003
翌日の昼休み、返事が消えた場所は図書室だった。
昼休み、窓際の返却棚の横で、告白を受けたらしい女子が泣きそうな顔をしていた。返事は仲のいい図書委員に預けて、指定した本に挟んでもらったらしい。放課後に相手が取りに来る段取りだった。けれど放課後、その本を開くと別の紙が入っていた。そこには「やっぱり迷惑です」とだけ書かれていたという。
事情を聞いたのは、真白が昼休みにその女子に声をかけたからだ。真白の声かけには命令じゃなくて問いかけの形があって、相手を縮ませない言い方をする。それが上手い。自分より立場が弱い人間を小さくさせない話し方を、彼女は自然にする。
話を聞いた後で、真白がこちらを見た。
「行ける?」
「今から?」
「図書室は昼休みも開いてる」
廊下を移動しながら、真白は歩調を落として、自分なりのルールを三つ並べてきた。一つ、推測を事実みたいに言わない。二つ、危ないことは単独でしない。三つ、手に入れた手紙は必ず共有する。
その直後に渡された状況整理が、もう半分ルール違反だった。相手の名前、本のタイトル、本を預けた時間、受け取りに来た時間。簡潔だ。俺はそれをメモに落としながら、同時に「これ、昨日のうちに動いてたな」と思った。
「いつから調べてた?」
「昨日の放課後」
「ルール、二番目。単独行動するなって言ったのは?」
「報告したでしょう。今」
「後出しは共有と言わない」
「善処する」
それで済ませるのが癖になっている。文句を言っても仕方ないので、俺は手元のメモを確認した。「やっぱり迷惑です」とだけ書かれた差し替えの紙を、もう一度頭の中で思い返す。気持ちを込めて書いた返事を、あんな一文に入れ替えた。
「えぐいな」
「えぐいで済ませるには慣れすぎてる」
真白は低く言って、貸出票の整理箱をのぞきこんだ。俺は返却棚の本を端から順にめくっていく。紙は残らなくても、触れた痕は少しだけ残る。角の折れ、糊の乾き、指の圧。どの本をどんな力で開いたか、乱暴に扱えば必ず何かが残る。
三十冊ほど確かめたところで、俺は一冊の文庫本を抜き取った。
「これだ」
「三十冊見ただけで? どうして分かるの?」
「ラベルの端が浮いてる。表の角だけ折れてるのに、背は割れていない。返却棚で急いで開いて、慌てて閉じた本の痕だ。普段この棚を管理してる人間なら絶対に直す痕を、そのままにしてる。焦ってた証拠だ」
真白が一瞬だけ黙った。本と俺を見比べている。
三十冊くらいなら、こういう痕を拾うほうが早い。文具店の息子なんて肩書きは地味だが、紙や本が相手なら、それなりに外さない。
「……本当に文具店の息子なのね」
「褒めてる?」
「呆れてる」
でも声は少しだけ柔らかかった。
中には薄い栞が入っていて、その裏に図書委員のメモが走り書きされていた。返事を書いた女子は、昼休みに図書室当番へ本を預けていたらしい。つまり犯人は、返却棚に自由に触れられる誰かで、なおかつ相手が取りに来る前に本を開ける時間があった。
俺はもう一度、文庫本の表紙へ目を落とした。背表紙のラベルは、ここだけ粘着が甘い。本来は完全に貼り直されているはずが、浮きを押さえる余裕もないまま棚へ戻してある。細工の質としては粗い。だが、粗くならざるをえないほど時間がなかったということでもある。
真白はそれを確かめてから、静かにうなずいた。
「図書委員全員が怪しいってことにはならない。当番の時間帯と、その日の棚の担当者を絞れる」
「当番表を借りられるかしら?」
「借りた。昨日のうちに」
真白が俺を見る。
「仕事が早い」
「先手を取るなって言ったのはあんただろ」
「それは単独行動の話」
「一人で借りただけで、判断はまだしてない」
真白はしばらく黙ってから、ため息をついた。ため息の質が、怒っているというより諦めに近かった。少し、いい意味で。
当番表と事件の時間帯を照らし合わせると、昼休みに返却棚を担当していたのは三人。そのうち二人はその時間帯に別の場所で目撃されていた。残る一人の行動はまだ確認できていなかった。
恋文ポストの仕分け表は図書委員会室にも貼られている。実行委員と図書委員が共有して、生徒会が最後に確認する一覧らしい。
「犯人は、誰に何が届くかを把握している。そうでなければ、こんなふうに返事だけを狙って差し替えられない」
「仕分け表を見られる人間は、図書委員にも実行委員にも生徒会にもいる」
「この一覧、生徒会で最終確認も入るらしいな。図書委員の話だと、副会長の御堂先輩が赤ペンで修正を返すことが多いって」
「絞れない」
「今はまだ」
頭の中で、いったん条件を三つに並べる。
・図書室の鍵や返却棚に触れられること。
・恋文ポストの仕分け表を見て、ついでに修正までできる立場にいること。
・その条件に具体的な名前を当てるなら、今いちばん輪郭が濃いのは御堂先輩だということ。
「図書委員で、かつ仕分け表に触れられる人間」
「生徒会役員か、文化祭実行委員の幹部」
