第四十六話 生への執着
何日間、サウスウェスト国内を歩き回っただろうか。
途中で襲ってきた獣を一刀両断にし、その血と肉を貪った。切り倒した木の葉を口にし、水分を補給した。
フロンテーラの戦いで敗走してから何日経ったのかなんて、イチヤには、もう分からなかった。
体中に負った切り傷や刺し傷は、すでに異臭を放ち始めている。本格的に治療しなければ、壊死するだろう。傷口から血や膿が滲み出て、やがて固まる。しかし、動くことで固まった血や膿が裂け、また傷口が開く。その繰り返し。
現実味を帯びてくる、自分の死。
生きる目的を見つけ、死に抵抗する心。
苦痛と戦いながら歩き続け、イチヤは、ようやく国境に辿り着いた。二国の間に流れる、デルパイース川。
今は丁度昼頃だろう。雲一つない空。強い日差し。
国境にある待機所には、未だに、敵国の兵が補充されていなかった。完全な無人だ。サウスウェスト側も、今回の戦いで少なくない犠牲が出たのだ。ノース軍を返り討ちにした後、体勢を立て直しているのだろう。
とはいえ、国境の警備は、戦争中であれば最優先で補充すべき箇所だ。そこが補充されていないということは、フロンテーラの戦いからそれほど日が経っていないことを意味する。
――あれから一週間とか。長くても二週間か。
自分が歩き続けた期間を、イチヤはそのくらいだと推測した。
川岸まで歩く。
目の前を、川が流れている。水深は一メートルほど。川幅は、概ね二十五メートルくらい。普段のイチヤなら、問題なく渡れる。
普段のイチヤであれば。
今のイチヤは、体力を著しく失っている。さらに、全身に傷を負い、本来の身体能力を発揮することはできない。
もし、川を渡っている途中で足を滑らせたら。
あっという間に流され、溺れ死ぬだろう。泳いで対岸まで渡ることなど、今の自分では不可能だ。
川の中に入ったら、川底に剣を突き立てよう。自分の体を支えながら、慎重に、一歩ずつ進むんだ。
イチヤは大きく息を吸い込み、川の中に足を踏み入れた。
水の流れが、恐ろしく強く感じた。剣を突き立て、足を踏ん張らなければ、一気に流されてしまう。前に進む一歩一歩が、命懸けだった。
水流を受けた傷口が、ひどく痛んだ。染みる、なんて程度じゃない。重く、深く、鋭い痛み。あまりの痛みに、吐き気すら催した。
水の力を感じながら、一歩、一歩、慎重に足を進めた。
川幅の半分くらいのところで、息が切れ始めた。
顔にかかる水が呼吸の邪魔をして、さらに体力を奪ってゆく。
――俺は死なない。
自分を鼓舞するように、胸中で繰り返した。
――俺は生きる。
死に足掻く心が、イチヤを動かしていた。
やがて、なんとか対岸に辿り着いた。ノース王国に戻ってきた。
川を渡るのに、恐らくは一時間ほどかかっただろう。それでもまだ、日差しは強い。
前方一キロメートルほどの場所に、フロンティアが見える。ノースの城塞都市。国家の城壁とも言える都市。
常識的に考えるなら、フロンティアに向い、早急に治療をすべきだ。フロンティアになら、回復魔術を使える魔術師も多くいるだろう。もしかしたら、レトも逃げ延びて、フロンティアに戻っているかも知れない。
でも、駄目だ。フロンティアには戻れない。
イチヤは、自分の立場を理解していた。
自分は、自軍の兵士の蛮行を止めた。反抗した兵士の一人を斬り捨てた。
自分の行動が間違っているとは思っていない。敵国とはいえ、戦いに無関係な人達を蹂躙するなど、許されるはずがない。
だが、善悪の価値観など、敗戦という事実の前では脆いものだ。今回の敗因は自分にあると、イチヤは分かっている。欲望を満たせず戦いのモチベーションを失った兵士達は、早々に逃亡した。命を賭けて戦う価値などない、と判断して。
では、敗因となった自分がフロンティアに戻ったら、どうなるか。
答えは、火を見るより明らかだった。
敗戦の汚名を、全て自分一人で被ることになる。治療など望めない。下手をすれば殺される。
――どうすればいい?
敵国から逃げることはできた。しかし、このまま治療もできなければ、どんどん体力を失ってゆく。いずれ力尽きる。
――結局、俺はこのまま死ぬのか?
