第四十二話 好きだよ
フィルスタがハイドと出会って、一年ほどが経った。
ペリフェリア村では、十二歳以上の者に仕事が割り当てられる。農作業や家畜の世話、村の家の修理など、仕事は多岐に渡る。
身体能力や魔術に長けた者には、狩りの仕事が加わる。もっとも、狩りには危険が伴う。だからこそ、狩りに出る者には、他の者に比べて多くの休暇が与えられる。
フィルスタの魔術は、この一年で格段に上達した。狩りには欠かせない人材となった。狩りに出る頻度は、村で一番多くなった。その分だけ、他の者より多くの休暇が与えられるようになった。七日に三日の休暇。
休暇の前日の夜になると、フィルスタは、必ずハイドに会いに行った。当初の予定では、七日に一回ほど密会をするつもりだった。その回数は、フィルスタの休暇に合わせて増えた。今では、七日に三日――ほぼ二日に一回ほどのペースで会っている。
村の人達は、フィルスタが村を抜け出していることに気付いていない。日が暮れ、各自が仕事を終えて家に帰ると、家から出る者はほとんどいない。村を抜け出すのは、それほど難しいことではなかった。
村を抜けて、森の中に入る。少し離れたところで、ハイドと待ち合わせる。彼の家は少し遠いから、近くの森の中で、二人で過ごす。雨が降っているときは、彼が、土の魔術でテントを作ってくれた。何度会っても、飽きがくることはなかった。たとえ会話が途切れても、体を寄せ合い、体温を感じているだけでよかった。
密会しているときに、肉食獣に襲われたことがあった。
ハイドはあっさりと、肉食獣を返り討ちにしていた。出会った日に、彼自身が言っていた。肉食獣に襲われても問題ない、と。その通りだった。彼の圧倒的な能力に、ただただ驚かされた。
ハイドの凄さは、単純な強さだけではなかった。色んなことを知っていた。この大陸――トレフォイル大陸というらしい――の三国が戦争を始めた時期。ペリフェリア村の近くを流れる川が国境となっており、この深く広い川が、他国に攻めにくい要因となっていること。それでも船を使って攻め込み、戦争が少しだけ激化したこと。でも、結局は、三国とも他国に制圧されず、現状に至っていること。
ハイドの知識は、戦争のことだけではなかった。魔術の効果的な使い方も教えてくれた。魔術は、発動から発射まで多少の時間がかかる――溜めがある――のだが、その時間をより短縮する方法。
フィルスタは、この一年で、魔術の腕も狩りの腕も格段に上達した。それは明らかに、ハイドの教えの賜だった。
ハイドと出会った日。
フィルスタは、初めて会う村人以外の人間に、興奮を抑え切れなかった。彼の能力に驚き、同時に、自分の能力を自虐的に語る彼に、関心を持った。また彼に会いたくなった。村まで送り届けてもらったとき、彼に手を握られた。彼の手を離したくなかった。また会う約束をした。
約束の日に、約束通りに、約束の場所で、再びハイドに会えて。
フィルスタの胸は高鳴った。まだたった二回しか会っていないのに、村人の誰よりも心が惹かれた。
ハイドに出会って半年ほどは、彼への気持ちの正体が分からなかった。ただ会いたい。ただ一緒にいたい。できれば会話を交わしたい。手を繋ぎたい。もっと傍にいたい。手だけではなく、体のいたるところで、彼に触れていたい。
ハイドに会っているときは、時間があっという間に過ぎた。また会えるのに、別れるのが寂しかった。帰り道で手を繋ぎながら、何度も思った。このまま手を離したくない、と。
ほんの一ヶ月ほど前に、フィルスタは、ようやく答えに辿り着いた。ハイドへの気持ちが何なのか。どんな想いなのか。
――私は、ハイドが好きなんだ。
ハイドに出会う前。
フィルスタには、将来の夢があった。いつか村を出て、街に行ってみたい。閉鎖的な村で一生を終えるのではなく、広い世界に出たい。そして、恋というものをしてみたい。初恋への憧れ。誰かを好きになりたい。
夢のひとつが叶ったことを知った。
でも、夢が叶っても、フィルスタは嬉しくなかった。
むしろ、夢が叶ったからこそ苦しかった。
会えない時間が苦しい。会っても、別れの時間がくると苦しい。会っている時間も、ハイドが何を思っているのか分からなくて苦しい。自分のことをどう想っているのか分からなくて、苦しい。
好きだと伝えたかった。
それなのに、伝えられなかった。
拒絶されるのが、どうしようもなく恐かった。
もし拒絶されたら、ハイドは二度と会ってくれないかも知れない。重すぎるほどの不安が、フィルスタの気持ちにブレーキを掛けていた。
とはいえ、フィルスタのブレーキは、もう壊れかけていた。会えば会うほど、想いが募っていった。ブレーキの軋む音が、耳の奥にまで聞えてきそうだった。
出会った日のハイドの言葉が、壊れかけのブレーキをなんとか機能させていた。
『俺も一時期は、街で暮してたことがあったんだ。でも、一人で生きる方が楽だから、森の中で生活してるんだ』
ハイドは一人で生きたいのだ。たとえフィルスタと会っていても。同じ時間を過ごしていても。
――私と会ってくれてるのは――
たぶん、ハイドにとっては、ただの暇潰し。
だから、この気持ちを伝えてはいけない。
一方で、フィルスタのブレーキを壊そうとするものがあった。同じように、出会った日のハイドの言葉。
『どんなことがあっても、フィルと会う場所に行く。そこで、ずっと待っている。もし約束の場所にフィルが来なかったら、俺から村に押し掛ける』
