008
前夜に決めた罠は、封筒の中身をわざと二枚にすることだった。
朝倉文具の棚の奥で眠っていた、裁断に癖のある試作品の便箋を使う。父さんが「売り物にならない」と弾いた紙で、市場には出ていない。一枚は偽の告白文。もう一枚は、同じ紙の白紙だ。もし差し替えられても、俺ならすぐ分かる。
内容は「一ノ瀬真白に、文化祭前夜、旧新聞部室で会いたい」。差出人は架空の名前。真白の名前を使ったのは、御堂が一番敏感に反応するはずだからだ。封筒は恋文ポストの正規封筒。仕分け表を通る。御堂がいつも通り、封筒の中の見え方を崩さずに中身だけ直すなら、白紙のほうに拒絶文を書く。
御堂は仕分け表で真白の名前を見た時点で、放っておけない。しかもあの人は、差し替えた手紙をそのまま捨てない。封筒の在庫も、記録を触る場所も、これまで旧新聞部室に偏っていた。中身を検閲したあと最後に来るなら、ここだと踏んだ。
翌日、封筒を仕分け表に通して、あとは待った。待つ間にできることはなかった。授業を受けて、メモを取って、あかりの声に返事をして、普通の一日を過ごした。それが案外つらかった。何もしていないと、余計なことを考える。
旧新聞部室の前に着いたのは放課後の遅い時間だ。文化祭前日の学校は、本番前の賑やかさと疲れが半々に混じっていた。廊下では実行委員が最後の確認をしていて、体育館からは演奏の音が漏れてくる。旧棟だけが静かだった。
室内は薄暗い。古い紙と乾いた糊の匂いがこもっていて、窓から外の光が斜めに入るたび、埃が光の中に浮いた。棚の本が影を作って、奥の在庫が見えない。
「緊張してる?」
真白が聞いた。
「してる」
「正直ね」
「あんたがここにいるから余計にな」
真白は何か言いかけて、やめた。
「帰らなくていいのか?」
「帰れって言われるのを待ってた?」
「違う」
「じゃあいい」
壁に背を預けたまま、俺は入口に視線を向けた。来るかどうか分からない。来たとしても、引き返す可能性がある。でも今やれることはここまでだった。
じっとしていると、体育館のほうから演奏の音が流れてきた。管楽器だ。文化祭前夜の音楽は、どこか切なく聞こえる。来年もこの学校は文化祭をやる。でも今年の事件は、この夜だけのものだ。
「御堂先輩のこと、怖い?」
俺が聞くと、真白は少しだけ考えてから首を振った。
「怖くない。ただ」
「ただ?」
「あの人がなぜこうなったか、少し分かる気がして」
「どういうこと?」
「完璧でいることは、人を遠ざける。でも遠ざけることで守っているつもりになれる。あの人も、たぶんそういう場所にいた」
「だから壊してよかったことにはならない」
「分かってる。でも、怒れない」
薄暗い部屋の中で、真白はまっすぐ前を見ていた。その横顔がいつもより少し疲れていたのは、今日だけ特別なわけじゃなくて、ずっとこういう顔をしていたんだろうと思う。
俺は何も言わなかった。隣に立っているだけでよかった。こういうときに何かを言おうとすると、大抵余計になる。
古い紙と糊の匂いの中で、隣にいる真白の清潔な香りだけが妙に鮮明だった。
でも、ここにいる理由はもう夏目先輩のことだけじゃない。今の真白を、一人でこの夜に立たせたくなかった。
しばらくして、廊下の奥から足音がした。一人分。ゆっくりした、慣れた足音だった。
現れたのは御堂稜介だった。いつも通り穏やかな顔。手には、俺たちが仕込んだ封筒がある。開封されていた。
「やっぱり、ここだったんだね」
真白が言うと、御堂は少しだけ眉を下げた。
「仕分け表を見た時点で止めに来ると思った。私がここへ来る前に、手紙を隠すつもりだったんでしょう」
「一ノ瀬さん。君はもっと慎重な子だと思っていたよ。ここへ来させる前に、内容だけ直して終わらせるつもりだった」
「だから確認しに来たの。私たちの手紙を、誰が"直す"のか」
俺は御堂の手元から封筒を受け取った。中身は、俺が仕込んだ告白文ではなく、予備の白紙のほうだった。そこに赤ペンで「迷惑」「来ないで」と柔らかく整えられた拒絶文が書かれている。字は一字ずつ個性を殺してあるのに、字間と文面の整え方だけは崩れていない。紙の左端には、俺と父さんしか知らない裁断の癖がそのまま残っていた。
「封筒の中の見え方を揃えたまま直したな。中身だけ入れ替えるとき、あんたはいつもそうする」
「その字、隠してるつもりだろ。でも個性を消しすぎだ。文面まで角が立たないよう添削してる。あんたの癖がそのまま出てる」
御堂は静かに息を吐いた。
「その紙が朝倉家のものだと、どう証明するつもりだい」
「市場には一枚も出てない。父さんが裁断ミスで弾いた試作品で、左端にだけ内向きのブレがある。同じ紙の白紙を予備で入れておいたのも俺だ。そこに、あんたが拒絶文を書いた」
「朝倉くん、そういうのは乱暴だ」
「乱暴なのは、人の気持ちを勝手に添削するほうだろ」
御堂の表情が初めて固まった。
「恋愛感情はね、放っておくと人を壊すんだ」
低い声だった。穏やかな先輩の声じゃない。
「中学の頃、親友がいた。好きな子に告白して、振られて、それだけで終わればよかった。でも感情をぶつけすぎて、二人とも学校に来られなくなった」
