002
翌日の放課後、本当に一ノ瀬真白が朝倉文具に現れた。
しかも昨日の偽ラブレターを、透明な袋に入れて持って。
朝倉文具は、校門から歩いて三分のところにある。
間口は狭い。シャーペンの芯から万年筆まで一通り揃っているが、専門店というほど品数は多くない。それでも近所の小学生から高校生まで毎日のように来るのは、うちが正門前という立地にあることと、母さんの愛想がいいことと、父さんが仕入れにうるさいことの三点が理由だ。特に三点目は、文具好きの間では少し知られている。
学校から帰ってすぐに制服のまま店番をするのが俺の習慣だ。夕方の一、二時間は母さんと交代する。たいてい客は三、四人しか来ない。棚の整理や在庫確認をしながら、俺は昨日の封筒のことを考えていた。
棚の奥には、父さんが「裁断がぶれて売り物にならない」と寝かせた試作品の便箋束まである。文具店の在庫は、売り物だけじゃない。
一ノ瀬が放課後に人の下駄箱を漁っている。それを見てしまった。口止め代わりに手伝えと言われた。断ったつもりが断りきれなかった。昨夜改めて整理してみても、どこかまだ夢みたいな話だった。
でも夢じゃない証拠に、下駄箱から真白が抜いた封筒がまだ頭から離れない。あの上質紙と、中から覗いていた安い便箋の組み合わせが、今もうっすら気になっていた。
制服姿のまま、棚の前で便箋を選ぶふりをしているだけなのに、店の空気が妙にしゃんとする。母さんが三回くらい俺に目配せしてきた。やめてほしい。
「どれが、告白っぽく見えるかしら?」
「その聞き方、誤解しか呼ばないからやめろ」
「隠れ蓑だもの。少しくらいはそれらしくしないと」
真白はそう言って、淡いクリーム色のレターセットを持ち上げた。選び方は雑なのに、立っている姿だけで絵になるのは不公平だ。
母さんが奥の棚を見に行った隙に、俺は昨日の封筒をカウンターの下でそっと受け取る。透明なポリ袋に入れて渡してきた。几帳面だ。中の手紙を広げる。二組の須藤という男子に向けた告白文だった。
ぱっと見は、普通の恋文にしか見えない。字は丁寧で、文面も無難で、外側の封筒も正規のものだ。文化祭用に生徒会が外からまとめて取った、見栄え優先の上質紙。文具に慣れていない人間なら、そのまま本物だと思う。
「筆圧が均一すぎる」
「どういうこと?」
「感情がない。技術だけある字だ」
「どういう違い?」
「気持ちが乗ると筆圧にムラが出る。これは最初から最後まで同じ重さで書いてある。慎重に書いたんじゃなくて、感情がそもそもない」
真白が少し身を乗り出した。近い。石けんの香りが昨日と同じで、記憶に残っていた自分に少し驚いた。
覚えていたことまで含めて、少し癪だった。
「他には?」
「中に入ってた返答用紙が妙だ」
「どういう意味?」
「外の封筒に対して、中だけ急に安い業務用っぽい紙になってる」
「どうして分かるの?」
「紙の繊維の向きが変だ。趣味で選ぶ便箋じゃなくて、備品の束から抜いたほうが早い種類だ」
真白が、手紙と俺の顔を見比べた。そこまで分かるの、という顔だ。
少しだけ気分がよかった。封筒だけそれらしく整えても無駄だ。紙と字には、使った人間の素が残る。
真白は少しだけ目を細めた。何かを整理している目つきだった。そして、ゆっくりと口を開く。
「外の封筒は恋文ポストの正規封筒よ。文化祭用に見栄えを優先して、生徒会が外からまとめて取ったもの。でも中の返答用紙までは揃えていない」
「だから外だけ立派で、中身だけ急に業務用になる」
「ええ。仕分けの途中で、返事の紙だけ差し替えられてる」
「これ、本人が受け取る前にどうやって抜いた?」
「下駄箱に入る時間は大体決まってるの。前で待てば回収できる。でも正規の仕分けを通ってるなら、触ってるのは仕分けか配達側」
「最終確認は生徒会に上がるんだろ。副会長の御堂先輩が仕切ってるって聞いたことがある」
「ええ。だから範囲は広い」
「連続か?」
「ええ。だから助手が必要」
そのとき、店の扉が勢いよく開いた。
「ましろんー、置いてくよって言ったのに、ほんとに文具店寄ってるし」
入ってきたのは桐島あかりだった。明るい茶色の髪を揺らして、俺と真白を見比べる。目が丸くて口が大きい。笑顔のエネルギーが廊下二本分くらいある。
「え、なにこれ。放課後デート?」
「口が軽い」
「軽いのは事実を広めるときだけだよ」
あかりはそう言って笑うと、ノートを一冊買って去っていった。母さんが「かわいい子ねえ」と小声で俺に言った。やめてほしい。
真白は軽くため息をついたが、止めなかった。あれくらいの軽さがあるから、真白は教室で息がつけるんだろうと思う。完璧でいることは疲れる。笑って場を和ませてくれる人間が近くにいるのは、案外大事なことだ。
