第五十二話② 最後の試練(後編)
小さく、マセリアは息を吐いた。ゆっくりと息を吸い、静かに、でも強い口調で言った。
「あなたは私に縛られないで、好きに生きなさい。もし、皇帝陛下の仕事をすることが、あなたの足枷になっているなら。今すぐやめて、望むように生きなさい」
「!?」
レトは目を見開いた。すぐに反論の言葉が出た。
「でも! それだとお母さんが――」
「レト!」
マセリアの声が、レトの話を遮った。
「いい? あなたがどんなに頑張ってくれても、どんなに自分を犠牲にしても、私はあなたよりも先に死ぬ。よほどのことがない限り、親は、子よりも先に死ぬの」
「でも――」
「子供は、親の死を見取ることになる。親を愛しているなら、愛する人を失う辛さを味わうことになる」
レトは、マセリアを生かすために必死だった。大好きだから、失いたくなかった。いつか失うのは、理屈では分かっていた。それでも、ずっと生きていてほしかった。
「私は、あなたのお爺ちゃんとお婆ちゃんを亡くして、大切な人を失う辛さを知った。それは、あなたのお爺ちゃんとお婆ちゃんが与えてくれた、最後の試練なの」
「最後の試練?」
「そう。人は、生きていれば必ず何かを失う。どうでもいいものから、命よりも大切だと思えるものまで。色んなものを失っていく。それでも生きていかないといけない。辛くても生き抜く強さがないといけない。その強さを得るための試練を、親は、自分の死で子に与えるの」
「お母さん……」
「私がレトの生きる道を塞いでるなら、もういいから。手遅れになる前に、自分の生きたいように生きなさい」
「……」
気が付くと、レトの目から涙が零れていた。泣きながら、マセリアの手を強く握り返していた。
母親のことが大好きだ。物心ついたときから二人きりで生きてきた。幼い頃はずっと一緒だった。彼女が仕事のときも、ついていった。レトが少し成長してからは、仕事を手伝うようになった。レトが少しだけ魔術を使えるようになったときは、思い切り誉めてくれた。村では誰も使えない回復魔術を身につけたら、感動して抱き締めてくれた。
大好きなお母さん。
マセリアの手を握りながら。
レトは、もう一人の好きな人を思い浮かべた。生まれて初めて、母親とは別の意味で好きになった人。
イチヤは、レトを抱こうとはしなかった。もちろんそれは、彼が、男性不能だからだろう。では、もし、彼が男性不能でなかったなら。女性を抱ける体だったなら、
イチヤは、どうしただろうか。
たとえ男性不能でなくとも、イチヤは、レトの体を弄んだりはしなかっただろう。手を出す前に、レトの意思を確かめたはずだ。
イチヤは、侵略や略奪のために戦ったりしなかった。戦争をなくすために戦っていた。だからこそ、戦いの最中でも、略奪や蹂躙を許さなかった。
そんなイチヤだからこそ、好きになった。心を体から切り離さなくても、一緒にいられる人だから。一緒にいたい人だから。
先ほどのマセリアの言葉が、レトの頭に蘇った。
『手遅れになる前に、自分の生きたいように生きなさい』
仮に、自分が、イチヤと生きる選択をしたとする。
ロキの意思に反する行動だから、彼はマセリアの治療をやめるだろう。
マセリアを失い、自分にはイチヤだけが残される。
では、イチヤは、自分の気持ちに応えてくれるだろうか。
疑問の答えは、簡単に出た。
イチヤはレトを選ばない。選ぶはずがない。
レトは、サウスウェスト国内の村で、兵士達の暴挙を止めなかった。村人が蹂躙される様子を、戦争だから当然という思考で見ていた。弱い者を弄ぶ行為は、イチヤがもっとも嫌っているのに。
レトは、シュウに――五味秀一に、何度も体を許した。イチヤがもっとも忌み嫌う男に。
マセリアに悟られないよう、レトは、心の中で嘲笑した。自分が、イチヤに好かれるはずがない。好かれる要素が何一つない。
マセリアを見殺しにして、イチヤを選んだとしても。
レトは、イチヤも失うことになる。どんなに少なくとも、彼に好かれることはない。
――それなら……。
イチヤに好かれることがないのなら。
イチヤが他の誰かを好きになり、その人と結ばれる姿を目にするくらいなら。
レトは目を閉じ、小さく息をついた。再び目を開け、マセリアに伝えた。
「大好きだよ、お母さん。本当にありがとう」
※次回更新は8/5を予定しています