真白は何かを言いかけて、やめた。心当たりのある名前を、まだ口に出したくない顔だった。
真白は仕分け表のコピーを広げて、数か所に丸をつけた。
「この欄に書かれた名前の字、見て」
「修正が多い」
「それだけじゃない。修正の字が、元の字と違う筆圧になってる。ほんの少しだけど、元の字より均一なの。後から誰かが書き直してる」
俺はそれを受け取って、明かりに透かした。確かに、特定の箇所だけインクの発色が微妙に違う。上書きをするとき、書く速度が変わって乾き方にムラが出る。インクが重なった部分は、見る角度によって光の散り方が変わる。
「同じ字を書いた人間が複数いるみたいに見せてるけど、実際は一人が後から書き直してる」
「届け先を書き換えた可能性がある」
「もしくは、誰がどの本に何を入れたかを把握するために、自分用にメモを書き足してる」
それは、管理するために記録している、という話だ。
俺には、こういう記録のつけ方に覚えがあった。うちの店の父さんも在庫管理は徹底していて、仕入れた日付と業者と個数を全部書き残している。でも父さんのは、忘れないためだ。こっちのは、把握するためだ。全員の動きを自分の目の下に置いておきたい、そういう記録のつけ方だ。
「気持ちを管理したがってる感じ、前に言ったけど、記録もそうだ」
「うん」
「全体を把握して、整えたい。そういう思考回路の人間だな」
調べ終わって図書室を出ると、廊下には夕方の光が伸びていた。真白は無言で旧棟の方向へ歩き始める。俺はついていった。校舎の壁に影が長くなっていた。廊下を歩く生徒はほとんどいない。
図書室裏の非常階段は、そのまま旧棟へつながる連絡通路に近い。文化祭前は保管場所が足りなくなるせいで、委員会資料や予備備品があっちへ流れる。真白が次に旧棟を見ようとしている理由も、それで分かった。
図書室裏の非常階段の入口で、真白は足を止めた。
「聞いていい?」
「何を?」
「夏目先輩のこと、いつから知ってたの?」
手すりに背中をつけて、俺は少し考えてから答えた。
「噂がひどくなる前から。先輩が最後にうちへ来たとき、なんか様子がおかしかった。封筒に便箋を入れては出して、三つ折りの位置を何度も直してた」
「何を見てたの?」
「『開いた瞬間に読みやすい折り目にしたい』って言ってた。ああいうところまで気にする人が、最後の日だけ妙に落ち着かなかった。俺はその場で何も聞けなかった」
階段に夕日の線が伸びていた。俺は手すりに背中を預ける。
「中学の頃から、夏目先輩はそういう人だった。うちの棚を丁寧に見て回って、絶対に焦らない。字より先に、渡し方まで気にする人だった」
「……らしいわね」
「あの人、手紙が好きだった。雑に気持ちを渡したくないって。何度も練習帳を買いに来て、字が上手くなりたいって言ってた。なのに最後は、偽物の手紙一枚で全部ひっくり返った」
言ってから、自分の声が思ったより硬いことに気づいた。
「だから、降りられない?」
真白の問いに、俺は少しだけ笑った。
「口止めだけなら断ってた」
「でしょうね」
「でも、夏目先輩の件が続いてるなら、話は別だ」
真白は黙っていた。風が吹いて、彼女の前髪が揺れる。
この人も、あの日から一人で抱えてきたんだと思う。告白文を偽造されて、先輩の誤解を解けないまま見送った。完璧な顔で学校に通い続けて、誰にも言えなかった。
一年というのは、短いようで長い。俺には想像できない重さがある。
「私はね」
やがて真白は、誰にも聞かせたことがないみたいな声で言った。
「先輩を助けられなかったことより、そのあと、何もなかった顔をして学校に通い続けた自分が一番嫌い」
それは告白でも謝罪でもない。ただの事実として言われた言葉だった。でも完璧美少女の仮面の裏に、初めて見えた傷だった。
「じゃあ、なおさらだ」
「何が?」
「今さらでもやるしかない。偽物のせいで終わったままにしたくないだろ」
真白はすぐにはうなずかなかった。
でも階段を下りるとき、俺の制服の袖をほんの少しつまんだ。一瞬だけ。誰かに見せるためじゃない、自分のためにしている、そういう動作だった。
その小さな力だけで、もう見て見ぬふりの側には戻れないと思った。
「……ありがとう、相棒」
その一言で、やっぱり俺はもう断れないと思った。
帰り道、駅の方向が真白と俺では逆だった。別れ際、彼女は振り返らなかった。俺も呼び止めなかった。それで十分だった。
ポケットの中で当番表のコピーを握り直す。図書室の鍵を自由に動かせて、恋文ポストの仕分け表を見られる人間。絞り込みはまだ甘い。でも、方向は見えてきた。
返却棚のラベルの浮き。仕分け表の書き直し。当番表からこぼれた一人分の行動。どれも小さいが、同じ人間の手が見える。几帳面で、整理が好きで、全部の動きを把握しておきたい誰か。
一年前の紙が、また動いている。同じ手が、一年かけて戻ってきた。
次に探る場所は、もう旧棟しかなかった。あの鍵を自然に触れる人間も、あっち側に寄っている。