「行きましょう。続きを話せる場所で」
学校へ戻る道で、真白が足を止めた。
「見せたいものがある」
鞄から取り出したのは古い写真のコピーだった。真白の声に、かすかな苦さが混じる。
「一年前の手紙。当時の新聞部が撮っていた」
コピー用紙の上に映った古い手紙。差出人欄には、一ノ瀬真白の名前。宛先は夏目蒼真。
胸の奥が鈍く痛んだ。
「これは、先輩からの告白への返事として届いた偽物よ。本物の私の返事は、どこかで消された」
「これ、見て」
真白が示したのは紙の端だった。写真越しでも分かる程度に、断裁の刃の入り方が少し甘い。均等じゃない。市販品じゃなく、学校か小規模な印刷所で裁断したような感じがある。
「学校備品じゃない。安いけど、その年だけ出てたロット。うちでも一回だけ仕入れた。売れ残って処分したくらいだから、流通量は少なかったはずだ」
「分かるのね」
「嫌でもな」
「残ったのは『やっぱり迷惑です』って一文だけ。私の名前で」
「つまり一年前も、手紙そのものを捨てたんじゃない。返事だけを抜いて、犯人が用意した形に差し替えた」
真白がゆっくりとうなずく。
「気持ちを潰したいというより、気持ちを管理したがってる感じがする」
俺が言うと、真白が俺を見た。
「どういう意味?」
「捨てるだけなら、こんな手間はかからない。わざわざ別の返事を書いて入れてる。相手の感情に対して、自分なりの正解を差し込んでる」
少し間があった。
「一年前の手紙もそうだった?」
「写真を見る限り、文体は整っていた。感情的な文章じゃなかった」
放課後の渡り廊下で、俺たちは最初の小さな答えにたどり着いた。返事の封筒は一度開封され、別の便箋に差し替えられていた。封の縁だけ、ごく薄く波打っている。上質紙は水分を吸うと繊維が起きて、そこだけ表情が変わる。糊も新しい。普通、封筒を開け直せば折れや小さな破れが出るが、これはきれいに剥がして貼り直してある。
「封筒の扱いが上手い。学校備品の封筒は湿らせて封する型が多い。少し水を使えばほぼ痕跡なく開けられる。それを知ってる人間だ」
「恋文ポストの仕分けか配達に触れられる人間がいる」
俺が言うと、真白はうなずいた。
「明日、図書室を当たるわ」
「今度は先に言えよ」
真白は少しだけ目を細めた。
「努力はする」
初めて、真白が少しだけ笑った。完璧な感じのしない、ちょっとだけ素の笑い方だった。
その顔を見た瞬間、不覚にも少しだけ安心した。完璧美少女にも、ちゃんと人間っぽい表情がある。
そして同時に、嫌な確信も固まる。
一年前の温室事件に使われた紙と、今の偽ラブレターは同じ製造ロットだ。偶然で済ませるには、気味が悪すぎた。
渡り廊下の外で、夕焼けが校舎の影をゆっくり伸ばしていた。
夏目先輩が封筒の折り目を何度も確かめていた横顔まで、勝手に思い出す。あのとき見て見ぬふりをした紙が、また同じ手触りで俺たちの前に戻ってきている。
あのとき逃げた俺は、もう知っている。このまま黙っていたら、偽物のほうが本物みたいな顔をして残る。
今度こそ、ただ気味が悪いで終わらせるわけにはいかなかった。
帰り際、真白が少し立ち止まった。
「明日も来るから」
「客としてか?」
「調査として。一応、隠れ蓑にはなってる」
「それと」
真白はそこで一度だけ振り返った。
「今日のあなた、思っていたよりずっと役に立った。ちゃんと相棒してたわ」
「母さんが喜ぶからやめてほしい」
「私は関係ない」
真白はそう言って、夕暮れの方向へ歩いていった。背中が遠くなってから、俺はカウンターの奥へ戻った。
手のひらにまだ封筒の感触が残っている気がした。紙の記憶はしつこい。だからこそ、偽物の手紙もしつこく作用する。
明日もまた、同じ場所から追いかけることになる。
夜、棚の整理をしながら俺は今日の封筒の話を考えた。
偽物の手紙というのは、完璧に見えるほど厄介だ。本物そっくりに作られた偽物は、騙された側に「自分の読み違いだったかもしれない」という疑いを残す。疑いは人を内側から削る。証拠よりも、心理の方向からやられていく。
一年前の夏目先輩もそうだったんじゃないかと思う。
偽物の手紙一枚で信じていたものが崩れて、崩れたことの原因が分からなくて、分からないまま転校した。本物の感情を持っていた人間が、一枚の紙で全部を疑うことになった。
紙は残る。でも、残った紙がいつも本物とは限らない。
明日、真白がまた来る。手紙の調査は続く。どこかに、答えがある。
その答えが次に現れた場所は、図書室だった。




