001
完璧美少女が、人の下駄箱を漁っている。
俺は放課後の昇降口で、信じられないものを目撃していた。
一ノ瀬真白。成績優秀で品行方正、誰に対しても公平で、教師受けも生徒受けも申し分ない。朝礼で前に立つだけで教室の空気が少し変わるような人だ。俺みたいに壁際でぼんやり観察しているタイプからすると、近寄りがたいというより別の空間にいる感じがする。
なのに今、その人が白い封筒を人の下駄箱から引き抜いていた。
足を止めた。声はかけなかった。かけるタイミングを逃したというより、正直、目が離せなかった。
白い封筒は、蛍光灯の光を妙に強く返す、高そうな紙だった。厚みがあるのに軽い。うちでも見かける上質紙で、一枚三十円はする。
なのに、封筒から半分のぞいている便箋は安い量販品で、しかも古い。わずかに黄ばんで、端が少し反っている。封筒と中身の格が合っていない。
育った環境のせいで、こういう違和感には妙に目が行く。
そして——どこかで触れたことがある。
その感覚が頭をよぎった瞬間、一ノ瀬真白が振り向いた。
肩まで流れた黒髪が、蛍光灯の光をまとってさらりと揺れる。目が合った。驚かれると思ったが、彼女の瞳に動揺はない。代わりに、引き抜いた封筒をポケットから取り出したハンカチで包み直す。動作に迷いがない。まるで最初からそうするつもりだったように。
「……見た?」
「見た」
「死ぬ?」
「嫌です」
間髪入れずに返したら、真白はほんのわずかに眉を上げた。学園一の完璧美少女が、放課後の人気のない昇降口で男子を脅している。通報したほうがいいのかと一瞬思ったが、この状況をどう説明しても面倒なのはたぶん俺だ。
「忘れ物を取りに来ただけなんだけど」
「私はそういう人を待っていたわけじゃない」
「下駄箱を漁ってる側の台詞じゃないだろ」
俺がそう言うと、彼女はハンカチに包んだ封筒をこちらに向けて軽く持ち上げた。
「これは漁ってるんじゃなくて、回収してるの。偽物だから」
「恋文ポストってあるでしょう。文化祭前だけやる匿名メッセージ企画。図書委員と実行委員が仕分けて、放課後に下駄箱へ入れるの」
「その配達に偽物が混じってた。だから本人が見る前に抜いた」
「中身と封筒の紙が合ってない」
口をついて出た俺の言葉に、真白の目が一瞬だけ見開かれた。すぐにいつもの顔へ戻ったが、驚いたのは分かった。
「……分かるの?」
「家が文具店。封筒はうちでも扱ってる上質紙。便箋は量販の安いやつ。ついでに言うと、その便箋、少し古い。乾燥してる。封筒と中身の製造時期が噛み合ってない」
「そこまで」
「嫌でも分かる」
真白は数秒、俺を見た。
「さっき、『格が合っていない』って言ったでしょう」
「言った」
「それで分かった。この封筒の違和感に気づける人だって」
それからハンカチごと封筒を制服のポケットにしまい、まっすぐこちらへ歩いてくる。
逃げるべきだと思った。けど足が動かなかったのは、彼女の顔がきれいだったからじゃない。
あの便箋の違和感を、俺も見過ごせなかったからだ。
「朝倉拓馬くん」
朝倉拓馬というフルネームを、完璧美少女に呼ばれるのはそれだけで落ち着かない。
「俺のこと、そこまで見てたのか?」
「同じクラスの名前くらい知ってるわ。それに、授業中は寝てるふりしてるのに、先生の板書のペン先まで見てるでしょう」
「嬉しくないところ見られてるな」
「そういう目が、今は都合がいいの」
真白は一歩だけ近づいた。石けんみたいに清潔な香りがした。教室で遠目に見ているだけでは分からない距離だった。
こういうとき、紙の話だけしていれば楽なのにと思う。相手が一ノ瀬真白だというだけで、妙に落ち着かない。
