便箋を封筒に合わせては、三つ折りの位置を何度も確かめていた。紙の手触りだけじゃなく、渡る瞬間の見え方まで気にする人だった。
便箋を選ぶのに、いつもより時間がかかった。
「どれがいいと思う?」
珍しく俺に聞いた。
「白よりクリームのほうが、読んでて目が疲れない。薄すぎないやつは字が裏に透けない。書き直したくなる気持ちが減る」
「経験から?」
「文具店育ちから」
真白はクリーム色の便箋を手に取った。一枚触れてから、もう一枚に変えた。少し温かみのある、薄いバニラ色のほうを。
「これにする」
「いい選択だ」
テーブルに向かって、真白はペンを握った。そのまま、しばらく動かなかった。便箋の端を見ている。ペン先が紙に触れない。
「謝る言葉って、難しいわね」
「難しいな」
「短いと軽く見えるし、長いと言い訳っぽい」
「一番伝えたいことから書けばいい。謝罪じゃなくて、何を伝えたいかで決まる」
「一番伝えたいこと」
「あの人が悪くなかった、ということじゃないのか?」
真白は少し間を置いてから、ゆっくりとペンを走らせた。最初の一行を書いてから、少し止まって、また書く。それを繰り返していた。
俺は自分の便箋に、短い文を書いた。夏目先輩の万年筆の話。うちの会員カードがまだある話。「また来てほしい」という一文。それだけだった。
書き終えてから、真白のほうをそっと見た。便箋に向かっている横顔は、完璧美少女のものじゃなかった。ただの、一年間後悔を抱えてきた人間の顔だった。
「難しい顔してるな」
「当たり前でしょう」
「正解はないから、思ったことを書けばいい」
「あなたが言うと、なんで簡単そうに聞こえるの?」
「俺のほうが一枚書いただけだから」
真白が少しだけ笑った。緊張がほぐれたような、小さい笑いだった。ペンがまた動き始めた。
書き上げた真白の手紙は、三枚だった。俺には見せなかった。封を閉じてしまったから、中は分からない。でも三枚という厚みだけで、言い足りなかった一年の長さが伝わった。
真白が窓の外を見る。俺もそちらを見た。夕日の中に校舎のシルエットが伸びていた。
「あの人は、書かれていないものも読める人だと思う」
俺が言うと、真白は少し目を細めた。
「手紙が好きな人は、余白の意味を知ってる」
真白はそれを聞いてから、俺の便箋に目を落とした。短い一枚を読んで、小さくうなずいた。
「これで十分」
宛先は、会員カードに残っていた旧住所にした。転居届が出ていれば郵便局が転送してくれる。夏目先輩が正式に引っ越しの手続きを踏んでいれば、届く。届かなくても、戻ってきた封筒を見れば何かが分かる。父さんは「転居後一年以内なら転送が効くから、出してみる価値はある」と言った。几帳面というか、ああいうところだけ妙に詳しい人だ。
手紙を封筒に入れて、糊を湿らせて封じる。真白は糊の乾きを待っている間、何も言わなかった。俺も何も言わなかった。その沈黙は、重くなかった。店内に夕方の光が差し込んで、カウンターの上のペン立てを橙色に染めていた。こういう時間が、こういう場所にあることを、俺はわりと好きだと思った。
朝倉文具の放課後が好きなんじゃない。あの人がここにいる時間があると、店の空気まで少し違って見える。
返事が来るかどうかは分からない。でも、出さないまま抱え続けるよりずっとよかった。真白も俺も、封を閉じた時点で少しだけ肩の力が抜けていた。
郵便局は翌朝だった。
文化祭前夜——手紙を出した日の夜、俺たちは中庭のベンチに座っていた。校舎には提灯の明かりが残っていた。準備を終えた実行委員が帰っていくのが見えた。
風が少し冷たくなっていた。秋だ。文化祭の季節は毎年こういう空気で、このにおいが来ると俺は少し寂しくなる。特に理由はない。ただ何かが終わる感じがするからだと思う。
今年は違う気がした。終わる感じより、始まる感じのほうが強かった。
「文化祭、好きか?」
俺が聞くと、真白は少し考えた。
「去年は嫌いだった。一昨年は普通。今年は……まだ分からない」
「明日終わったら分かる?」
「そうね」
しばらく二人で黙っていた。校舎の窓に明かりが残っている。どこかの教室で最後の準備をしている声が、風にのってかすかに聞こえた。
「朝倉」
「ん」
「あなたが隣にいて、よかった」
「知ってる」
「そういうところ、ほんと腹立つ」
でも声はやわらかかった。
真白の指先が、ベンチの上で少しだけ俺の手に触れた。握るには足りない、でも偶然では済まない距離だった。指先の熱が、しばらくそこに残った。それだけのことなのに、自分の心臓がやけに正直だった。
指先が少しだけ離れる前に、俺は動かなかった。正確に言うと、動けなかった。
「今はまだ」
彼女が言いかけて、やめる。
「いや、やっぱり今は言わない」
「それも知ってる」
「次は当てないで」
真白が笑う。俺も笑う。
中庭の上に星が出ていた。完璧美少女が隣にいて、温かい夜に星を見ている。それが今の俺のいる場所だった。そのことを、不思議と思わなくなった自分に気づく。
事件が終わったあとも、この距離のままでいたい。そう思っている時点で、もう過去の後悔だけではここに座っていない。
夏目先輩に向けた手紙は出した。偽物の手紙はもう動いていない。まだ言えていないことがある。でも今は、このくらいでよかった。
明日、文化祭が始まる。それでいい。




