第四十七話① 生きていたから、選択しなければならない(前編)
朝起きて食卓部屋に行くと、母が――マセリアがすでに起きていた。テーブルの上には、朝食が並んでいる。
フロンテーラでの戦いで敗走し、ハイディアと共にノースに戻ってきた後。
レトは数日で、故郷であるヒロイーナ村に帰ってきた。
母と再会し、自宅で彼女の世話をし始めてから、三日目の朝。
「あら。おはよう、レト」
柔らかく微笑みながら、マセリアが挨拶をしてきた。
途端に、レトの眠気は覚めた。
「ちょっと、お母さん! 無理しちゃ駄目だよ!」
レトは慌てて、マセリアに駆け寄った。
「私が帰って来てるときくらい、全部私がやるから!」
「大丈夫よ」
とても病人とは思えない様子で、マセリアは笑った。
「皇帝陛下が治療してくれるおかげで、体調はすごくいいの。病気が治ったわけじゃなく、治療の途中らしいけど」
マセリアの体は、病に冒されている。フェイタル病。まだ治療法が確立されていない、不治の病。罹った者は、例外なく死を迎える。
マセリアの病は、皇帝ロキの魔法により沈静化している。彼なら、マセリアの病を治すことも可能だと聞いていた。
とはいえロキは、何の見返りもなくマセリアを治療しているのではない。
ロキが出した治療の条件は、ノース王国がこの大陸の一国を打ち負かすこと。レトが召喚者の付き人となり、戦争で勝利を収めること。
「ほら、レト。座って。一緒に朝ご飯にしましょう」
「……うん」
皇帝が出した治療の条件を、マセリアは、正確には知らない。治療の条件として国のために働く、とだけ伝えていた。戦場に出ていることも知らない。召喚者の付き人をしていることも知らない。召喚者に――前召喚者であるシュウに弄ばれたことも知らない。
マセリアには、何も知られたくなかった。彼女には、何の重荷もなく治療に専念してほしかった。生まれる前に父親を亡くしたレトにとって、たった一人の家族なのだから。溺れるほどの愛情でレトを包みながら、必死に育ててくれた人なのだから。
治療の交換条件をロキに提示されたとき、レトは誓った。マセリアを助けるためなら、何でもする。誰かを殺すことも、自分の心を殺すことも。
向かい合うように座り、マセリアと一緒に食事をした。どんな仕事をしているのかを訊かれたので、当たり障りのない回答をした。
「召喚者様の訓練の手伝いをしてるの。自分で言うのも馬鹿みたいだけど、私の魔術って、国内では最上位のレベルらしいから」
嘘は言っていない。シュウが召喚されたときは、旅の仕方と魔術師相手の戦い方を教えた。実戦訓練にも付き合った。イチヤのときも同じだ。もっとも、イチヤのときは、サウスウェストの侵攻を防ぐため早急に旅に出たが。
シュウが殺され、イチヤが召喚されたとき。
レトは、イチヤを道具としか思っていなかった。マセリアを助けるためには、サウスウェストかサウスイーストを攻め落とす必要がある。敵国を落とすための道具。母を助けるための道具。
たとえ召喚者と寝ても、どうでもいいと思えた。召喚者は、レトにとっての道具に過ぎないのだから。シュウとのセックスは、道具を体に入れただけの行為。
それなのに。
召喚者は、レトにとって道具に過ぎなかったはずなのに。
「レト、大丈夫?」
マセリアが、レトの顔を覗き込んできた。
「うん? 大丈夫だけど?」
誤魔化すように、レトは笑って見せた。
「私、何か変だった?」
「顔色があんまり良くないよ。疲れてる? ちゃんと眠れてる?」
「うん」
嘘である。ここ数日、レトはあまり眠れていなかった。たとえ眠れても、ひどく浅い眠り。
浅い眠りの中で、毎晩悪夢を見た。
イチヤが殺される場面。彼を助けられず、逃走したこと。
レトにとって、召喚者は道具に過ぎなかった。道具に過ぎなかったはずなのに、イチヤは、レトにとって道具ではなくなっていた。
悪夢は、戦いの場面だけではなかった。
以前、イチヤが語っていた。彼が、元の世界で生きる気力を失ったこと。生きる気力を失わせた、二人の人物のこと。
五味秀一と青野千里。