御堂の声が低くなる。
「だったら最初から、少し整えて、余計な熱を抜いてやればよかったんだよ。あのとき誰かが止めていれば、こうはならなかったと思った」
「その結果が、夏目先輩?」
真白の問いに、御堂は目を閉じた。
「君は人気がありすぎた。近づく人間は選ばないと危ない。あの先輩は悪い人じゃなかった。だからこそ厄介だった。真面目で、真っすぐで、止まらない。近づいた瞬間を誰かに見せれば、君の評判を守るためにもう来なくなると思った」
「勝手に決めるな」
自分でも驚くくらい強い声が出た。
「気持ちは書類じゃない。削って整えたら無害になると思ってるなら、それはただの逃げだ」
御堂が俺を見る。初めて、少しだけ悔しそうな顔をした。
「君は若いな」
「あんたより一つ下なだけだ」
真白が一歩前へ出る。
「私は守ってほしいなんて頼んでいない。夏目先輩のときも、今も。あなたはただ、自分が安心できる形に人を押し込めたかっただけ」
「最初は、そのつもりじゃなかった」
御堂の声が、初めてだらしなく揺れた。
「君のことが心配だった。あの先輩が近づいてきたとき、本当に危ないと思った。それだけだった。なのに、うまくいかなくて、それを隠しているうちに、気づいたらずっとそうし続けていた」
「知ってる」
真白の返事は静かだった。
「だから余計に悪いの」
沈黙が落ちた。廊下の向こうで演奏の音が続いている。
御堂はゆっくりと肩を落とした。手の中の封筒を見て、それから俺たちを見た。
「証拠は揃っているんだろうね」
「手紙と記録を自分で差し出してもらえるなら、こちらからは最小限にする。夏目先輩の件は学校側に確認させる。それだけでいい」
御堂はしばらく何も言わなかった。薄暗い部屋の中で、三人とも止まっていた。体育館の演奏が止んで、外が静かになった。
「私がやったことは、そんなに間違っていたか? 夏目くんが一ノ瀬さんに近づいたら、何が起きた?」
「それを決めるのはあんたじゃない」
俺は一歩前に出た。
「夏目先輩も真白も、自分で選ぶ権利があった。傷つくかもしれなくても、自分で決めたかったはずだ。それを奪ったのがあんただ」
御堂は長い沈黙のあと、肩の力を抜いた。
「……分かった」
その声には、どこか安堵があった。長く持ち続けてきたものを、やっと置いてよかったという。怒りより疲労が勝っている声だった。
俺はその声を聞いて、怒る気が少し削がれた。怒れないわけじゃない。でも、この人も長い時間をかけて、間違った方向にずれていったんだろうと思うと、単純な悪役にはならなかった。それが厄介でもあり、少しだけ救いでもあった。
その夜、御堂は保管していた手紙と改ざん記録の一部を自分で差し出した。全部を公にすれば学校は荒れる。けれど真実まで隠せば、また同じことが起きる。
俺たちは、答え合わせの最後を自分たちで選ばなきゃいけなかった。
旧新聞部室を出ると、廊下は暗かった。真白が前を歩いて、俺がそのあとに続く。文化祭の準備の音は止んでいた。
「終わったな」
俺が言うと、真白は少し歩みを緩めた。振り返らなかったけれど、声が柔らかくなった。
「まだ終わってない。夏目先輩のことが残ってる」
「ああ」
少し歩いてから、俺は言った。
「怒れたか?」
真白は立ち止まった。俺も止まった。
「怒れなかった」
「俺も」
しばらく、誰も何も言わなかった。旧棟はいつも静かだから、外の音がよく聞こえる。どこかで笑い声がして、それが風にのってきた。文化祭前夜の、普通の学校の音だ。
「でも、今日はありがとう」
ありがとう、と言われたのは今回で三度目だ。最初の一回より、今度のほうがずっと重かった。
事件が終わっても、この人の隣から降りるつもりが自分にないことを、その重さでやっと認めた。
廊下の窓の外に、文化祭の提灯の光が見えた。明日、学校は文化祭で動く。そのなかで俺たちだけが知っていることが、今夜もある。でも今は、それでよかった。
何かが終わった、という感じはなかった。正確に言うと、今夜終わったのは事件だけで、それ以外のことはまだ始まったばかりだった。
その夜、家に帰ってから少し考えた。
御堂が正しくなかったのは確かだ。人の感情は管理するためにあるんじゃない。だが御堂が完全な悪人だったかというと、そうも言いにくかった。間違えた方向に、真剣だった人間だ。正確に言えば、怖かったんだろう。感情が動くことで、大切なものが壊れるのが。
それは俺にも分かる部分がある。
夏目先輩が転校するとき、俺は口を出せなかった。怖かったからだ。巻き込まれるのが、関係が変わるのが。それで見て見ぬふりをした。俺と御堂の違いは、行動に出たかどうかだけだ。感情を怖いと思ったのは、たぶん同じだ。
だから怒れなかったのかもしれない。
それでも、やり方は間違っていた。感情を守るために感情を管理するのは矛盾だ。本当に守りたいなら、相手の感情がそのままで存在できる場所を作ることだろう。
真白は今夜どんな顔をしているだろうか、と思った。思ってから、それを考えるのが自然になっていることに気づいた。
文化祭が明日に迫っていた。今夜は早く眠ることにした。




