第五十二話① 最後の試練(前編)
朝。
レトは、マセリアと向かい合うようにして朝食を摂っていた。食欲などほとんどなかったが。
ロキにイチヤの生存を知らされてから、三週間ほど経った。
レトはとっくに、旅の準備を済ませていた。準備など二、三日で終わる。ロキに二、三十日で準備をすると伝えたのは、単に、出発を遅らせたかったからだ。
マセリアの側にいる時間を長引かせたかった。イチヤを殺さずに済む方法を考える時間が欲しかった。
目的の一つは達成できた。フロンテーラでの戦いから帰還した後、レトは、十分にマセリアと過ごすことができた。
しかし、もう一つの目的は達成できなかった。イチヤを死なせずに済む方法など、思い浮ばない。
ロキはすでに、イチヤ捜索に着手していた。国王に命じて、イチヤを指名手配した。この短期間で、国中に手配書が回ったという。きっと、どこの都市でも、兵士達がイチヤを探しているだろう。もしかしたら、小さな村にすら手が回っているかも知れない。
イチヤ捜索の手筈が整った。そのことをロキから聞かされたのが、一昨日。
一昨日から、レトはほとんど眠れていなかった。
イチヤを助けたい。でも、彼はもう、戦争に参加できない。召喚者がいなければ、敵国を陥落させることなど不可能だ。敵国を陥落させなければ、マセリアを助けられない。
敵国を陥落させるには、イチヤを殺して次の召喚者を呼び寄せる必要がある。
レトは選択を迫られていた。
生まれて初めて好きになった人か。
自分を産んでくれた大切な母親か。
どちらかの命を選ばなければならない。
好きな人を殺すか。大切な母親を見殺しにするか。
「レト?」
向かいに座っているマセリアが、声をかけてきた。
「どうしたの? 全然食べてないけど。具合悪いの?」
レトは慌てて、笑顔を見せた。強引に作った笑顔。笑顔の仮面の下に、泣きながら苦悩する本心を隠した。
「ううん。大丈夫だよ。ただ、何でか分からないけど、昨日は眠れなくて。ちょっと寝不足なだけ」
「そう」
マセリアの表情が変わった。
レトは、マセリアを、贔屓目抜きに素晴しい母親だと思っている。レトを妊娠しているときに夫を亡くした。それでも心を折ることなく、レトを産んでくれた。レトが産まれてからは、脇目も振らずに育児と仕事をしてくれた。男性からの求婚をすべて断り、レトのためだけに生きてくれた。
そんな母が、どこか寂しそうな顔をしていた。
たぶん、マセリアは気付いている。レトが悩み、苦しんでいることに。苦悩の理由までは分からなくても。
「レト」
マセリアは椅子から立ち、レトの側に来た。椅子に座るレトの前で、両膝を床についた。
「お母さん?」
マセリアは、レトをじっと見つめてきた。真剣な表情。
レトは目を逸らせなかった。誤魔化すように笑うこともできなかった。
「レト、ごめんね。あなたにはずいぶん苦労させたよね。お父さんがいなくて。私がこんな病気になって。私のために、皇帝陛下のところで仕事をして。たぶん、大変な仕事なんでしょう? 大変な仕事じゃないと、皇帝陛下直々に治療をしてくださることに見合わないし」
――大変な仕事?
確かに大変だ。初めてシュウと寝たときは、これ以上ないほどの屈辱と惨めさを感じた。初めて戦いで人を殺したときは、恐怖に震え上がった。自分の体で行う全てのことが、嫌で嫌でたまらなかった。
だから、自分の心を体から切り離した。そうすると、何も感じずに仕事ができるようになった。
自分の体は、利用するだけの無機物。心とは別物。マセリアを助けるために使う道具。
だけど。
シュウが、イチヤを傷付けた男だと知ったときに。
レトの心は、再び自分の体に宿った。心が、体に戻ってしまった。
心が体に戻ると、途端に、涙が出そうになった。イチヤはきっと、シュウの慰み者だったレトを、嫌悪しただろう。クズに体を許した女として。
嫌われたくないと、強く思ってしまった。心の声は、さらに明確な気持ちを吐き出した。
イチヤに好かれたい。
イチヤに好かれたいから、彼のために無茶なことができた。フロンテーラの戦いで、自分の限界まで魔術を駆使できた。体力の限界を、精神力で補えた。
「レト」
マセリアに手を握られて、レトは我に返った。
「何? お母さん」
「私のお願い、聞いてくれる?」
お願いという言葉に似合わず、マセリアには、媚びる様子がなかった。
「私ね、夫を――あなたのお父さんを亡くして、気付いたことがあるの。あなたのお父さんを亡くして、お腹の中に、レトだけが残ったときに」
レトは妊娠したことがない。とはいえ、妊娠中に夫を亡くしたマセリアがどれだけ不安だったかは、理屈では想像できる。出産、仕事、育児。本来なら二人で行うべきことを、これから全て一人でしなければならない。一人で、我が子を育てなければならない。
「夫を亡くして、私は不安だったの。でも、生きないといけない。生きて、あなたを産んで、育てないといけない。正直なところ大変だったし、苦しかったし、悲しかった。でも、乗り越えることができた。夫を亡くす前に、お父さんとお母さん――あなたのお爺ちゃんとお婆ちゃんを亡くしていたから」
そういえば、とレトは思い立った。自分は、祖父母に会ったことがない。マセリアと二人だけの生活が当たり前になっていて、考えたこともなかった。
「私ね、両親を亡くしたとき、凄く塞ぎ込んだの。あなたのお父さんが支えてくれなかったら、どうなっていたか。塞ぎ込んで、落ち込んで、落ち込んで。でも、支えてくれる夫がいたから、なんとか立ち直れた。両親を亡くしたときに学んだことがあるから、夫を亡くしても生きていられた。レトを産んで、育てることができた」
レトの手を握る、マセリアの両手。彼女は、握る手に少しだけ力を込めた。
「あなたのお爺ちゃんとお婆ちゃんを亡くしたことで、私は教えてもらったの。あなたのお爺ちゃんとお婆ちゃんに」
「……何、を?」
聞き返したときに、レトは言葉を噛んでしまった。重大な覚悟が必要なことを、マセリアに言われる気がした。それだけ、マセリアの目は真剣で、強い意志が込められていた。