青野千里はチサトと名乗り、サウスウェストの召喚者となっていた。
五味秀一は、シュウという名でノースの召喚者となっていた。イチヤの前の召喚者。イチヤを傷付け、人生を諦めさせるほどの絶望を与えた人物。イチヤにとって、彼自身の仇とも言える人物。
思い出して、レトの胸が痛んだ。
自分は、シュウの慰み者だった。欲求と欲望の捌け口にされていた。
イチヤがもっとも憎んでいる男に。
チサトに聞かされ、イチヤは、シュウが誰なのかを知った。レトが誰と寝ていたのかも、同時に知った。
シュウと寝たことを、イチヤに知られて。
イチヤには知られたくなかったと、強く思った。あの戦いの場で、彼の顔を見るのが恐かった。
イチヤも、レトの顔を見ようとしなかった。
最後に目を合せることもないまま、イチヤを失ってしまった。
「レト?」
マセリアの声が耳に入ってきて。
レトは、頬に流れる生温い感触に気付いた。
もう分かっていた。自分が、イチヤに対してどんな感情を抱いていたか。ハイディアを信頼する彼を見たとき、どれだけ胸が痛かったか。
涙を流すレトを見て、マセリアは、慌てた顔で近付いてきた。
「どうしたの? レト」
「……何でもない。もしかしたら、疲れてるのかも」
辛かった。イチヤを失ったことも、彼に自分の過去を知られたことも。けれど、レトにはどうしようもなかった。マセリアを助けるためには、他に選択肢がなかった。
マセリアはレトの方に腕を伸ばし、ギュッと抱き締めてきた。
「ごめんね、レト」
少し涙が混じった、母の声。自分のために泣いてくれる、母の声。
「私のために無理してるよね。ごめんね」
「ううん、違う」
マセリアの胸の中で、レトは小さく首を振った。
「お母さんのせいじゃない。私が、お母さんを助けたいんだから」
「レト」
レトを抱き締めるマセリアの腕に、力が込められた。
「辛いなら、無理しなくていいんだよ。もうレトは、一人前になった。だから私には、もう思い残すことはない。お父さんもあっちで待ってる。だから、レトが辛いなら、やめてもいいんだよ」
言われた途端に、レトは、マセリアを引き離した。彼女の肩を掴み、じっと目を見つめた。
「そんなこと言わないで、お母さん」
マセリアには長く生きて欲しい。夫を失い、レトを育てるために散々苦労したはずだ。そんな彼女には、幸せに包まれた余生を生きて欲しい。そしてできれば、孫を抱かせてあげたい。
『お母さんが私を一生懸命育ててくれたから、この子が産まれることができたんだよ』
そんなふうに、母を称えたい。
『お母さんが私を大事にしてくれたから、私は幸せになれたんだよ』
そんなふうに、感謝を伝えたい。
「お母さん。私、頑張るから。だから、お母さんも頑張って。長く生きて」
「……うん」
申し訳なさそうに、でもどこか嬉しそうに、マセリアは頷いた。
「心配させてごめんね、お母さん。私なら大丈夫だから。朝ご飯、食べちゃおう」
「……そうだね」
マセリアは自分の席に戻り、朝食の続きを始めた。
――コン、コン。
食べている途中で、この家のドアがノックされた。
「お客さん?」
「今日は誰かが来る予定はないけど」
言いながら、マセリアは立ち上がった。家の出入り口に足を運ぶ。ドアは、食卓部屋から見える位置にある。ドアを開けたら、レトの位置からでも来客が誰なのか確認できる。
マセリアがドアを開けた。
ドアの向こうにいたのは、茶色がかった金髪の男だった。魔術師のようなローブを着ている。体はそれほど大きくない。中肉中背という言葉がぴったりと当てはまる体格。一見すると、ただの平凡な男。
けれど、レトは知っている。この男が、決して平凡ではないことを。三国の建国以前から生き続け、魔術とは異なる魔法を使い、さらに身体能力にも優れた人間。いや、人間ではないだろう。彼は、人族でもエルフでも、ドワーフでもない。
皇帝ロキ。レトに召喚者の付き人を命じ、その見返りとしてマセリアの治療をしている。ノースが他二国のどちらかを征服できたら、マセリアの病を治すと約束した男。