自問した。自問しながら、生き延びる方法を考えた。回復魔術で治療できなくても、せめて、しっかりと体を休めたい。体を休めることができれば、自分の体力と回復力で生き残ることができるかも知れない。
しっかりと休息を取れる場所はないか。仮眠ではなく、安心して熟睡できる場所はないか。
考えて、考えて、考えて。
イチヤは思い出した。
レトと共にフロンティアに行く前。いくつかの村を、サウスウェスト軍から解放した。どの村も、イチヤを英雄のように称えてくれた。
助け出した村なら、もしかしたら、安眠できる寝床くらいは提供してくれるかも知れない。もちろん、そういった村にまで敗戦の情報が伝わっていたら、もうどうしようもないが。
とはいえ、生き残る方法が村に行くことだけなら、行くしかない。
――ここから一番近いのは……。
考えて、思い出した。イニシオ村だ。一人の少女を、命懸けで守った少年がいた村。守られた少女は、少年の墓を作っていた。
少女の名はプリメラといったか。プリメラを守って息絶えた少年は、確かトーダという名前だった。
イチヤは再び歩き始めた。濡れて開いた傷口から、血が流れている。ジクジクとした、重く鋭い痛み。ポタリポタリと落ちる血。
森の街道に入り、レトと歩いた記憶を頼りに歩き続けた。昼間なのは幸いだった。山賊が出やすいのは夜だ。普段なら山賊などものの数ではないが、今のイチヤでは、たった一人の山賊が相手でも殺される可能性がある。
川を渡った際に濡れた体は、もう乾いていた。傷が痛むだけではなく、全身が火照っていた。間違いなく発熱している。体中に傷を負い、化膿しているからだ。全身が、傷を腐敗させる細菌と戦っているのだ。
一時間ほど歩くと、目眩がしてきた。
二時間ほど足を進めた頃には、目が霞んできた。
三時間ほど経った頃には、意識が朦朧としてきた。
いつの間にか、時間のことなど考えられなくなっていた。
ただ必死だった。夜になる前に村に着きたい。今山賊に襲われたら、ひとたまりもない。
真上にあった太陽が傾き、日差しが少しずつ弱くなってゆく。
白く見える太陽の光が、赤みを帯びてゆく。
やがて、夕日で周囲がオレンジ色に染まる頃。
イチヤは、イニシオ村に着いた。
ぼやける視界で村の外観を見て。
イチヤの気持ちは、急激に緩んだ。安心し、緊張が解けたのだと自覚できた。それでも、まだ休むわけにはいかない。村の中に入らないと。
ふらつき、真っ直ぐ進むことすら難しくなってきた足。まるで鉛のように重い足。一歩一歩、体力を削りながら進める。
村の中に入った。視界がもう不明瞭になっていて、周囲の景色がはっきりと見えない。茶色と緑に覆われた場所に、人が数人いるように見える。農作業をしている人だろうか。
ここから助けを求めるには、どうしたらいいだろうか。村長の家に行けばいいのだろうか。
そういえば、村長の家はどの辺りにあったっけ?
意識が朦朧として、記憶を引き出せない。以前ここに来たときは、村長の家の場所をはっきりと覚えていたはずなのに。
プリメラを守るためにトーダが戦い、息絶えた場所。勇気ある少年が、好きな少女に見守られながら、永遠の眠りについた場所。
印象深い出来事があった場所なのに、どこにあるか思い出せない。
「――?」
誰かの声が耳に届いてきた。けれど、正確な音の位置を判別できない。
視界が揺らぐ。もう、目もはっきりと見えない。
「――!」
耳に届く声が、大きくなってきた。けれど、何を言っているのかも分からない。
「――!!」
グラリと、体が揺れた。衝撃が体に走った。体を支えられなくなり、倒れたのだ。
さすがに、もう駄目かも知れない。
自分の状態がどれだけ深刻か、はっきりと悟った。それでもイチヤは、生に執着した。
死んでたまるか。
絶対に死ぬもんか。
この世界で、やりたいことができたんだ。
生きる意思がなかったあの頃とは、もう違うんだ。
命を繋ぎ止める言葉を、何度も何度も胸中で繰り返しながら。
イチヤの意識は、ゆっくりと闇に落ちた。
※次回更新は7/24を予定しています