ハイドも、会えることを楽しみにしてくれているのだろうか。
会っている時間は、彼にとっても過ぎるのが早いのだろうか。
別れるときは、名残惜しさで悲しくなるのだろうか。
フィルスタの中で、繰り返される自問。
ブレーキをかける気持ちと、ブレーキを壊す気持ち。
二つの気持ちが、何度も何度もせめぎ合って。
ハイドに会うたびに、想いを口にしそうになって。声が出る前に、唇を結んで。
今日も、ハイドと会った。暗くなってから村を抜け出し、いつもの場所で待ち合わせをした。
月明かりに照らされながら、大きな木により掛かって、二人で並んで座って。
肩と肩を触れ合わせながら、静かに語り合って。
気が付くと、空に明るさが出てきて。
今日もまた、お別れ時間がきて。
手を繋いで、待ち合わせた場所まで二人で戻って。
手を繋いだまま、少しだけ見つめ合って。
ハイドがこちらを見ていて。
フィルスタもハイドを見つめて。
今まで、フィルスタの気持ちを止めていたブレーキ。
きっかけなどなかった。きっかけなどなく、突然、ブレーキが壊れた。ポキンッと、壊れる音がした。もしかしたら、もう限界だったのかも知れない。
約束だけを頼りに離れるのが、もう嫌になっていたのかも知れない。
「ハイド」
彼の手を握ったまま、フィルスタは口を開いた。もう会えなくなることへの覚悟は、湧き出てこなかった。
「ハイドは、まだ一人で生きていたい?」
繋がれた手。離したくない手。
「一人で生きなきゃ駄目? 二人になっちゃ駄目?」
ハイドは一瞬だけ、目を見開いた。すぐに、目を細めた。どこか悲しそうな顔だった。まるで、幸せな夢から覚めたような。
手を離さないまま、ハイドは目を逸らした。
かすかに明るんできている空。木々の間から、わずかに差し込む光。
光が、ハイドの顔を照らしていた。目元が光っているように見えた。少しでも気を抜いたら、涙が零れそうな目。
ほんの数秒前まで、フィルスタは、恐さを感じていなかった。ハイドに会えなくなるかも知れない、という恐さ。それなのに、急に恐くなった。心臓がバクバクと音を立て始めた。
口を開いて、何かを言おうとした。でも、声が出なかった。恐くて、次の言葉が出せない。フィルスタは、繋いだ手に少しだけ力を込めた。離れたくないと、行動で意思表示をした。
ハイドの視線が、フィルスタの方へ戻ってきた。相変わらず、瞳が潤んでいた。切なげで、どこか迷っていそうで。そんな彼の目。
「フィル」
ハイドの口から、声が出た。どこか辛そうな声だった。
「七日だけ、返事を待って欲しい」
フィルスタの胸が、ギュッと痛んだ。
――ちゃんと会いに来てくれる? 返事を訊かせてくれる?
縋り付いてでも、そう訊きたかった。それなのに、フィルスタは、やはり声を出せなかった。胸が痛い。たまらなく痛い。
潤んだ目のまま、ハイドは優しく微笑んでくれた。どこか悲しそうな顔のままで。
「どんなことがあっても、必ず待ち合わせの場所に行くよ。フィルが遅れても、来てくれるまで待ってる。もしフィルが来なかったら、村まで押し掛ける。約束する」
出会った日と同じようなセリフを、ハイドが口にした。どんな答えを出したとしても、誠実に告げる。彼の言葉の行間を、はっきりと聞き取れた気がした。
ハイドの言葉を聞いた瞬間に、フィルスタの恐怖が消えた。ただ、覚悟ができた。ハイドがどんな答えを出しても、受け止める覚悟。
「うん」
ようやくフィルスタは、声を出せるようになった。
「約束だよ」
「うん。約束する」
フィルスタは、少しだけ手から力を抜いた。ゆっくりと、繋いだ手をほどいていった。
二人の手が離れた。
「今日はここまででいいよ、ハイド」
いつも別れる場所は、もう少し先。ほんの数分の距離。いつもなら、ほんの少しでも長く彼といたい。
でも、今日は違った。
気まずいから早く別れたいのではない。フィルスタは、彼に、彼自身が納得できる答えを出して欲しかった。そのために、少しでも多くの時間を使って欲しかった。
手を離して、向かい合って。
フィルスタは、呼吸をするのと同じくらい自然に、自分の気持ちを声にした。
「好きだよ」
ハイドへの気持ちが、フィルスタの初恋。ずっと抱きたかった気持ち。誰かを、誰よりも想う気持ち。
「大好きだよ、ハイド」
ハイドは複雑な顔をしていた。嬉しそうで、それでいて悲しそうで。相反する二つの気持ちが、彼の表情に出ていた。
ハイドがどうしてこんな顔をしているのか、フィルスタには分からない。でも、きっと、七日後には分かるはずだ。たとえ彼が、どんな答えを出したとしても。
「じゃあ、また、ね」
言って、フィルスタはきびすを返した。
別れるときは、いつも、何度もハイドの方を振り返っていた。けれど、今日は振り返らなかった。もし彼が一緒にいてくれるなら、これからずっと見ていられるから。もし彼が別れを望むなら、未練を少しでもなくしたいから。
――フィルスタは想像もしていなかった。結末が、別れるでもなく、別れないでもないことを。
ペリフェリア村のすぐ近くを流れる、デルパイース川。広く深く、他国への侵攻を困難にしている川。
サウスイーストが、あの川を越えてくるなんて。
サウスイーストの兵が、村に侵攻してくるなんて。
フィルスタは、想像もしていなかった。
※次回更新は7/16を予定しています




