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第六十話② 窮地の中で、一番に守るべきは(後編)


 構えたまま大きく息を吸って。


「ふっ!」


 鋭く息を吐くと同時に、イチヤは地面を蹴った。可能な限り最速で、限界とも言える力を出して、ハイドの方へ踏み込んだ。


 踏み込むと同時に、剣を抜き始める。鞘走りがいい。勢いに乗った剣は、鋭くハイドの方へ向ってゆく。踏み込みのタイミングと剣を振るタイミングも、合っている。


 狙いは、ハイドの胴体。

 このまま、彼の上半身と下半身を泣き別れさせる!


 ハイドが動いた。左手を振り上げた。そのまま、手刀のように振り下ろしてくる。


 一瞬にも満たないぶつかり合い。

 ボキンッと、重く固い音がイチヤの耳に届いた。

 音とほとんど同時に、イチヤは剣を振り切った。


 イチヤの手に、人を斬った感触はなかった。


 ハイドの手刀によって、イチヤの剣は、真ん中あたりからポッキリと折られていた。


 音から、コンマ何秒か後。

 ハイドが動いた。右拳をイチヤに向って突き出してくる。


 イチヤは反射的に、左腕を前に出した。


 グシャッという音が、骨伝導となってイチヤの脳天に響いた。


 ハイドの拳が、イチヤの左上腕に叩き付けられた。上腕の骨がメチャクチャに砕かれた。


 余りあるほど威力のある、ハイドの拳。上腕を砕くだけではなく、イチヤを大きく吹き飛ばした。


 イチヤは地面に叩き付けられ、そのまま土の上を滑り、木に叩き付けられた。ゴンッ、という鈍い音。衝撃で、木の葉がヒラヒラと落ちてきた。


 ハイドの拳の威力は、尋常ではなかった。腕の骨を砕くだけではなく、吹き飛ばすだけでもなく、イチヤの全身に衝撃を与えた。衝撃は脳まで伝わり、イチヤの平衡感覚を完全に失わせた。視界がグニャグニャに歪んでいる。


 ――化け物かよ、こいつ。


 イチヤは胸中で吐き捨てた。声も出せないほどのダメージを負った。あんなに綺麗な歌声の歌人が、こんなに凶悪な牙を持っているなんて。


 イチヤの口に、生温かく鉄臭い液体が入ってきた。鼻血が出たのだと分かった。人間は、鼻に衝撃を受けていなくても、脳に衝撃を受けることで鼻血が出る場合もある。今のハイドの一撃で、脳震盪を起こしたのだ。


 ゆっくりと、ハイドが近付いてくる。先ほどまでのように素早くは動かない。今のイチヤなら簡単に殺せると思っているのだろう。


 舌打ちし、イチヤは立ち上がろうとした。勝ち目がないのは分かっている。もう、どうやっても勝てない。逃げることもできない。自分は確実に、ここで死ぬ。


 それなら、と思った。せめて、プリメラだけでも逃がしてやらないと。一人の少年が命懸けで守った子だ。自分のせいで死なせるわけにはいかない。


 景色が歪み、目眩がする。気持ちが悪い。それでもイチヤは、必死に声を絞り出した。


「プリ、メラ……逃げ、ろ」


 どうにかして、少しでもハイドを足止めしないと。ガクガクと膝を震わせながら、イチヤは必死に立ち上がろうとした。少し腰を上げた瞬間に景色が反転し、また地面に崩れ落ちた。大きなダメージを負ったボクサーのように。