「口止め料として、あなたの目と知識を借りる。今日からあなたは、私の放課後の助手ということで」
「助手って、一方的だろ」
「異議があっても却下するわ」
「選択権は?」
「あるわ。今ここで断って、私が今後週一回、朝倉文具に客として通ってまで助手を口説きにいく未来を受け入れるか」
「断れてなくない?」
「ちゃんと民主的でしょう」
その言い方が妙におかしくて、笑いそうになるのを堪えた。真白は本気で、でも脅しだけではなく言っている。朝倉文具に週一で完璧美少女が通ってくれれば、うちの売上は確実に少し上がる。母さんは泣いて喜ぶかもしれない。
でも、そういう問題じゃない。
「なんでそこまでして回収する?」
俺が聞くと、真白はほんの一瞬だけ視線を落とした。気づかなければ見逃す程度の、わずかな間だった。
「一年前にも、同じことがあったから」
胸の奥がざらついた。
一年前。温室。偽ラブレター。転校した先輩。
名前を口にしなくても、その記憶は紙の匂いと一緒に戻ってくる。中学の頃から朝倉文具によく来ていた先輩。手紙を書くことにやたら真剣で、便箋の前で平気で長居する人だった。
そして、ある日を境に、来なくなった。
噂がひどくなる前から話は知っていた。口を出したら自分まで巻き込まれると思って、見て見ぬふりをした。あのとき感じたざらつきだけが、今も手のひらに残っている。
「……その紙、どこかで見たことがある」
俺は自分でも驚くくらい低い声で言った。
「だから、だろうな」
真白の声も低かった。答えを確認するような、静かな声。
彼女は小さく息をつくと、踵を返した。
「今日は中身だけ確認して終わる。続きは明日。放課後、朝倉文具」
「営業時間に合わせる気ある?」
「客として行くんだから問題ないでしょう」
数歩先で彼女は振り返る。夕暮れの光がドアの窓から斜めに差し込んでいた。
「ああ、それと」
「まだ何か?」
「私の秘密を知ったのは、今のところあなただけ」
夕焼けのせいで、彼女の横顔は少しだけ柔らかく見えた。学校で見るいつもの完璧な顔じゃない。もう少し年相応の、何かを抱えた人間の顔だった。
「それ、たぶん、かなり特別なことだから」
特別、なんて言い方は反則だと思う。自分でも情けないくらい、心臓がうるさかった。
そう言われると、断れる男はきっと少ない。
一ノ瀬真白の姿が角を曲がって見えなくなってから、俺はようやく体操服のロッカーを開けた。取りに来ただけのはずが、ずいぶん時間がかかった気がした。
窓の外、グラウンドから部活の掛け声が遠く聞こえる。校舎はどこも変わらない普通の放課後で、さっきのことが夢だったみたいだった。
でも、ポケットのシャーペンを握り直すと、手のひらにまだ違和感が残っている。
あの便箋の感触。どこかで触れたことがある紙。それを確かめる前に、俺は手伝う側に回っていた。
完璧美少女の放課後の顔を知ってしまったその日、俺はラブレターを盗む共犯者じゃなく、偽物の手紙を暴く側に立っていた。
店の灯りが窓越しに見えた。夕暮れに橙色に染まった「朝倉文具」の看板が、毎日見ているはずなのに今日は少し遠い景色みたいだった。
紙と一緒に育った俺が、紙の偽物を見抜く話に巻き込まれている。偶然と言えば偶然で、必然と言えば必然だ。最後にうちへ来た、あの先輩の落ち着かなかった横顔だけが、妙に頭に残っている。
あの人は何を見ていたんだろう。店の奥で、三十分じっとしていた。
偽物の手紙一枚が、本物を全部消してしまった。それが一番怖いことで、だから真白も俺も、手を引けなかった。
明日もまた、あの人は朝倉文具に来る。客として。半分は脅迫で。
あの便箋の手触りを、俺はどこかで知っている。
その記憶が何を意味するのか、翌日には分かるはずだった。