 今の自分の状態を、イチヤは正確に判断した。脳がダメージを負い、正常に体を動かせなくなっている。立ち上がることさえできない。ハイドを足止めすることなど、不可能だ。


「逃げ、ろ……プリメラ……!」


 立ち上がれないなら、せめて、止めを刺しにくるハイドの足にしがみつく。一秒でも、プリメラが逃げる時間を稼ぐ。


 ハイドが近付いてくる。一歩、また一歩。


 ふいに、ハイドの足が止まった。

 同時に、イチヤの頭上で、熱風が通り過ぎた。

 ジュウッと、水が一瞬で蒸発する音が聞こえた。


 プリメラが、イチヤの前に回り込んできた。


「プリメラ?」


 イチヤの呼ぶ声に、プリメラは応えない。


 歪むイチヤの視界の中で、プリメラは、ハイドに向って両手を突き出していた。彼女の両手の前には、火球が揺らめいている。


「近寄らないで! 近寄るなら撃ちます!」


 プリメラが叫んだ。彼女の膝は、立っているのも精一杯というくらいに震えている。叫んだ声には涙が混じっていた。


 プリメラの魔術を防いだハイドは、それ以上近付くこともなく立ち止まっている。


 無茶だ。プリメラがハイドと戦えるはずがない。彼がその気になれば、プリメラなど、一瞬で消し炭にできるはずだ。


「馬鹿」


 イチヤの口が、少しだけ回るようになってきた。


「逃げろ、プリメラ。お前が戦える相手じゃない」


 言いつつイチヤは、折れていない右手で近くの木に触れた。太い木に指をめり込ませ、必死に立ち上がる。ダメージはまだ全然抜けていない。それでも、どうにかしなければならない。


 懸命に立ち上がり、イチヤは木に寄り掛かった。これで、なんとか転倒せずに済む。目の前のプリメラに、必死に訴えた。


「逃げろ。俺がなんとか、少しでも時間を稼ぐから」

「嫌です!」


 イチヤからは、プリメラの後ろ姿しか見えない。それでも、彼女がどんな顔をしているのか、はっきりと分かる。恐怖で涙を大量に流している。鼻声になっているから、鼻水も出ているかも知れない。


「私はもう嫌なんです! 自分を守ろうとしてる人を、見殺しになんてしたくない! トーダだけじゃなくイチヤさんのお墓まで作るのなんて、嫌です!」


 臆病なプリメラが、涙を流し、全身を震わせ、ハイドの前に立っている。トーダを見殺しにしてしまった、という傷を抱えて。罪悪感と後悔が、彼女を突き動かしている。


 もしここでイチヤが死ねば、プリメラはさらに傷付くだろう。二人の死に囚われたまま、一生を過ごすことになるかも知れない。


「ハイド」


 木により掛かったまま、プリメラの背中越しで。

 イチヤはハイドに声を掛けた。


「プリメラはどんな顔をしてる?」

「……泣いているね。凄く怯えてるみたいで、全身震えてる」


 イチヤの問いに、ハイドは素直に答えてくれた。よほど余裕があるのか、殺す前に話をしてくれるらしい。今のイチヤにとっては、ありがたいことこの上ない。


「見ての通り、プリメラは臆病な子だ。それに、召喚者とは全然関係ない子だから、殺さなくても問題はない。違うか?」

「そうかもね」

「じゃあ、プリメラだけは見逃してくれないか? それで、できれば、セントロとか王都で生活の基盤ができるまで、助けてやってくれないか? 俺のことは殺してもいいから」

「!?」


 目を見開いて、プリメラがこちらを振り向いた。思った通り、涙で顔がグチャグチャになっていた。鼻水も少し出ている。以前とは違い、失禁はしていないようだが。


「イチヤさん! 何言ってるんですか!?」


 ここでイチヤが殺されれば、プリメラは、トーダに加えてイチヤの死にまで囚われることになる。


 それでもイチヤは、彼女を助けたかった。彼女は、自分を助けてくれた人だから。トーダが命を捨てて守った人だから。


「聞いての通りだ。ハイドの狙いは俺なんだよ。ハイドには、プリメラを殺す理由はないはずだ」

「嫌です!」

「いや、無理だろ。俺じゃ、どうやってもハイドには勝てない。もちろんプリメラも」

「でも!」


「でも」の後に言葉を続けられず、プリメラは押し黙った。涙が流れる目で、イチヤを睨んだまま。


 プリメラの向こうで、ハイドが露骨に溜め息をついた。


※次回更新は8/21を予定しています

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― 新着の感想 ―
そうだよなぁ。 状況的にあの場面の再現だよなぁ。 トラウマが甦って、立ちすくむか、立ち向かうしか道はないよなぁ。
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